花瓶の水を取り換え終えた
「少し外へ出ませんか? ちょうど時間帯が一番絶景です」
「兄を車椅子に乗せるのを手伝ってくれますか?」
俺は頷き、
地平線へ沈む夕陽に反射して、空と海が茜色に染まっていく。
なんとも形容しがたい美しさ、それでいて、どこかもの儚さを感じる昼と夜の狭間の時間の景色――。
「綺麗な場所ですね」
「すごいっしょ」
「これ程の環境を用意するのは難しいでしょう」
「逃げ出したあとに出会った、唯一信頼できる人のお陰です。一番美しい場所にある、この病院に無償で入れてくれました」
「すごい方ですね」
それから、どちらも言葉を口にすることなく、沈み行く夕日が水平線へ消えるまで見つめていた。しばらくして彼女はまた、目を伏せて呟いた。
「はぁ、やっぱり興味を示さないかー。ちょっと肌寒くなってきましたね、戻りましょう」
「そうですね、戻りましょう」
受付の看護師に礼を伝えて病院の玄関を出て、長い階段を下り、バス停へ向かう。最寄りの駅へと向かう帰りのバスの中、もう暗くなった窓の外の風景を眺めたまま彼女は、口を開く。
「同情はしないでください。知識も、運動能力も、お金も、ぜんぶ持っている人に同情されても惨めになるだけなので」
「――俺は、そんな出来た人間じゃない」
「なんすかそれ、嫌みですか」
明らかな敵意を持って、睨み付けられた。
俺は、彼女の目を逸らさずに答える。
「そんなんじゃない。こうなったのは、俺にも責任の一端があるから」
「それは、どういう意味ですか?」
彼女の問いに俺は答えなかった――いや、どう答えたらいいのかわからなかったんだ。
駅前でバスを降り、電車に乗り換えて、星ノ海学園の最寄り駅へと向かう。電車の中は、帰宅ラッシュの時間帯を過ぎてこともあって空いていたけど。俺と彼女の間には、まるで透明人間でも座っているかのように、ひとつ席が空いていた。
星ノ海学園の最寄り駅に到着。到着を告げるアナウンス聞いた
「今日は、ありがとうございました。それでは、また学校で」
彼女が電車を降りようとした刹那、俺は、無意識に彼女の腕を取った。いや......取ってしまったが正しかった。
その直後、電車のドアが閉まる。
何ごとかと他の乗客の視線が俺たちに集まった。けど、そんな些細なことまったく気にならなかった。このあと何を話せばいいのか、そればかりが俺の頭の中を支配していたからだ。
ゆっくり振り向いた
「あの、何するんすか? おかげで降り損ねたんですけど......離してください」
何も言わない俺に対し、彼女の表情は戸惑いから不安に変わっていくのがわかる。
「......話しがしたい。あなたに全てを話します」
「......わかりました」
「とりあえず、離してくれますか?」と言った、彼女の言葉を聞いて慌てて腕から手を離す。
「あ、すみません」
「いえ。ま、ちょっと驚きましたけど」
話しやすさを考慮してか、さっきよりも半人分だけ距離を詰めて座った。
「俺の家で話しましょう。あなたに、見せたいものがあります」
「はい、わかりました。ですが、その前に寄りたい所がありますので。先に行ってください」
「わかりました。お待ちしています」
電車を乗り継ぎ、六本木駅に到着。
どれくらいの時間がたっただろう。インターフォンが鳴った。画面を確認すると、
玄関に出向き、鍵を開けて扉を開く。大きな紙袋を二つ持った彼女が立っていた。
「お待たせしました」
「いえ、いらっしゃいませ。どうぞ」
「おじゃましまーす」
玄関に入って直ぐに、
「どうかしましたか?」
「なんでもないっす、上がってもいいっすか?」
「ど、どうぞ」
よくわからなかったが、少し機嫌が悪いのはわかる。何か気にさわることでもあったんだろうか。とりあえず、二人分の飲み物を用意して、初めて話し合った時と同じ形でテーブルを挟んで、彼女と向かい合う。
「さて、何から話しましょうか」
「あなたは、自分にも原因があるといいました。それから教えてください」
言いあぐねていると、彼女が切り出してくれた。
――ありがたい。正直、何から話せばいいのか、まだぜんぜんまとまっていなかった。
「わかりました、単純な理由です。俺が、もっと早くアメリカへ渡っていれば、
「それは仕方のないことではないですか。あなたにはあなたの都合があったわけですし。それに、あなたには関係の無いことでしょう?」
「......いいえ、関係あるんです」
「それは、どういう意味でしょうか?」
「......俺は、あなたのお兄さん。
「――えっ?」
「小学五年、十才の夏の話しです」
俺は、話し始める。
* * *
俺には、親がいない。
父親は物心ついて間もなく病死。母親もその後を追うように亡くなった。両親の親も既に他界していて身寄りが無かった俺は、施設生活を送っていた。
そこがどんな場所なのかは、すぐにわかった。
代わり映えしない毎日、何を目的に生きていくのかもわからない。そんな生活に嫌気がさした俺は、施設を抜け出して、街へと飛び出した。
最初は、見慣れない街並みに心が弾んだ。ただただ、それが楽しくて一日中歩きまわった。けど、いつしか夜になって帰る場所もなく、腹も減って動けなくなって、道端に座り込んだ。
それから一時間以上が過ぎて、21時を回った頃声をかけてくれたのが、
『こんな時間に何やってんだ? 腹へったろ?』
そう言って、菓子パンと飲み物を差し出してくれた。
その頃、
それが、本当に嬉しかった。本音で話せる相手なんて誰ひとりいなかったから。
話し終わると、施設まで送ってくれた。
別れ際「また行ってもいい?」と尋ねると「おうっ!」と力強くも、優しく答えてくれた。
もちろん、施設の職員にはこっぴどく怒られたが、そんなことどうでもよかった。
次の日も、その次の日も、毎日のように抜け出して、
音楽の才能はあまりなかったけど、それでも毎日が本当に楽しかった。灰色だった世界が、色鮮やかに染まった。
だけど、それは長く続かなかった。
老朽化に伴い施設の移転が決まった。今までと違って、歩いて会いに行ける距離ではなくなってしまった。
移転前の最後日、「俺はぜってー! メジャーデビューする! だから、お前も頑張れよ!」と、そう言って笑顔で送り出してくれた。
真っ直ぐ目標に向かう
その言葉は、両親を失い、生きる意味を見いだせなかった自分に何が出来るのか、何をしたいのか。
その意味を教えてくれた、そんな気がした。