枕元の目覚まし時計を止めて、ベッドの上で上半身だけを起こす。夢を見ていた気がする。とても、とても長い夢を。正面の壁を見つめながら夢の内容を思い出そうとしていると、突然、部屋のドアが開いた。
「
「お、お母さん......?」
起こしにきた母の姿が、どうしてなのかとても酷く懐かしく感じた。ただ黙ったまま呆然と見つめるあたしに、母は少し不思議そうな顔で膝をついて手を伸ばした。
「どうしたの? ぼーっとして」
おでこに触れた母の手は、とても暖かかった。
「熱は、ないみたいね。大丈夫?」
「あっ、うん、大丈夫。すぐに行くから」
「そう? じゃあ早くなさいね」
部屋を出ていく母の後ろ姿を見送って、ベッドに座り直す。
確かに、夢を見ていた。
悲しい夢、辛い夢、苦しい夢......だけど、幸せな夢。
まるで本当に経験していたように思えるほど、リアルな夢だった。だけど、思い出せない。どこに居たのか、何をしていたのか、誰と居たのか。どうしても思い出すことは出来なかった。
とりあえず、急いで着替えを済ませて、洗面所で顔を洗ってからリビングに入ってすぐのテーブルの左側の席に着いて、手を合わせる。
「いただきまーす」
さっきといい今日のあたしは、少し変。食べ慣れたはずの母の料理なのに、とても懐かしい味がした。気を紛らわすように「兄ちゃんは?」と母に訊ねる。
「起こしたんだけどね。まったく、いつも夜遅くに出歩いてるから」
「はよ~す......」
噂をすれば影。まだ眠そうな兄が、頭をかきながら姿を現した。そのだらしない姿に、母は若干の呆れ顔を覗かせる。
「寝癖ついてるから直してきなさい」
「へーい......って、
隣の椅子に座った兄が、あたしを見てとても驚いたような顔をした。母も、洗い物の手を止めた。二人して何を驚いているんだろうと想っていると、自分で異変に気がついた。目から涙がこぼれ落ちた頬を伝う涙を、長袖の先で拭う。
「マジどうした? もしかして、学校で嫌なことでもあったか?」
「そうなの?」
「ううん、本当に何もないんだけど......」
でも、本当にどうしたんだろう。兄と母を心配させてしまっているのに、とても幸せな気持ちが胸いっぱい込み上げて来る。切ないほどに。まるで胸にぽっかりと穴が空いたような喪失感を一緒に。とても大切なことを忘れてしまっているような......幸せと切なさ相反する想いが混ざり合う複雑な感情の揺らぎ。
だけど、それもいつしか気に止めることも少なくなっていって、冬、春、夏と季節は巡り。そしてまた、秋が訪れた。
空気が肌寒く感じ始めた初秋の帰り道、家の玄関からスーツ姿の男性が二人出てきた。二人は真剣な顔付きで言葉を交わしながら、あたしと反対方向へ歩いていく。うちに何の用だろうと思いながらも、カギを開けて家に入る。兄も、母も、まだ帰っていない。いつものように机に向かって宿題を始める。しばらくして兄が帰ってきた。続いて、母も帰宅。
「
「あ、うん、ありがとう」
先日受験した、国立の附属学校の試験結果の封筒を受け取り、ハサミで封を切って、緊張しながら合否通知を確認したあたしは、部屋を飛び出した。夕食の支度をしている、母の元へ急ぐ。
「お母さん! やったよ、受かったよ!」
「よく頑張ったわね、
「まさに末は博士か大臣じゃない?」と大袈裟に言う、母。あたしも嬉しくて、小さくはずむように頷いた。そのまま、ギターを弾いている兄へ報告へ行くと、兄も自分のことのように褒めてくれた。
「兄ちゃんのバンド、レコード会社に目をつけられてるって言ってたじゃん」
「うちは貧乏だから、とっととメジャーデビューしてひとり立ちしてぇなー。そう言えば、前に貸したCD聴いたか?」
確か、“
この合格通知を受け取ってから約ひと月後のこと、夜中にふと目が覚めたあたしは、渇いた喉を潤すため廊下を歩いていると、リビングからテレビの音と灯りが漏れていること気がついた。消し忘れたのかな、と思ってドアを開ける。
「お母さん?」
「
食い入るようにテレビを見ていた母は、とても慌てた様子で電源を消した。
「どうしたの?」
「な、なんでもないわ。お母さんももう寝るから、
「うん......」
少し不思議に感じつつも、キッチンで水をひとくち飲んで、改めてベッドに入って眠りについた。
そして、厳しい寒さの冬が過ぎ去り、季節は――春。
真新しい制服に袖を通して、あたしは姿見の前に立つ。何だかしっくりこないけど、この制服を着ていると、今日から新しい学校生活が始まるんだと改めて思った。
「いってきまーす」
「いってらっしゃい。気をつけて行くのよ」
「はーい!」
玄関先で母に見送られ、国立の附属学校へ向かって足を踏み出した。いつもと違う通学路、薄紅色の花びらが雪のように舞う。大袈裟だけど、なんだかまるで、本当に世界が変わったような気持ちになった。
* * *
附属中学の三年間は、あっと言う間に過ぎ去った。あたしはそのまま、同じ附属の女子校への進学。入学してひと月あまり、新しい学校生活に慣れ始めた頃、先生の推薦もあって中学時代も務めてしていた生徒会に所属することになった。
ひとりで仕事をこなせるようになった七月の初めの放課後、生徒会で使う備品を学校近くのショッピングセンターで買い揃え、学校へ戻る。
時間で言えばもう夕方なのに、まだ高い位置にある太陽、肌を焼くような夏の暑い日差しが照りつけるアスファルトには陽炎が揺れている。
正門横の木陰でひと休みしようかと頭を過ったけど、冷房が完備されていて快適な校舎へ入ってしまった方がいいと思って、足を止めることなく校舎へ急ぐ。しかし途中で、異変に気がついた。校庭が、少しざわついていた。正門へ向かって歩いている生徒たちが、やや後ろを気にしている。あたしから見て、前方にその原因を見つけた。
うちは女子校なのに、校舎から男子が歩いてくる。それも共学だった中学の男子とは違う制服。つまり、別の学校法人の男子生徒。注目を集めるのも道理、けれどあたしは、特に気に止めなかった。校庭を歩いているということは、守衛の居る正門を通過したということのため、正当な理由があって学校へ招かれたということ。だけど、校舎から歩いて来た男子とすれ違った瞬間あたしは、はっとして歩みを緩めた。どこかで会ったことがある、そんな気がした。昇降口の手前で立ち止まり、確かめようと振り返ろうとしたところで声をかけられた。声の主は、生徒会長。
「ちょうどよかった。校長先生から大事なお話があるみたいだから、校長室へ行きましょう」
「はい、わかりました」
返事をしてから振り返ると、もう、さっきの男子は居なくなっていた。
* * *
翌日の放課後、他の生徒会の役員数名と一緒に都内のとある学校へ向かっていた。その学校は近年経営者が替わり、学業・部活動共に著しく評判を上げた。
学校名は――星ノ海学園。
その名を聞いた昨夜は心がざわついて、なかなか寝付くことが出来なかった。
「ここ三年間で偏差値は10以上も上がっている。三年後には、うちと同等レベルまで上がるかもって話しよ」
「たったの三年でですか? スゴいですね」
「うーん、なんでも全国から入学希望者を募ってるみたい。しかもほとんどが、家庭の事情とかで進学や部活動を――」
星ノ海学園について話す会長たちの話も、あたしの耳にはあまり残らなかった。なぜなら、見たこともない景色のハズなのに見覚えがある、そんな不思議な既視感で頭の中がいっぱいだったから。特に、星ノ海学園学生寮と標記された併設のマンションを通り過ぎた後は、一歩、また一歩と学校へ近づく度に徐々に強く明確に現れていく。
「うわぁ~、綺麗な校舎ですねー」
「本当ね。じゃあ行きましょう。
「......あっ、はい」
「大丈夫? 何だか顔色が優れないみたいだけど」
「大丈夫です」
「そう? ならいいけど」
会長たちの後に続いて正門を潜って来賓用の玄関へ着くと、星ノ海学園の生徒会役員が出迎えてくれた。
「本日はお忙しいところを、遠くまでご足労いただきありがとうございます。星ノ海学園生徒会長の――」
「こちらこそ、お招きいただきまして――」
生徒会長同士の挨拶が終わって、生徒会室へ招かれることに。ガラス張りのスタイリッシュな生徒会室中央のテーブルを挟んで対面して座り、話し合いが始まる。議題は、来学期に執り行われることになった学校交流会。詳しい理由は不明ですが、
話し合いが行われる中あたしは、ずっと違うことに気を取られていた。校舎、廊下、生徒会室、窓から見える外の景色を、あたしは知っている......。
「――では、そのような流れで進めて行きましょう」
話し合いは思いのほかスムーズに進んで、校内を案内してくれることになったけど、あたしは、椅子から立ち上がることが出来なかった。足がふらついて上手く立てない。テーブルに手をついて身体を支える。
「大丈夫!?」
「無理しない方がいい。保健の先生を呼んできてもらえるかい?」
「うん、すぐに呼んでくる!」
肩にかかるくらいのボブカットの女生徒が、生徒会室を飛び出して行った。あたしは、附属の会長たちの手を借りてソファーで横になる。保健の先生の診察は、寝不足が原因の軽い目まいではないかと言うことで、このまま休ませてもらうことになった。
「すみません、ご迷惑をおかけしてしまって......」
帰りの予定時間を過ぎても、あたしの体調は良くならなかった。会長たちには先に帰ってもらって、もう少し休ませてもらうことに。
「いや、気にすることはないさ。誰にだって体調が優れないことはある。ところで、音楽をかけてもいいかな? BGMがないと、どうも書類作業がはかどらなくて」
「はい、どうぞお構いなく......」
「ありがとう。
「あ、うん、わかったよ」
生徒会長から
しばらくして、コンポを再生させた男子が突然、椅子にもたれように座り込んで顔を伏せた。そんな彼と反するように身体を起こしたあたしは目を閉じて、曲に聴き入る。
――......この曲を、この歌を知ってる。辛いとき、苦しいとき、いつも支えてくれた。でも、誰の歌なのか思い出せない。だけど、大好きなバンドなことだけは鮮明に覚えている。
曲が終わると生徒会長は停止ボタンを押し、取り出したCDをケースにしまって、あたしに差し出した。
「あげるよ」
「えっ? でも......」
「気に入ったんだろ?」
遠慮しなくていいよ、と笑顔で言ってくれた。
「あ、ありがとうございます」
「体調の方も良くなったみたいだな。下まで送るよ」
生徒会長を出て来賓用の玄関へ行くと、車が止められていた。もう辺りが暗くなっていたため、自宅の近所まで送ってくれるそうですが。体調も良くなったこともあって遠慮するあたしを後目に、保健の先生を呼んでくれた女子生徒が手を取って一緒に後部座席へ。
「あの、CD、ありがとうございました」
「どういたしまして。じゃあ、付き添い頼むな」
「任せて。お願いします」
ゆっくりと走り出した車は、自宅の近所で停車。車を降りたあたしは、女子生徒と運転手さんにお礼を伝える
「送ってくださり、ありがとうございました」
「ううん、気にしないで。お大事にね」
「どうぞお気をつけて」
走り去る車を見送って自宅へ帰り、部屋に荷物を置いてからCDを持って、兄の部屋をノックして入る。兄はベッドに座って、ギターの手入れをしていた。
「おう、おかえり」
「ただいま。お兄ちゃん、これ――」
「ん? なんだ。おっ、
中学の受験前に「気に入るから聴いてみろ」と渡された、海外のロックバンドのCD。進学してからも勉強に生徒会と何かと忙しくて、結局一度も聴く機会がないまま机にしまったままのCDと同じアーティスト名。
「うん......コンポ、借りてもいい?」
「当たり前だろう」と上機嫌に言った兄は、セットしたCDリモコンで再生させた。生徒会室で聴いた曲と同じ演奏が流れる。
「く~っ! やっぱ“
「う、ううん、なんでもない」
「そうか? おお、そうだ。今度、他県の野外ライブに出演が決まったんだ!」
「えっ、ホント? スゴいじゃん!」
あたしが入試試験に合格した四年前の冬、レコード会社との契約が決まった兄はデビューの直前に極度スランプに陥ってしまい、思うような演奏を出来なくなってしまった。でも努力を重ねて、一昨年念願のメジャーデビューを果たし、小さな頃からの夢を叶えた。
「関係者用のチケット用意してやるから、聴きに来いよな」
「ええ~、学校あるしー」
「んなもん休め、俺が許す!」
「ダメに決まってるでしょ」
呆れ顔の母が部屋の前で、大きなタメ息をついている。
「まったく。引っ越しの準備は済んだの?」
「どうせ、服とギターしか持っていかねーし。つーことで、このコンポは置いていくから、
「いいの?」
「おう。他のアルバムも置いてってやるから、好きに使ってくれていいからな」
「うん、ありがと!」
「さあ、二人とも晩ごはんにしましょ」
晩ごはんを食べて、お風呂に入って、ベッドで横になる。
この日の夜、夢を見た。いつか見た、不思議な夢の続き。
そして夢の終わり、最後に約束をした――ずっと待っている、と。だけど、いつ、誰と約束をしたのか思い出せない。
心にもやもやした気持ちを抱えながら授業を受けていると、教頭先生が慌てた様子で教室に入ってきた。教師と言葉を交わし、あたしを呼ぶ。廊下に出て聞かされた話しに言葉を失った。
兄が......病院へ緊急搬送された――。
「ほん......っとに心配したんだから!」
学校を早退して急いで病院へ行くと、兄はベッドで元気そうにくつろいでいた。
「悪い悪い。兄ちゃん、野外ライブだからハッスルしすぎちまってさ~」
本番前日のリハーサルで張り切りすぎて軽い熱中症で倒れた、ということ。
「ハァ、なんか喉渇いちゃった。飲み物買ってくるね」
「スポーツドリンク、頼む」
「はーい」
頼まれたスポーツドリンクとパックジュースを買って、病室へ戻る。来たときは気が気じゃなくて気にとまらなかったけど、この病院前に来たことがある。そんな気がした。
「おっと......」
「あ、すみません」
辺りを見回しながら歩いていたら曲がり角で、出会い頭にぶつかってしまった。
「大丈夫かい? ケガは、ないようだね」
ぶつかってしまった相手、品の良い初老の男性は優しく微笑んで、あたしの心配をしてくれる。
「はい、大丈夫です。すみませんでした」
「僕の方こそ、もっと周囲に気を配るべきだった。おや、こぼれてしまったようだね」
「え? あっ......!」
看護士さんに事情を話して、借りた清掃道具で汚してしまった廊下を掃除し終えると、新しいジュースをごちそうしてくれた。
「すみません、いろいろと」
「いや、当然のことだよ。ところでその制服は、都内の国立の附属高校のようだね」
「あ、はい、そうですけど......」
「失礼、自己紹介が遅れてしまった。僕は、こういう者だよ」
渡された名刺の肩書きを見て、とても驚いた。
「星ノ海学園の......理事長先生!?」
「形式上ではね。少し話しを聞かせてくれるかな?」
他に誰も居ない休憩スペースのベンチに座って、理事長先生と話しをすることに。
「そうか、お兄さんが。大変だったね」
「軽い熱中症なので、明日の朝には退院できるそうです」
「それはよかった。ところで、学校交流の話しは知っているかな?」
「はい。生徒会に所属していますので聞いています。先日は、ご迷惑をおかけしてしまって」
体調不良で家まで送ってもらったお礼を伝えると、理事長先生は「そうか、キミが......」と小さく呟いて、口元へ片手を持っていった。
「はい?」
「いや、何でもないんだ。ひとつ、訊いてもいいかな?」
「何でしょうか?」
「この世界には、特殊能力といわれる不思議な
「えっと......」
唐突なオカルト的な話しに、思わず返答に困ってしまう。
「信じられないのも無理はない、それが普通の反応だ。だが、事実なのだよ。どうだろう。最近、妙に既視感を覚えることはないかな? そしてそれは、星ノ海学園を訪れてから顕著に現れるようになった」
――思い当たってしまった。
「心当たりがあったようだね。少し昔話をしよう。まあ、昔と言っても、ほんの五年ほど前の話だが......」
理事長先生から語られたのは、この世界がたったひとりの特殊能力者の信念の元「救済された世界」という、とても信じることの出来ない突拍子の話しだった。
「あの。どうしてあたしに、この話しを?」
「ふむ、そうだね。ちょっとしたロマンと言ったところかな。僕はあまり、運命や奇跡などの類いは信じるタチではないが、少し信じてみたくなった」
よく分からず首をかしげるあたしに、小さく笑った理事長先生は窓の外へ顔を向けた。視線の先には、裏庭から一本の道がのびている。
「この道が続く先に、美しい岬がある。そこに、真実が眠っている」
ひとつ大きく息を吐いた理事長先生は、ゆっくりと席を立った。
「さて、僕は失礼するとしよう。長く引き止めてしまって申し訳ない」
「あ、いえ。ジュース、ありがとうございました」
お礼の言葉を告げてあたしも席を立ち、兄が待つ病室へ戻る。
* * *
兄が待つ病室へスポーツドリンクを届けたあと、裏庭から岬へと続くと一本道を、星ノ海学園や病院と同じように既視感を覚えながら歩いていた。
帰りバスの時間を待つ間にスマホで調べた、特殊能力者の件。映画や漫画などの設定がほとんどで、理事長先生が話したような事案は直接見つけることは出来なかった。けれど、条件を絞って検索していくと関係のありそうな記事を見つけた。日本を含めた世界各国で一部の政府要人、科学者、警察や教師を含む公務員、民間企業、反社会勢力などの人間が同時期に逮捕・拘束されたと言う記事。
容疑は、未成年に対する極めて非人道的な人体実験。
目を覆いたくなるほどあまりにもショッキングな内容であったため、地上波・衛生放送などでは深夜帯を中心に報道され、極力未成年者の目には触れないよう配慮された。中には相当重い罪状で立件された人物もおり、世界中で延べ数万人以上の人間が関わっているとみられ、まだ全容の解明まで時間がかかるだろう、と締めくくられていた。
この記事が書かれたのは今から四年前の冬のことで。思えば当時、通っていた学校にも時期を同じくして退職した教師が時を同じくして複数人いた。もしかしたら、理事長先生が話していたのはこの記事のことではないかと思って、どうしても気になって、バス停に到着したバスを見送ったあたしは「真実が眠っている」という、岬へ向かうことを決めた。
舗装されていない道をしばらく行った先に辿り着いた、真実が眠っているという美しい岬には先客が居た。オレンジ色の夕日に照らされた少し長めの茶髪の毛先が、海風になびいて揺れている。佇まいから見て、男性。目の前に、何かがある。あれは、何だろう? と思って近づくと、その人が振り向いた。夕日の逆光で顔ははっきり見えないけど、レンズが光っていることでメガネをかけているのは判った。
その人は、少し驚いたようなそぶりを見せてつつも「どうぞ」というように黙ったまま一歩横へ移動した。隣へ行く。そこにあったのは――。
「慰霊碑ですか?」
綺麗な花束が供えられている。
「そうみたいだね。実際に見るのは初めてだけど、聞いていたより立派だった」
「あの、もしかして、知っているんですか? 特殊能力者のこと――」
一瞬の沈黙。
「特殊能力のことを、どこまで知ってる?」
「正直、あまり詳しくは。特殊能力者が世界を救ったとだけ聞きました」
「そうか」
風にかき消されてしまうような小さな返事。少し寂しそうに聞こえたのは、気のせいでしょうか。
「この慰霊碑は、世界中で虐げられ命を落とした特殊能力者と、救済を扇動した能力者の墓標。名前は――」
告げられた名前は――
名前を聞いた瞬間、知らないはずの記憶がまるで水のように溢れてよみがえっていく。
「彼には、彼らには敵が多かった。日本だけではなく、世界中を敵に回したから目的を達成したあとも追われる身だった。特に、面子に拘る裏社会の人間からは執拗に狙われた。そして、海沿いのホテルの一室に居たところを襲撃され、凶弾に倒れた。撃ったのは、彼の相棒。殺されるくらいなら、と引き金を引いた。そして彼もまた、後を追うように自らのこめかみに向けて引き金を引いた。二人は、海へと落下した。潮流の速い海域で、遺体は発見されなかった。だから、せめて形だけでもと。ここは彼が、世界で一番大切な女性と約束をした場所です」
「あたしは......この人が、好きでした。約束したのに......どうして......」
溢れる涙が止まらなかった。
「ほんと、最低ですよね」
あまりにも無神経な言葉に、キッと睨みつける。
だけどその人は、少し困ったように微笑んでいた。
「あっ......」
彼の笑顔は、あたしの知ってる笑顔だった。
ほっとする笑顔、安心させてくれる笑顔。
「やっぱり、泣かせちゃいました」
あたしは、彼の胸に飛び込んだ――。