お止めくださいエスデス様!(IF) 作:絶対特権
十評価をいただいたコトコト様、ノーバディ様には更なる感謝を。ご期待に背かないようにがんばります。
『一斬必殺』村雨を蹴り飛ばし、急加速でその持ち主であるゴズキを踏み敷きながら、ハクは陽を見て呟いた。
「帰るか……」
更に村雨を遠くに蹴り飛ばし、ゴズキから右脚を退ける。
顔見知りの誼で雇った傭兵の聴こえぬ音による伝達により、彼はチェルシーの現在を察していた。
一にも二にも、彼はチェルシーを護らなければならないが為に強くなってきている。
異様な脚の速さは彼女の危機に間に合わないということを無くすためであり、剣と盾の使い方の巧さも幼い頃にチェルシーが引っ張ってきた絵本によるところが大きい。
彼女は、忘れているであろうが。
「待て……!」
既に沈んだ教え子であり義理の息子娘である暗殺者チームの教官であるゴズキは、手に持った西洋風の魔剣を消して去っていくハクの方へと手を伸ばした。
自分を含む暗殺者チームの面々には確実に、それも何回も、殺せるような隙がある。
それを見て見るふりをするように峰打ちや気絶で済ませ、挙句の果てには突然帰り始めたその姿に、ゴズキが怒りと憤りを感じるのも当然であった。
濡れ羽のような黒い髪を覆う銀色のフルフェイスの兜が消え、赤石を両肩と胸に嵌め込んだ騎士甲冑のような鎧も消える。
戦いは終わったのだと言わんばかりのその姿は、トドメを刺す気がないことを如実に示していた。
「何故殺さない」
振り向いた痩身へ振り絞るように声を掛け、ゴズキは吐血した時に付着した血を袖で拭う。
帝国の暗殺者チームを率いている身として、常に死は覚悟の上だった。だからこそ、このような屈辱は耐え切れないほどの苦しみがある。
「何故だ……!」
「殺す理由も必要も、私は持ち合わせていない」
いくら主の不利になることは配下としてやってはならないとはいえ、今回の戦いの発生原因は確実にこちら側にあった。
そもそもなぜ彼等がここまで来たかと言えば、帝国の所有物であった帝具の一つを盗まれたからである。
この時点で、ハクは命令なしの正当防衛で敵を殺してもいいと言い切れない程度の非を抱えていた。
つまり彼には理由がない。
そしてあくまで襲い掛かられただけであり、上官からは『先行して帝国兵と戦闘せよ』と言われただけで『暗殺者チームを始末しろ』などとは一言も言われていない。チェルシーにも民を守れと言われただけである。
即ち彼には必要がない。
そう聴こえないのがいつもいつも言葉が足らないの彼らしい『らしさ』であるが、敵からすればそんならしさなど関係なかった。
というより、個人の個性を尊重するチェルシーが珍しく情熱を燃やし、なおかつしつこく矯正しようとした言葉が足りないと言う欠点が、ここに来てメッキが剥げてきてしまったのである。
「さらば」
その身に剣も鎧もなく、ハクは元の貧相な一般帝国兵の装備に戻った。
ストーカーになったら最高に質の悪い能力を持つ傭兵から明度の情報を受け取り、ハクは何の迷いもなく隊長の元へと報告に向かう。
報告書を書くことと何故帝国兵の襲来に気づけたのかについての理由の説明を求められた後、ハクはチェルシーの元へと帰った。
示された情報によれば、彼女はどうやらもう家に帰っているらしい。
「チェルシー」
何故か荒らされていない彼女の家に足を踏み入れて声を掛けた瞬間、軽い足音が階段を鳴らす。
トトトトト、と。急いでいながらも女としての慎みのような物を失わなっていないチェルシーの足音を聴き、ハクは取り敢えず靴を脱いだ。
返り血を一切被っておらず、その身に傷は一つもない。
基本的に心配とは程遠い楽観主義者のチェルシーだが、自分の身に付着している血に尋常ならぬ心配を抱く。
ハクはそこらへんにも気を遣いながら、帝国兵や暗殺者チームをいなしていた。
「ハク、さん……け、怪我は?」
「ない」
体力の乏しさを露呈させるように、或いは如何に急いでいたかを示すように、彼女の息は上がっていた。
呼吸で僅かに揺れる肩に右手を遣り、ハクは上質な木材で組まれた床に広がった水を静かに眺める。
いつも明るく朗らかに、時々腹黒そうな笑みや言動を見せるとはいえ、彼女はよく泣く質だった。
正確に言えば、ハクがイジメの現場に駆けつけた時には基本的に髪やら何やらを引っ張られて泣いていたし、住所不定な彼と遊ぼうと路地から路地へと探しに来て結局見つからなかった時も泣いている。
非常にどうでもいいが、とある事情で会えなかった数年のブランクを経る前の彼女は、ことあるごとに泣いていた。
「よかったぁ……」
「う、む。いや、問題はない」
同じ人であるとは思えない程に細い骨に肉が巻付き、それに薄っすらと脂肪が積もったような華奢に過ぎる身体。
触れれば折れ、叩けば砕けてしまいそうな身体が腕の中にすっぽりと収まってしまったことに言いようのない不安を覚えながら、ハクは珍しく立ち尽くす。
鎧は既に外し、身に着けているのは軽く汗をかいている服一枚。鳩尾辺りにはっきりと伝わってくる柔らかさに驚くよりも、彼はチェルシーの行動と華奢さに驚いていた。
チェルシーはの私服と化している布の起伏が固定されたパリッとした制服は、どう動こうが身体の起伏が採寸からズレない。
かなり着痩せする制服であるということは、流石のハクも知っている。
故に彼は、チェルシーの身体は細いは細いがそれ程でもないと思っていた。
「何というか、細いな」
「太ってると思ってたの?」
チェルシーは、少し目元に残った涙をハクの袖で拭う。どうやら今日は涙腺が緩くなっているだけだったらしい。
ハクはその泣き始めてしまってからの涙腺の緩さに苦笑しつつ、片頬を膨らませて不満を示すチェルシーを誤魔化すように撫でる。
さらさらと流れる清流のように指をすり抜けていく髪を梳かれ、チェルシーは少しこそばゆそうに顔をしかめた。
誤魔化すように、しかし万が一にも痛みを与えないようにして優しく髪を撫で付けてくる手が擽ったかったのか、チェルシーの顔に猫のような笑みが浮かぶ。
顰めたような笑いには、恥ずかしさと嬉しさが半々で配合されたような感情が読み取れた。
「もっと、もーっと撫でて」
「ああ」
「手も廻して」
「……」
同じ左手で大剣を振り回し、同じ右手で大盾を悠々と操っていたのかとは思えないほどに繊細に、ハクはチェルシーの身体に触れる。
指に触れられる度に弓の弦のように背を張らせ、微妙に身体をよじらせる彼女の身体を壊してしまわないように、彼は恐る恐る背に手を廻した。
「痛くはないか」
「うん」
チェルシーは最早、手折られた花のように身体中から力が抜け、凭れるようにして辛うじて立っているような体勢になっている。
女としての性に蕩けるような瞳も瞼に閉ざされ、胸板に頬を擦り付けるその様は縄張り意識の強い猫を思い起こさせた。
「チェルシー、場所を移すぞ」
彼女が誰とも知らぬ男に抱き着いているような姿を、それも玄関という内と外を繋ぐ境から衆目に晒せば、迷惑がかかる。
さり気なく自己評価の低いハクは、きっちり鍵を閉めたことを確認してからチェルシーの膝裏に手を廻した。
彼の身体能力とそれに付随する格闘戦の技術は、この帝国どころか世界でも一二を争うほどの上位に食いこむ。
その彼であれば、信頼を寄せ切り、なおかつ警戒心のけの字もない女の体勢を崩すことなど容易も容易だった。
「あ……」
自分が今どのような立場に置かれているのか、そしてこの男は自分をどこへ運ぼうとしているのか。
非常にノリが軽いのとは裏腹に、中身はかなり乙女らしい性格をしているチェルシーは、思わず身体を硬直させる。
早鐘を打つような鼓動は留まるところを知らず、頬に一瞬で朱が昇る。
空いた手を心臓付近に押し付けると、そこには激しさを増す鼓動が響いていた。
「玄関ではお前も嫌だろう」
「……チェルシーさんは、ね?」
言うまでに相当の赤面と葛藤を経て、チェルシーはハクの服をくしゃりと握りながら口を開いた。
彼女は軽いノリとそこら辺を歩いてそうな流行りの服装のお陰でそういう印象を持たれにくいが、相当初心な質だったのである。
「……どこでも、いいよ?」
「こちらも気は遣う」
懐き切った仔猫のように何の抵抗も反抗も無く自分の操縦桿を他人に委ねたチェルシーは、返ってきた答えに対してはにかむように笑う。
「……ここで?」
「ああ」
ゆっくりとソファの上にチェルシーの身体を降ろし、ハクは無音でその隣に腰を下ろした。
ここまで来てチェルシーは、自分が完全に誤解していたことを悟る。
「……ハクさんの、馬鹿」
「何故だ」
「馬鹿」
何故、と言うのはチェルシーから言わせればこちらの台詞だった。
何故自分がこんなにも身体をくっつけてアピールしているのに平常心なままなのか。そして更に言えば何故気持ちに気づかないのか。
ジトっと湿った視線をハクに横目でぶつけつつ、チェルシーは頬を膨らませた。
「馬鹿」
「……すまない」
完全に拗ねてしまったチェルシーから少し距離を置くように座り直し、ハクはただただ頭を捻る。
何がそんなにも彼女の機嫌を損ねる原因となったのかということが、彼には皆目見当がつかなかった。
ハクは鋭いが、一方で鈍い。
チェルシーは彼が座っている時に背中に胸を押し付けるようにしてダイブしてきたり、抱きしめろと命令してみたりとスキンシップが過剰なくせに、自分からは手も繋げない。
変なところで初心であり、変なところで平気なのがチェルシーという女なのである。
彼女から言わせれば一番目は友達にやってもおかしくない動作であり、二番目は『やられているから』セーフであり、最後は恋人同士でやるべきことだから出来ない、ということなのだろうが、ハクにはいまいちそこのところの機微がわからなかった。
なのに何故運んだ程度で怒っているのかが、わからない。
荷物扱いがダメなのならば、背に乗せて道を爆走したりしたのは何故いいのか。
僅かにとった距離をあっさり詰められながら、ハクは延々と考えていた。
「ハクさんは、さ」
「うん?」
思考が弾かれ、泡沫のように消え去る。
目の前の現実が姿を表し、視界には遠くに見えるドアとチェルシーの緊張したような顔が映り込んでいた。
傍から見てもわかる程に、緊張している。
そんなチェルシーの顔を不思議げに見つめ返し、ハクは橙の瞳を覗き込む。
「私のこと、どう思ってるの?」
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