気がつくと、ベッドで横になっていた。
最初に目に入ってきたのは、見覚えのない天井。どうして知らない部屋で眠っていたか不思議に思いつつ、顔を横に向ける。開いている窓から流れ込む少し生温い夏の風に、清潔感のある白いレースのカーテンが涼しげになびいて揺れている。
「ここは......? イタっ......」
左頬が痛い。触ってみると、ガーゼが貼られていた。それに、ほっぺだけじゃない。よく見ると腕にも湿布が貼られていて、他にも痛いところがいっぱいある。意識がはっきりしていくにつれて、だんだん思い出して来た。
――そうだ、あたしは......。
「あ、気がついたのね。よかった」
女の人の声、声の方へ顔を向ける。
あたしと同世代くらいの面識のない女子が、部屋に入ってきた。警戒して身体を起こそうとしたところを制止して、あたしをゆっくりベッドへ寝かせた。
「あの、どちらさまですか......?」
「私は、
「
知っている二人の仲間......。つまりこの人は組織の人間で、味方ということでいいんでしょうか。というか、
「連絡してくるから、ちょっと待ってて」
スマホを見せながら、部屋を出ていった。
ほどなくして、彼女は戻ってきた。部屋の隅にあったパイプ椅子をベッドの脇に持ってきて、静かに腰を下ろした。
「お待たせ。すぐに先生がくるから、それまで少し話を聞かせて。なにがあったか覚えてる......?」
「......はい」
あの日、
それで――そこから先の記憶がない。
でも想像すると、どうしようもない不安な気持ちが、とてつもなく嫌な感情が沸々と込み上げて来る。
「大丈夫、安心して。物取りとか、暴行とか、そういった類いの目的で、あなたを狙った訳じゃないから」
「と、言いますと?」
あたしの不安定な気持ちを安心させようと穏やかな声で話しかけてくれた
「......そうでしたか。海外のテロリストが“略奪”を狙って、
「うん。関係の薄い
――なるほど、それで。言われてみれば、能力者保護のため通常よりも遥かに高いセキュリティを施しているマンションにわざわざ侵入なんてこと、特別な目的がなければ普通はしませんよね。
でもまあ、あたしが今、こうしてここに居ると言うことは、問題は無事に解決したとみていいでしょう。
「ところで、ここは? どこかの病院みたいですが」
「あなたのお兄さんが入院している病院よ」
やっぱり、兄が入院している病院だった。道理で部屋の雰囲気が似ていると感じたわけです。でもどうして、この病院なのか疑問が残る。東京にも組織が出資している病院があるわけですし。
そんな疑問を思っていると、部屋のドアがノックされた。「どうぞー」と返事をすると、男性のお医者さんと女性の看護士さんが病室に入ってきた。二人と入れ替わりで、
――あれ、この人たち......。
二人のことは、見覚えがあった。東京の病院に勤めてる外科医と看護士さんだったはず。
「いかがですか? お加減は」
「まだちょっと痛みがありますけど、このくらい平気です」
この程度のケガは、生徒会の任務で負うこともありますし。リンチされた時の方が、もっと痛いですから。
「そうですか、それはなによりで。確認のため、いくつかお伺いします。じゃあお願いします」
「ええ。まず最初に、あなたのお名前は?」
「
「合っているわ。じゃあ次に――」
生年月日、年齢、通っている学校名などの一問一答。返答を聞いた看護士さんは、上から順番にチェックを入れていく。
「――以上よ、お疲れさま。彼女の意識は、はっきりしているわ」
「そうみたいだな。では、容態の説明します。左頬に受けた衝撃による頭部打撲及びその他の外傷、分かりやすく言うと全身の軽い打ち身です」
男に殴られて、床とか家具に体をぶつけた出来た
「他には何もなかったわ。あなたを受け持ったのは女性医師だから安心して」
説明を終えたお医者さんが病室を出てあと、残った看護士さんはが
「じゃあまた、夕方に診察へ来るわ。何かあったら、ナースコールで知らせて」
「はい、ありがとうございました」
看護士さんが病室を出ていく。そして、先ほどと同じく入れ替わる形で、
「よう」
「どもっす。話は、そちらの
「いや、僕じゃないんだ......」
「ん? どういう意味ですか?」
口をつぐんで答えてくれません。部屋に入ってきた時の様子といい、何かあったんですかね。そういえば、
「私から説明するわ」
椅子に座った
「あなたと
「
「ええ。もしものことを考えて、
「なるほど、そうでしたか」
適切な判断だと思います。
それなのに、この二人の重苦しい雰囲気はいったいなんなのでしょうか。何だか、とても嫌な予感がします。
「何があったんですか?」
「ここから先は、
「構いません、教えてください」
「そう、わかった。落ち着いて聞いてね」
つまりそれは、あたしに関係のあることが起こった。それは間違いなさそう。心してうなづいたあたしに
* * *
あの日、
そしてそれは、抱きかかえていたあたしを庇ってのこと......。
背中のナイフは、肋骨の間を刃の半分近くまで深く刺さっていて、時間の経過と共に出血を引き起こした。
結局有効な手段を打てず、
彼の手術には、半日以上を要した。肋骨同士の間を抜けて背中に刺さったナイフは、あと数センチで心臓に達していたそうです。もし、逆に体を捻っていたら......ですが、手術は無事に成功。幸いにも神経は無傷で後遺症も残らないとのこと。ただ、搬送の遅れと大量出血により、危険な状態が何日も続いた。それでも、昼夜問わず二十四時間体制で病院スタッフの懸命な治療・処置のお陰で峠を越えて、集中治療室から一般の個室へと移ることが出来た。
それは、あたしが目を覚ましてから一週間以上が経ってのことだった――。
「なあ、もう十日以上だぞ?」
病室のドアを隔てた向こうの廊下から、男女四人の話し声が漏れ聞こえて来る。今のは
「わかってるさ」
「弟の、
そう、“
「とっくに試した。だけど、跳べなかった......」
「なんでだよ!?」
「......わからない。
「壁?
「一度もなかった。もしかすると、“略奪”で奪った能力には、オリジナルとは別の制限があるのかもしれない」
「なんだよ、そりゃ......打つ手はねぇってのかよ」
「結局、私たちに出来ることは何もないってことなの?」
どうしようもない、やるせない想いが四人の会話から痛いほど伝わってくる。それは、あたしも同じ気持ちだからよく分かる。
「どうして、あなたが......」
自責の念ばかりが頭に浮かんでくる。
もし、あたしがテロリストに捕まらなければ、あの電話のあとすぐに空港へ迎えに行っていれば、こんなことにはならなかったのに。
「日本に帰ってきたら、伝えたいことがあるって言ってたじゃないですか。まだ、聞いてません......」
どれくらいの時間が経ったのだろう。いつの間にか外は、静かになっていた。
「
四人の代わりに、すぐ後ろで女子の声が聞こえた。この声は、
「学校は、どうしたんですか?」
「今日で期末試験が終わったので」
「そうですか」
もう、そんな時期だったんですね。試験サボってしまいました。まあ、追試を受ければいいか。こんな精神状態で試験を受けても集中なんて出来る訳ないですし。
「
「平気です」
「......そう、ですか」
「また来ます。今度は、ご飯を作って持ってきます。一緒に食べましょう」
「......今思えば、あなたの印象は最悪でした。あなたと会うまでは、予知能力を使ってお金を荒稼ぎしているんだと思っていましたから。でも、実際の印象は全然違って。話をして見ると、よく笑う人で――いつからっすかね」
いつの間にか、無意識に目で追うようになっていた。
普段は穏やかなのに、時々、すごく哀しそうな
――ああ......そっか。これが、そういう感情だったんですね。
誰かのために傷つくことを厭わない人、思いがけない兄との関係、歩んできた壮絶な過去を知ったあたしは、進むべき道を示してくれた唯一信頼出来る
それも全部――分かってしまえば、認めてしまえば、素直になれば、こんなに簡単なことだったんですね。
「あなたが星ノ海学園に来てからのあたしは、あなたに頼ってばかりでしたね」
ひとつひとつ振り返る。野球の練習を夜遅くまで付き合ってくれた、兄のギターを綺麗に直してくれた。ライブの時も、リンチに合いそうな時も身を呈して庇ってくれて。そして、今回の誘拐事件でも瀕死の重症を負ってまで守ってくれた。
もう誰も信じないと固く誓ったあたしが、こんな感情を抱くだなんて夢にも思いませんでした。
「決めました。あなたは、いつもあたしを守るために無茶ばかりしてキズついてばかり、今回だって。そんなあなたを、今度はあたしが守ります」
一度深く深呼吸をして、パイプ椅子から立ち上がる。そして今なお、眠り続けている
「少し待っていてください、準備してきます」
病室を出て、玄関へ向かって歩く。病室と同じ階の休憩スペースに差し掛かったところで、見知った顔を三つ見つけた。
「
「
売店近くの休憩スペースでダベっていた
「ここは、病院ですよ。静かにしてください」
「大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫っす。ご心配おかけしました」
素直に頭をさげる。
「い、いえいえっ! そんな困りますよー、顔をあげてくださーいっ」
言われた通り顔を上げると、三人ともなぜか驚いた
「ではあたしは、これから行くところがあるので」
「どこにいくんだ?」
「星ノ海学園です」
「今から? もう、学校は終わってるぞ。何をしに行くんだ?」
「これからのための準備です」
「はあ?」
目的を聞いてきた
「では、急ぎますので」
あっけに取られている三人を後目に、病院の玄関へ向かって再び歩き出した。玄関を出て、長い階段を下りたところの停留所でバスに乗り、電車を乗り継ついで、星ノ海学園の最寄り駅を目指す。電車が最寄り駅へ着いた頃にはもう、夕方になっていた。
星ノ海学園へ行く前に併設マンションの自宅へ立ち寄って、簡単に支度を済ませておく。久しぶりに歩く通学路、校門を潜り、昇降口で上履きに履き替えて、生徒も疎らな廊下を職員室へ向かう。ノックをしてから扉を開けて、職員室に入る。目的の担任の先生は、見つけることができた。話をするため、期末試験の採点をしている担任の先生のところへ行くと、向こうもあたしに気が付いた。
「
「はい、ご心配おかけしました」
ぺこ、と頭を下げる。
「いや、気にしなくていい。大変だったな、いろいろと」
「いえ。あの、これを――」
「ん? なんだ」
あたしは自宅で用意してきた封筒を、担任に手渡した。封筒の中を確認した担任は、目を大きく見開る。
「これは......ちょっと来い!」
職員室から、近くの応接室へ連れて行かれる。
「いったいどういうつもりなんだ?」
向かいの席に座った担任は、あたしが提出した封筒をテーブルに置いた。
「見ての通り、退学届けです」
「どうして!? やっぱり、今回の件を引きずって――」
「違います」
言い終わる前に、あたしは否定。
「やらなきゃいけないことが......いえ、やりたいことがあります」
「それは何だ? 学校を辞めてまでしなきゃならないことなのか?」
「はい、守りたい人がいます。今は、その人の側に居たいんです」
「......
「――はい」
意思は変わらないことを示すため、はっきりと返事を返す。担任は難しい顔で頭を掻く。
「......上から大体の経緯は聞いてるし、気に病むのもわかる。だが――」
「だからこそです」
生徒会長のあたしが、いつ意識を取り戻すか分からない人を待ち続けることは、この学校の存在意義を揺るがすことと同義。今後のためにも新しい生徒会長を据えて、新しい体制で活動した方が良いに決まっています。
「理屈は分かった、確かにお前の言う通りなんだろう。けど、どうして退学なんだ? 休学じゃダメなのか? そこまでする必要があるんだ?」
星ノ海学園の理事長の
「責任を感じているとか、そういった理由ではなく。私情によるものだからです」
「私情?」
ゆっくりうなづいて、答える。
「悩んだり困っている時は、いつも助けてくれて。からかうと少し困った顔で笑って......」
話している間も、どんどん感情が溢れてくる。自分でも信じられないくらいに......。
「作った料理を本当に美味しいそうに食べてくれる、それがすごく嬉しくて。あたしは、あの人のことが――好きです」
「もう、いいじゃない」
応接室に女性教師が入ってきた。英語を担当している、
「
「人生は、たった一度きりのもの。誰にも託せないし、奪いもできない。
「......わかりました」
「よろしい。ねぇ、
「あ、はい......」
「あなたの決意が本物だってことはちゃんと伝わったわ。退学届けは、私がしっかり預かっておくから。だから、必ず二人で一緒に戻ってきなさい。その時は、破り捨ててあげるわ!」
「――はい!」
「うんっ、いい返事ね。いってらっしゃい」
「はい、行ってきます」
あたしは、
夏の太陽はすっかり傾き、オレンジ色の夕日がとても眩しくて、とても美しかった。長い間ずっと忘れていた清々しい気持ち。
鮮やかな夕日に背を押されるように、あたしは最寄り駅への一歩を踏み出した。