隅田川沿いに十数号棟まである大規模な集合住宅が存在する
それはまるで、遠くから見ると巨大な壁が聳えているような威容
いつものように、まだ日が昇る前からそこへと自転車を走らせる
ああ、未明に活動しているからといって別に怪しい事をしている訳ではない
ただ単に、仕事が新聞配達だというだけだ
この大きな団地が配達順路の一番最初
籠も荷台もまだ新聞が満載の状態だ
自転車を壁際に寄せてスタンドを下ろし、細身の女性より重いのではなかろうかという車体を持ち上げるようにタイヤの下へスタンドを滑り込ませる
それから必要部数を抱えて棟内へ
一号棟、二号棟と、淡々とドアポストに紙束を突き刺していく
面倒臭い⋯⋯
この二棟合わせて配るのは十部にも満たないのに、建物が十三階もあるせいで廊下と階段を走り回らなくてはいけない
平屋なら自転車から降りるまでもなくどんどん『荷物』が減っていくというのに
そして次の三号棟
ここがさらに憂鬱だ
自転車を停め、前の籠から一部だけを抜き取ってエレベーターへ向かう
そう、三号棟は契約している家が最上階のたった一軒だけなのだ
新聞を取ってくれる家庭があるおかげで飯が食えている事を思えば実に不謹慎だが、ここの契約が切れれば三号棟を素通り出来て楽なのにと、どうしても考えてしまう
しかもタイミングが悪い事に、今日はエレベーターが一階に止まっていなかった
内心で悪態をつきつつ呼ボタンを押す
⋯⋯⋯⋯
この待つ時間がひどくもどかしい
新聞配達は一分一秒のずれが後々大きな遅れになる事もあり、それが即クレームに繋がってしまう
誰しも、朝起きたらポストに新聞が届いているのが当たり前だと思っているからだ
と、心が不満でいっぱいになったところでようやくエレベーターが来た
開いたドアの向こうにはがらんとした空間のみで誰も乗っていない
まあ、だからどうという事も無いが
さっさと乗り込み、ボタンを押して目的階への到着を待つ
このエレベーターでの待ち時間、ニュース欄の端に小さく枠を切ってあるコラムに目を通すのがすっかり習慣になっていた
⋯⋯今日は面白い話じゃないな
お宅の庭先のツツジなんかどうでもいいよ
搭乗者がそんな事をしている間もエレベーターは勤勉に仕事をこなし、途中で止まる事なくスムーズに昇りドアを開いてくれた
最下階から一気に昇れると気持ちがいい
ゴンドラを降りながら、たったこれだけの事で少し気が晴れた自分の単純さに薄く笑みを浮かべてしまう
新聞配達は孤独な仕事
人目を気にしなくなっているから、内心が表に出やすくなる
必然、どうしてもこんな怪しげな所作動作が多くなりがちで困っている
おっと、とにかく今は仕事だ
一人でにやけている場合じゃない
エレベーターからの距離はもう体に染み付いているが、念のため部屋番号を確認
並行して手を動かし扉の穴へ新聞をねじ込む
初めはもたついていたこの作業も、今では一秒もかからなくなった
慣れや反復というのは恐ろしいものだ
エレベーターのドアが自動で閉まるより早く戻れるようになってしまったのだから
ばたばたと大きな足音をさせながら減速しつつ、けたたましく搭乗
振り向きすらせず閉ボタンを叩く
これも反復の賜物
もはやボタンの位置まで体が覚えている
これは、今までで最速タイムじゃないか?
ドアが閉まる音を聞きながら、また一人ほくそ笑む
先程から不審な行動ばかりしていると思われるだろうが、どうか大目に見て欲しい
繰り返すが、新聞配達は孤独な仕事
こうやって何かしら楽しみを見つけながらでないと、やってられないのだ
⋯⋯あっ
軽く乱れた息を整えてから振り向き、再びドアが開くのを待とうと思った矢先に気がついた
窓の外が動いていない
閉ボタンは押したが、肝心の目的階ボタンを押していなかった
間抜けすぎる
自分のスピードに酔いしれて、ボタンを押し忘れるなんて
折角の最速タイムをふいにしてしまった
誰も見ていない機内で一人羞恥を覚えつつ、改めてボタンに手を伸ばす
と、モーターが動き出す音
まだボタンには触れていない
という事は、他の階で誰かが呼ボタンを押したのか
気づくのがほんの一瞬遅かった
しかも腹立たしい事に、自分を乗せたゴンドラは上昇していく
今日は本当にタイミングが合わない
たった一フロア上がった所でエレベーターは止まった
ドアが開く
⋯⋯誰も乗って来ない?
顔を覗かせ見回すが、そこに人影は無かった
眉間に皺が寄る
苛立ち紛れに閉ボタンを連打
今度こそ間違いなく一階へ向かわせる
まだむかむかは治らない
大方、他の新聞屋が上階にいたのだろう
こんな時間にエレベーターを使うのは、ほぼ同業者しかいない
そして、呼ボタンを押したくせに待ちきれなくなり、階段で降りていったのだ
同業他社のせいでこの後のペースアップを余儀なくされた事に憤りながらエレベーターを荒々しく降り、自転車に飛び乗る
「えっ!」
走り出そうとしたところで、思わず大声を上げてしまった
⋯⋯⋯⋯
しばらく考え込み、急いでもう一度三号棟へ戻る
エレベーターはまだ一階にいた
呼ボタンを押してドアを開ける
わずかに逡巡した
しかし、背に腹は代えられないとドアが閉まる寸前に慌てて乗り込み
目的階へと昇る間、食い入るようにボタンが並ぶパネルを見る
無い
あれが無い
どこにも無い
どうなってる
どうなってる
どうなってる
同じ言葉を脳内で羅列しながら、さっき来たばかりの契約者の部屋の前に再び到着
「は、入ってる⋯⋯」
そこには、自分がねじ込んだ新聞が突き刺さっていた
当然だ
わざわざ、わかりきっている部屋番号まで確認して配達したのだから
じゃあ、さっき
屋上行きのボタンが無いエレベーターに乗って
どこへ行ってたんだ
この翌日からもここへ配達しなければならないのが苦痛で仕方ありませんでした