「届けたい、ですか」
何を、とは言わなくても分かる。ハクが初音ミクである以上、かいとの音に負けない歌を歌ったということ、つまり想いを伝えたかったのだろう。しかし何の想いを、誰に伝えたいのかはミクには分からない。分かるわけがないのだ。
ハクはゴクッとまた酒を飲み干した。
「みんなの夢や希望が絶対叶うと言うために、まずはあたしがその見本を見せなくちゃならないって思ったのさ。あたしの夢はね、ミク、あんたのマスターに想いを届けることだったんだ」
「マス……ター……に……?」
頭の回路が瞬間で焼きあがるような錯覚を覚え、ミクは体重移動に任せるまま机に突っ伏した。顔には青いエフェクトが出ているようにも見える。
マスター、主人。このように電子生命体として創られた以上は当然存在するはずの存在をミクは思い出すことが出来ない。まるで記憶のポケットの下に穴があり、すっぽ抜けてしまうように手応えがない。そのことが不安で不安で仕方がない。
だからミクは、思い出すことも出来ないマスターが居るものと仮定した上で、
「ハクは……私のマスターとお知り合いなのですか?」
「知り合い……か。まぁそんなもんさ、あっちがあたしなんかを覚えてるかは知らないけどね」
ハクは寂しそうにそう言い、そして酒を飲む手を休めた。
微妙な沈黙が流れる。ミクはいつもより早い自分の鼓動の音を聞きながらその沈黙を耐えるが、それにしても長すぎた。とても耐えることが出来ないくらいに。
――しかし、何を話せば良いかが分からない。普通に話を続けるにしろ、普通に話を変えるにしろ、普通に何かしようとすることが出来ない。壊れているミクにはまず普通というものがなんなのか、それを理解することが出来ないからだ。
沈黙は重いまま、時間だけが軽やかに進んでいく。
「……会いたいかい?」ボソリと聞き取れるか聞き取れないかというハクの声、「あんたのマスターに」
「会えるの……ですか?」
「本人は難しいけど、気休め程度のものなら簡単に会える」
ハクはいくつも並べられているツボの中で蓋がしてあるものに近付き蓋を取る。
中にはぐちゃぐちゃと乱雑に煌びやかな衣装やマイク、果ては化粧道具や生活用具が放り込まれていた。ハクはその中に手を差し込みグリグリと手を奥に押し進めていき、何かを探すように奥の目に見えにくい場所を手探る。そして見つけたようで手は引き抜かれた。
探すときに化粧か生活用具か分からないが、彩る為の何かに腕が触れていたのか腕には縦一線に艶めかしい赤が走っていた。それよりもミクの目を引き付けたのはその手に握られた、誰とも分からない人間の写真だ。満面の笑みを浮かべたその人を見るとミク自身も嬉しい気持ちになっていた。そして、まるで意図的に切り取られたかのような跡が、そのマスターが伸ばす手の先の端にある。
「知り合いだからたまたま貰ったのが、あたしと一緒に廃棄《アンインストール》されてここに落とされ、あたしが偶然見つけて持ってきた数少ないかつてのあたしの名残さ」
「ではそれが……」
「あぁあんたのマスターさ、可愛い少年だったけど、今はもう親父さんだろうね。なんせ廃棄《アンインストール》から十八年と三ヶ月の時が経ってるんだからね。元気にしているのだろうかね」
目を細めるハク、その目には遠い過去が映し出されているのだろう。
「ミク、あんたは壊れてでも、バグっても届けたい想いはあるかい?」
弱音ハクと呼ばれる自分のような奴になる勇気はあるのかい、そうとも取れる質問。答えを聞いて何をするのかなんてミクには分からない。
ミクは考えた。自分にそんなことが出来るのかと。でもきっとミクに――、自分に答えを出すことは出来ないことは分かっている。
「分かりません」はっきりと答えを言ってから、「けれどきっとある、私はそう想います」
「そうかい」
ハクは答えを聞いて、酒を飲むのを再開する。もうこれ以上は何も話さないとでも言うようだ、いや、事実そうなのだろう。
ミクは焼き切れるような頭をどうにか働かせて立ち上がった。とりあえず、部屋を出たかったのだ。
ハクはそんなミクに言う。
「あげたチケット、使いなよ。もしかしたら何か見つかるかも知れないからね」
「分かりました。ありがとう」
ぺこりともお礼せずにミクは部屋を出て行く。来た道をそのまま戻ってカウンターまで戻ってきた。
やはり人はまったくおらず、カウンターの向こうにがくぽが立ってコップを磨いてるばかりだった。
「話は終わったで御座るか?」
「うん。これからルカのライブに行ってくる」
「そうで御座るか。なら出てすぐの道を中心部に向けて行くと良いで御座る。ルカのライブはその内見えてくるで御座るから」
「ありがとう」
ミクは身を翻し、出口へと向かった。
「初音ミクはあなたであり弱音ハクで御座る。それでもあなたは初音ミクであり続けるで御座るか?」
その背中にがくぽは問いかけた。楽しそうに。
「――分からない」
反響は響いた。しかし足音は止まらなかった。
♪ ♪
アルコール度数が最高の酒を抱えるほどのツボいっぱいすべて飲み終えたハクは、どこか懐かしさを含んだ風情でリズムをとっていた。
――フッフフッフフフーフフフフー♪ フーフフーフフフフフーフーフフフ♪ フッフフッフフフーフフフフー♪――
それはいつだったか歌っていたことのある曲だ。最初に歌い、次の曲を歌う前にバグで廃棄《アンインストール》された哀れなボーカロイドの歌えるたった一つきりの歌、今でも誰のために歌っていたか覚えている歌だ。
頭の回路がグチュグチュと不快に蠢いているような錯覚を覚える。久しぶりの感覚、長いこと歌っていなかったことを思い知らされる痛み、そして歌から遠ざかっていた原因の痛み。絶対に直らない最悪のバグ。
「拙者昔を思い出したで御座る」
いまだ酒の入ったツボの縁に鎮座していたハクに、がくぽは話しかけた。死んだ魚のような目と、水を得た魚のような目が交錯した。
「あのミクは、昔のあなたにそっくりで御座る。違うところといえば、あのミクは歌おうとはしてないところで御座るな」
「それは違う」ハクはぐったりとうなだれるようにして、「歌う目的を、まだ見つけられてないのさ」
ハクはグビッと新たな酒のツボから酒を汲み上げて飲んだ。不快な痛みが少しは和らいだのか心持ち生気が戻っている。
歌う目的、か。ハクはボソリと呟いた。
「あたしはみんなの想いを届けられなかった。……けど、やっぱりあたしは歌いたい」
「ハク? 何を言ってるで御座るか?」
「がくぽ、頼みがある。聞き入れてくれるかい?」
がくぽは押し黙り、嬉々として先を促す。
それを受けてハクはおもむろに服を、そしてスカートを脱ぎ捨てた。豊満な胸と艶めかしいラインが生で表れる。電子生命体とは言え、完璧なラインに流石のがくぽでもほうっと息を洩らした。
「抱けとでも言われるので御座るか?」
「あたしなんかの体じゃ満足出来んだろ。違うさ。あたしの服を作って欲しい、舞台用のとびきりのやつをね。それからかいと、BRS《ビーアールエス》を呼んでくれないかい」
「……まさか、自分を壊すおつもりで御座るか? 拙者がそんなことさせると?」
「させるに決まってる。そんな笑顔をしているからな」
ニヤッと不敵に笑うハクに降参とばかりに手を挙げる。それから壁に取り付けてある電話でどこかに連絡して、かいととBRS《ビーアールエス》を捕まえてくるように命令する。電話の向こうではかいとはともかくBRS《ビーアールエス》の名前が出た瞬間、動揺が伝わっているようだ。
「さて、計測するで御座る」
「じろじろ見ても欲情出来ないからね、そんな体は持ち合わせてない」
「はぁはぁで御座る。たまらんで御座るなこの贅肉」
会話と呼べるかどうかも怪しい言葉を紡ぎながら、テキパキとバスト、ウエスト、ヒップを計るがくぽ。十三年前よりも確実に差が大きくなっているそれらに感心しながらも、次はどんな衣装をしたて上げたものかと考える。
ああそうだ、この髪のように真っ白な、何も装飾のない服にしよう。
「終わったで御座るよ。随分成長したで御座るな、十三年とはこんなに長いので御座るか」
「さぁね、あたしは時間の感覚が壊れちまったから分からんよ。酒の減り具合で時間の感覚を決めてるから」
ハクはおもむろに酒ツボをそのまま持ち上げ、その縁に口を付ける。それをそのまま傾けて酒を浴びるように、――否、浴びるついでに飲む。酒が口から顎のラインを通り、首から鎖骨、一部乳頭を通るがだいたいは谷間を通り、適度にスリムなお腹を通り足へ。やがて床にたどり着く。そして、酒の通った痕がシュウシュウと音を立てて煙を吐き出している。まるで毒に侵されるように。
「あんまりすると体が溶けるで御座るよ。わざわざ毒の強いデータを酒にしているんで御座るから」
「たった一回くらい平気さ。それに歌えるなら体なんてどうでもいい」
「体がないと歌えないで御座る」
「そう、だから体は消したりはしないんだ」
「そうで御座るな。――で、いきなりライブするには会場がない上に、人も集まらんで御座る。どうするつもりで御座るか?」
「会場なんて乗っ取れば良い、なら人は集まってる。誰のライブを乗っ取るかは分かるだろ? あたしなんかが乗っ取っていい奴のライブなんかじゃないんだけど、時間がないからそうも言ってられないんだ」
「彼女は喜ぶと思うで御座る」
ニッと今度は二人で笑う。
それからがくぽは服を作るために出ていった。
「あたしの歌、届けてくれよ、ミク」
ハクは肌を剥き出しにしたまま、椅子に座り、机に伏せるようにして眠りについた。
ほんのちょっと、休憩するために。