ナザリックへと消えた英雄のお話   作:柴田豊丸

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束の間の日常と、老いた元英雄から現英雄へ

 【スパエラ】が公城に招かれてより十日ほど後の話である。水神の神殿のある私室に、二人の女性の姿があった。

 

「イヨに指輪を送ろうと思うんだ」

「指輪、ですか」

 

 『何故指輪?』というのがイバルリィ・ナーティッサの正直な感想であった。

 

「なんでもイヨの故郷では婚約や結婚の際に愛の証として指輪を送るのが一般的らしい。大抵は金や白金のリングにダイヤモンド。婚約の場合は右手の薬指、結婚の場合は左手の薬指にお互いがペアで付ける」

「へぇ~、そんな風習があるんですか」

「ああ。前に言ってた。こっちには無いって知って随分驚いてたな」

 

 勿論、こちらにも結婚、婚約、交際の時に互いに贈り物をする習慣自体はある。大切な相手に特別な贈り物をする、それは世界の何処でも変わらない。人間が毛皮の衣服を纏い洞穴に住んでいた時代から、愛し合う者同士は互いを想ってその証を示し合った筈だ。

 

 だが、此方の場合はイヨの国における指輪、左右どちらかの薬指という様な決まった習慣は無い。地方や地域の範囲なら『普通はこれ』と言える物もある筈だが、概ね気持ちが伝わるかが重要であり、ペンダントでもイヤリングでもネックレスでも──勿論指輪でも良い。花でも家でも家畜でも悪くはないだろう。

 

「と言うと、イヨちゃんの国では指輪を送る事そのものが結婚や婚約の申し出として通用するわけですか。『この指輪を受け取って、薬指に付けて欲しい』と言えばイコール結婚の申し出である、と」

「そんな感じらしいな。金や白金、ダイヤが使われるのは永遠に変わらない愛の象徴なんだとか。金や白金は酸化や変色を起さず、ダイヤモンドは自然界でも硬い方だからまず傷も付かない。無色透明な輝きは純潔を象徴する──らしい」

「成る程──王侯貴族とかだと魔法金属を使用したり、マジックアイテム化したりするんですかね?」

「其処までは聞いてねぇけど、そうなんじゃないか? イヨの国に王や貴族はいないそうだが、金持ち連中ってのは世間一般からどれだけ飛躍するかに万金積み上げる習性が──って、そんな事はどうでも良いんだよ」

 

 イヨは結婚指輪の風習が此方に無いと知ってかなり残念がっていた。強い憧れがあったんだそうだ。ふとした拍子でこの話をしたのは、まだ二人が出会って間もない頃だった。

 お互い──イヨの側はもうリウルに好意を持っていたらしいが──其処まで真剣に話すでもなく、ただ異国の文化が物珍しくて語り合ったのだ。

 

「でも、イヨちゃんの事だから指輪ではないにしろ、結婚を申し込んだ時になにか贈ったんじゃ無いんですか?」

「あの時は突発的な申し込みで事前の準備が無かったから用意できなかった、ってのが本人の言だ。後日二人で何か買いに行こうって言われたが、俺は『一緒にいられるだけで幸せだ』って穏便に断っておいた」

 

 無論この企みの為にそう言っておいたのだ。

 

 恐らくそれでもイヨは何らかの贈り物、リウルが喜んでくれる贈り物をしようと画策しているだろう。近頃何かと一人で出かけたがり、名の通った商人の下へ単身訪れているのがその証拠だ。サプライズであり、本来はもっと早くにしておく物だから余計に特別な品であるべきと考えて随分悩んでいるらしく、未だ決めかねている様だ。

 

「その隙に俺の方から結婚指輪を贈る。互いが大事に思えるモノでないといけない、イヨはそう考える筈だ。だからあいつの国の習慣である指輪は絶対に選ばない。贈られる俺の側は実感が湧き辛いだろうとイヨなら考えるだろうからな」

 

 最高の不意打ちがかませる、とリウルは何故の意気込み。なんの勝負をしてるんですかねこの子、とイバルリィはかなり呆れた。

 

「リウル……不慣れなのは分かりますけど、もう少し地に足を付けましょうよ」

「してやられっぱなしじゃ腹の虫が収まらねぇんだよ。ここら辺で勝ち癖を付けとかねぇと」

「勝つとか負けるとかに執着してる時点でイヨちゃんの足元にも及んでませんよリウルぅ」

 

 やろうとしている事自体はとてもロマンチックで良いと思うけれどもだ。イヨだってそれはもう涙を流すほど喜びであろうけどもだ。

 友人であるイバルリィから見ると方向性を間違えている気がしてならない。

 恋愛のれの字も実感していないのではなかろうか。イバルリィは神殿の神官としての職業柄様々な人々からの相談を持ち掛けられ、時には忠告や諫言を授ける立場にあるが、この拗らせ方はかなりレアケースである。

 

 思えばリウルはプロポーズ受諾直後にもアネット、パン、イバルリィの三人の下へ『お前らの言う必勝法を実行したら負けたんだが』とやけくそ気味に突撃してきて、一部始終を聞いた全員から『その流れでおでこにキスとか流石に無い、負けて当然』と異口同音にて返り討ちにあっていたものだ。

 

「俺は日々一緒に生活してるだけで心臓がうるせぇのにあいつは幸せ一色で余裕も余裕だ。たまには俺と同じ気分を味わえ、赤面しろ、狼狽えろ、照れろぉ!」

「多分イヨちゃんはそういうリウルを見て幸福の度合いを増してると思うんですが……」

 

 イヨとリウルの結婚生活はそれはもう円満で、今は新居を構えるべく色々と準備中らしい。安宿愛好者であったリウルも、流石に家庭を持ってもなお二人して宿の相部屋で過ごすのはどうかと思ったらしく、今は条件の合う物件を探しているがまだ見つからないとか。

 

 条件は主に冒険者組合に近い事が第一だが、イヨは友達を沢山呼べる広さやどんな天気でも練習できる設備、猫を飼いたいだとかと色々希望があるらしい。金銭的には困っていないので、なんなら新築になるかもしれないとは二人の言葉である。

 

 リウルもそうしたイヨの希望にかなり前向きで、二人の新居は質素な一軒家に屋内外の練習場を兼ね備えた道場の如き作りになるやもと囁かれている。

 

「第一あいつは何処触っても柔らかいし良い匂いするし──」

 

 リウルが思春期の少年みたいな事言い出しましたよ、とイバルリィは無言で目を細めた。

 

「──気は利くし気付いたら身の回りの仕事してるし、外では兎も角家の中では欠点なさ過ぎるんだよ! 今は近所のばあちゃんから家事全般習ってんだぞ! 全部俺の為に!」

「あっれえ私いま自慢されてます? うちの夫が私の事大好き過ぎて大変とかそんな話ですかこれ?」

 

 イヨに言わせると『リウルさんは自分の事は全部自分で出来ちゃう人だからちょっと寂しい。もっと僕に甘えて欲しいなぁ』だそうだ。ある意味お似合いのカップルかもしれない。

 

 基本的にリウルもイヨも、当たり前の事は当たり前に熟せるタイプだ。リウルは言うまでも無く万事に要領が良く、自分の身の回りの世話で他人を煩わせる事は無い。イヨだって時たま常識を知らないが故にぶっ飛んだ事をやらかしたものだが、それも今は昔の話で。

 公都に住み始めて早数か月。殆どこちらの風土に順応していて、日々の暮らしは順調である。

 

 冒険者としての知識を学び、武術家としての鍛錬を行い、同業者や街の人々と交流を深め、沢山の友達がいて、今は家事炊事も習い始めて──寝ている間を除けば日々を濃厚過ぎる程有意義に過ごしている。疲れが溜まるとお昼寝を挟んで元気復活、何処から何処までも非の打ちどころのない健康優良児だ。

 

「まあ、確かにイヨちゃんは尽くすタイプに見えますけどね」

「尽くされ過ぎて俺の方が同等のものを返せてるのか不安になる……だからこそここらで一発逆転を」

「……うん。おばちゃんもう何も言いません。諭したり心配したりするだけ無駄な感じがしてきました。二人はこうで良いのかも知れませんね」

 

 近頃のこんな感じのリウルだが、外では何事もなくアダマンタイト級冒険者として活動できているのだから不思議だ。結婚してから手を繋ぐのも目線を合わせるのも恥ずかしくなった等と言う癖に、『仕事中は夫婦ではなく冒険者仲間』であるからそう言う事をまるで意識せずに済むという。

 

 多分初心なリウルとしては、同じ距離の近さでも男女のそれでなく冒険者として触れ合う方がかなり気が楽で、その方が落ち着くのだろう。むしろ冒険者としての振る舞いの方が休憩になっている様だ。公私の私で緊張して公で安らぐって、普通は逆だと思うが。

 

「まあ、おばちゃんの前でくらいそういう悩みを表に出しても良いんですよ。先は長いんですから、自然と慣れるでしょうし」

「そういうもんかなぁ」

 

 この感情に慣れる日など来るのだろうか、そう考えている表情でリウルが首をかしげる。

 

「慣れますとも。人間は慣れる生き物です。どんな非日常も繰り返す内に日常になります。ただ、その日常をあって当たり前のものとして軽んじる様ではいけません。繰り返す一瞬一瞬は、同じようでいて常に掛け替えのないものなのです」

「……おお」

「愛情も幸福も、常に維持と向上を忘れてはなりません。信頼し合うのは良い事ですが、ただ与えられるがままに溺れる様では互いの為にならず、遠からずすれ違いが始まるでしょう。夫婦とは言え元は他人です。放っておけば元の状態に戻ってしまうのはある種自然の摂理の様なもの。愛する努力と愛される努力を怠りませぬよう」

 

 逆に言うと、愛する為愛される為の労力を払い続けるのが億劫になってきた時、既に愛は熱を失いつつあると言っても良いだろうか。燃え上がるだけが愛では無いが、冷めきってしまっても愛とは呼べないだろう。

 

「……立て板に水とはこの事かって位の口上だったが、神殿って結構そういう相談が多いのか?」

「実を言うとかなり多いですね。結婚後半年から三年くらいの方は結構お見えになりますし、逆に付き合う以前のどう告白したら良いだろうかと相談に来る若い方もいらっしゃいます」

 

 別に神殿は恋愛相談所では無いのだが、地域住民から信頼されている証だと思って、出来得る限りの助言をしている。人間誰しも、一人で思い悩んでいると迷走するものだ。

 迷走だけならまだ良い方で、迷走の末暴走して衝突事故を起こす方も世の中にはいらっしゃるので、そうなる前に悩みを打ち明ける事の出来る存在は非常に重要だとイバルリィは思っている。

 

 そして多くの人にとってより身近で頼りになる存在、それが神殿である様に常に心掛けているつもりだ。

 

「……じゃあもののついでに相談なんだが、イヨから実家に挨拶に行きたいって言われててな……」

「行けば良いじゃないですか。冬になれば時間の余裕もあるでしょう」

「えぇー……俺の実家なんて親父は豚箱だし母さんは墓の下だし面白いもん何にもねぇぞ。つーか面倒くせぇ」

「リウルには分からないかもしれませんが、イヨちゃんの側からすればですね、相手家族にきちんと紹介されて認められたいという気持ちが──」

「つーか結婚報告なんかしたら絶対兄貴たちに揶揄われるんだよなぁ」

「……ちょっと待ってくださいリウル、貴女もしかして手紙でですらイヨちゃんとの事知らせてないんじゃ──」

 

 徐々に冬の足音が大きくなっていく日々の、平和で平凡な光景であった。

 

 

 

 

 時は更に過ぎ、冬の気配は日に日に濃くなる。

 人々の吐き出す息は白くなり、もう少しすれば朝方に霜が降りるだろう。農村では外仕事が無くなり、家の仕事へと移っていく時期だ。農作業は植物のペースに合わせて行われる。雑草取りにしろ播種にしろ刈り取りにしろ、植物は自然にそうなる時期にしか成らないのだ。

 魔法やマジックアイテムが存在するこの世界ですら、大部分でその法則は不変だ。都市でも物流にはそれに合った変化が起きる。実らない物は店頭に並ばないし、無いのだから買えない。

 

 彩りが種類を減らし、白や灰色が多く見られる季節がやってくる。

 

 冒険者にとっても、この時期は休みの季節だ。第一仕事が少ない。普段追い回し、時には追い回されるモンスターからして冬には姿を潜めたり森の奥に引っ込んだり──人が家に籠る様に、彼ら人ならぬ者の多くも冬を越す為の準備に入る。

 

 全く同じ場所でも、寒さと雪に包まれればそれだけでより生存し難い。

 

 互いの接点が少なくなる以上仕事は減り、遺跡の探索や未知への挑戦にしろ、わざわざこの季節は選ばない。冒険者にとって冬は休息、娯楽、鍛錬、副業の季節だ。

 

 公国に二十年振りに誕生したアダマンタイト級冒険者パーティ【スパエラ】にしてもそれは同じである。少ないが故にある時は急な案件である場合が多い依頼の為にチームとしての鍛錬も無論怠らないが、平時と比べて余裕のある時間をそれぞれ家族団欒に、研究に、練習につぎ込んでいく。

 

 公都は寒気こそ強いものの地理的な条件によるものか、降雪量は余り多くない。何らかの悪条件が重なって大量積雪という惨状は稀である。用の無い者は表に出なくなり、数少ない道行く人は皆厚着をしている。

 

 今少し季節が進んで本格的な冬となれば、【スパエラ】は帝国に赴くだろう。大公が約束した時期はもう遠くない所まで来ていた。

 ちなみに、少し前に行われた王国と帝国の戦争──公国も一枚噛んでいるが──は帝国側が歴史的大勝を収めたらしい。

 

 イヨが下手な隠形で夜の街を走っていたのは、そんな寒々しい月夜の晩の事であった。

 

 如何に専門外とは言え、その身に宿った力は人を超えつつある域である。少なくとも一般市民の目にも耳にも気取られる事無く、宵の闇に紛れて高速で進んでいく。防寒の為に纏った外套が、良い具合に少年の姿形を隠していた。

 

 やがて少年は公都を囲む防壁まで辿り着く。既に日は落ちて久しく開門時間は過ぎているし、そもそも少年が至った其処はただ頑丈で高い石造りの壁があるばかりで、門など無い場所だ。

 

 イヨはそんな場所できょろきょろと辺りを見回し、人がいない事を確認すると、

 

「よいしょっと」

 

 壁の凹凸や石と石の境目に手先足先を引っ掻け、身体能力を頼りに登り始めた。身体能力において大半の人類より魔獣の方に近いイヨにとっては、指一本で自重を支える事は、技術的には兎も角筋力的には造作も無い事であった。

 

 追手がある訳でも無し、イヨはむしろこの壁登りを楽しみながら、よいしょよいしょとゆっくり防壁を登り切り、同じようにして反対側──都市外へと降りた。

 

 公国で最大の都市とは言え、防壁から出てしまえば其処は都市の外である。一応、安全とは言い切れない。現在の公都は先の事件で警戒態勢を強めている為、防壁上で巡回警備をする警備兵や騎士に見つかれば問題になるかもしれない。

 

 冬らしい雲に覆われた夜は視認性が悪いが、なればこそ巡回の者たちは異常を見逃さない様に注意深く警戒している筈。

 

 イヨは風の様に走り出した。目指すは公都から見えない程度に遠く、いざとなればすぐ戻れる位に近い場所──指定された『東の丘』だ。

 

 走る、走る。大概の生き物が追従できないその速度は正に疾風。今公都で英雄と呼ばれる彼にしてみれば、一里や二里の距離は準備運動にもならない。

 

 約束のその場所、丘と呼べるかも怪しい様なこじんまりとしたその場所には、約束通りに一人の男が立っていた。夜に紛れるその姿に、イヨは歓喜を滲ませながら手を振り、声を掛ける。

 

「ガドさん! お待たせしました!」

「おう、来たかいイヨ・シノン──って」

 

 気軽に手を上げ返す老人、かつてイヨと死闘を繰り広げた現冒険者組合副組合長、凶報を聞き付け急遽出先から舞い戻ってきた往年の大英雄ガド・スタックシオンだったが、近距離でイヨの姿を見た途端呆れた顔になる。

 

「なんでぇその恰好は、何処の娘さんが忍んで来たのかと思ったぜ」

「誰にも見つからない様にとの事だったので、一応変装をしてきました!」

 

 例によって少年は女装していた。

 

 

 

 

「お前さんもけったいな趣味してるよなぁ」

「僕の持ちネタですから!」

 

 自慢げに胸を張る少年は、外見的には少女だった。武器防具着用のことと事前に連絡があった為、服装は修理から帰ってきた【アーマー・オブ・ウォーモンガー】【レッグ・オブ・ハードラック】【ハンズ・オブ・ハードシップ】、そして各種装飾品だ。

 

 だが、雲の切れ間から注ぐ月光に輝く髪は艶やかな黒。瞳の色も金から黒へ。暗視の能力を持つマジックアイテムでもある知的なスクエア型眼鏡。そして髪型は──

 

「僕の国では一部の界隈で縁起が悪いなんて言われたりもする髪型なんですけど、僕はこれ結構好きなんですよ。母性的な感じがしませんか?」

 

 イヨの友人が見た瞬間に『こういう髪をした母親キャラって割と高確率で死ぬか、もう死んでるかだよな』『母親キャラの場合はそうかもしれないけど、イヨはリアルでも男っしょ? いやーどうなんだろ』と零したその髪型はルーズサイドテール。

 長髪を下の方で結わえ、片方の肩越しに前に流した髪型だ。

 

「……………………………………おう、まあ、縁起云々は分かんねぇが、お前さんが良いんなら良いと思うぜ。ちなみにお前さん、髪切る気はねぇのかい?」

 

 言外に、『そんな髪してっから女に間違われるんじゃねぇの』と問うガドだが、イヨの返答は即座だった。

 

「今の所無いですね。長い方が髪型のバリエーションも多いですし、リウルさんも綺麗だって褒めてくれますし……。それに僕、子供の頃から短髪ばっかりだったので、長い髪って憧れなんです」

 

 それとこれはリアルでの実体験になるが、イヨはどうせ短髪だろうと坊主だろうと少女に間違われるのだ。空手道場に入門する前から短髪だったが、初見でイヨを男と見抜いた者は少ない。

 

 空手道場に入門して坊主頭にするともっと面倒になった。

 イヨを良く知らない他の学年の先生はイヨの家庭環境を心配して事情を聞きに来たし、防塵マスクで顔など半分以上隠れているのに道行く人からは奇異の目で見られるし、虐待の疑いで警察官が話しかけてきた事もある。重病の治療で髪が抜けるから坊主にしたのだと噂も流れた。弟と妹は泣いた。坊主も似合うけどパパとママはもうちょっと長い方が好きよ、と優しく両親に諭された。祖父母も同様だ。

 

 悲しい事にイヨの少女っぽさはもう髪型でカバーできる範囲ではないのだ。以降リアルでは短髪であり続けたものの、坊主頭にした事は一度もない。余りに似合わな過ぎるというのも理由の一つだが、『五厘刈りの少女』として周囲に見られるのは色々と面倒が多かった。

 

「ふーん……そんだけ長いと色々手間じゃねえか?」

「別にそんなには……朝にささっと軽く櫛を通す位ですし」

「いやあ、俺の嫁とかつての娘を見ててつくづく思うんだが、その長さの手入れはささっとじゃすまねぇだろうよう」

「そうでしょうか……僕の手入れなんて梳いて終わりですよ? むしろリウルさんの髪の方が硬くて、今まで無頓着だったのもあって時間が掛かるくらいで」

「髪質が良いって事かね? 得な体質だねぇお前さんも」

 

 真夜中の都市外での世間話は、如何に首都近辺とは言え、この世界の事情を考えれば危険極まりない。いつ何が出てくるともしれないが、この二人に限っては多少の危険など剣一振り拳の一突きで解決可能である。

 

 例えエルダーの成長段階に至ったドラゴンの急襲を受けたとしても、人類の極限たる英雄二人にとって致命的な事態では無い。立ち回り次第で突破可能な危険に過ぎないのだ。

 

「家を建てるそうじゃねえか。随分な豪邸が立つって噂だぜ?」

「そんな噂になっているんですか。お恥ずかしい、全天候型の練習スペースを考慮するとかなりの面積になってしまったのは事実ですが、家自体はごく普通のものになる予定なのですが」

「結局名前はシノンのままなんだってな?」

「はい。僕もリウルさんも自分の姓に拘りはありませんでしたが、リウルさんがその方が良いと」

 

 リウルには二人の兄と親族が存命であり、名が変わった所でブラム家がどうこうなる訳ではないし、彼女にとって自分の名前がどうであろうと自己の何が変わる訳でも無し、確固たる『自分』は揺るがない。

 

 だがシノンの──篠田の名を持つ者は、当たり前だがこの大陸に伊代一人だ。

 イヨがイヨ・ブラムになればそれで篠田の名は消える。あまり家の存続や苗字の変更について拘りが無い、むしろ結婚して相手の名字を名乗る事にある種の憧れ染みたものさえあったイヨだが、唯一転移前から自身が持ち続ける家族からの贈り物はやはり大事だった。

 リウルの方からそう言ってくれた。『俺がリウル・シノンで良いだろ。お前の名前は変えちゃいけねぇよ』と事も無げに。当たり前の様にそう言ってくれるこの人と一緒になれて自分は本当に幸せ者だ、とイヨは感じ入ったものだ。

 

「まあリウルさんは名前が売れていますから、しばらくはリウル・ブラムと呼ばれる事の方が多いでしょうけども、おいおい知られていったらいいかなと」

 

 暗闇の中、白髪の老人はうんうんと頷いた。その様はやはり平凡にも見えかねない程気負いないが、イヨは何処か張り詰めた物を感じる。

 

 周囲は殆ど暗闇に等しい。時折差し込む月光は明かりとしては当てにならない。雲に遮られて僅かに地を照らす程度だ。

 

 視線の動きから察するにガドも何らかの手段で暗視能力を得ている様ではあるが、イヨに武装をしてこいと伝え、自身も現役時代の装備に身を包んでいる以上、ただの世間話が用事である筈は無いのだが。

 

 二人の間にふと静寂が満ち、イヨはそれに身を任せてガドの口が開くのを待った。ガドはイヨに対して横に身体を向け、目線は暗雲の空を見ている。

 

 どれほど時間が経っただろうか、

 

「……イヨ・シノンよう」

「はい、ガドさ──」

「今のお前であっても、この剣は見えねぇか?」

 

 少年の首筋にはいつの間にか刃が添えられていた。勿論、それを握る者は目の前のガド・スタックシオンである。

 

 

 

 

「……〈朧幻斬撃〉ですね」

「おうよ。誰かに聞いたか?」

「いえ。一度見た武技ですし、何時かまたお手合わせ願いたいとも思っていたので、名前以外は自分で。剣撃の起こりを隠蔽する武技と見ましたが」

「正解だ。この武技は今みてぇに刀身を鞘に納めた状態からでも効果が無い事ぁねぇが、剣を抜き構えてからの状態でこそ最大の効果を発揮する。なまじ剣が見えてるとよ、動かない以上動いてねぇって頭が判断しちまうんだよなぁ」

 

 奇刃変刃、公国最速の刃。いずれも現役時代のガド・スタックシオンを讃えて付けられた異名だ。彼の能力であれば、ただ抜刀して叩き付けるだけでも大抵の人類は斬首にて絶命に至る。

 其処に武技が加われば尚の事。近距離戦において目の前の老人を上回る人間が世界に幾人存在するだろうか。

 

 広い世界にはまだ見ぬ強者も多いだろうが、少なくとも本気の殺し合いという前提で言うなら、イヨは恐らくガド・スタックシオンに殺されない強者の中に入っていないだろう。

 

 武技──その戦士版の魔法とも言うべきこの世界特有の力は、ユグドラシルのそれとは毛色が異なる。転移直後などはスキルの事をこちらでは武技と呼ぶのだろうと思っていたが、幾度もの経験を経て、イヨはその力に対する理解を深め、その脅威たるを存分に認識していた。

 

〈流水加速〉、〈不落要塞〉、〈即応反射〉、〈剛腕剛撃〉、〈能力超向上〉、〈超回避〉──この世界において極一部の天才のみが習得を可能とする強力な武技の数々は、冒険者たちとの鍛錬の中でイヨに数多くの失着を、時には敗北を味合わせてきたのだ。

 

 そして目の前の英傑が使うそれらは、極一部の天才たちだけが至り得る言わば上位武技の更なる発展改良形──自分自身で開発、習得した大英雄ガド・スタックシオンのオリジナルだ。

 

「これに加えて、足さばきと踏み込みから予備動作と淀みを消し、更なる加速を齎す〈春水闊歩〉、一撃で巨人を両断したと言われる〈二刀極斬〉……目にも眩い苛烈な攻撃に混じる致命にして不可知の一撃、これがガドさんの必殺なんですね」

「おうよ。俺に斬られて自身の死を自覚できた奴は片手にも満たねぇ。大抵は戦いの最中に自覚無く死んでそのままよ。首ぃ刎ねてやった後、五秒近く生きてるみてぇに戦い続けた奴もいた」

 

 あん時ぁ距離が空き過ぎてたな、ガドは呟き、愛刀を鞘に納めた。イヨの特例昇級の審査という建前で前に行ったあの試合の最後──互いが正面からぶつかり合おうとしたその瞬間を言っているのだろう。

 

 試合の様に息の合ったぶつかり合い等実戦の中には殆ど存在しない。騙し、騙り、錯覚させ、裏を取ろう隙を突こう拍子を乱そうと虎視眈々に狙い合う。

 

 あの時、周囲の冒険者たちが【スパエラ】と共に仕掛けた二人の激突阻止は正に奇跡的な成果を齎したと言って良いだろう。ぶつかり合う超実力者を互いに傷つける事無く止めたのだから。

 

 防御系の武技を三つも重ねて発動したガルデンバルドに苦鳴を上げさせたイヨとガドの致死的な攻撃は、互いの人体を完膚なきまでに破壊するには十分過ぎる威力だった筈だ。

 

「……止められなかったら、死んでいたのは僕でした」

「それは穿ち過ぎだろうよう。俺もギリギリだったんだぜ? 九分九厘、相打ちだっただろうな」

 

 ──残った僅かな例外は貴方の勝利、僕の敗北だった筈です、とイヨは口内で言葉を転がした。

 

「俺が公都にいなかった頃、公城で俺の息子と戦ったんだって?」

 

 あの一件は試合内容もあってあまり広まってはいない筈だが、ガドならばむしろ知らない方が不自然だろう。

 

「……はい」

「バドは善戦したが、最終的にはお前が勝ったと聞いている」

「…………はい」

 

 バド・レミデア・フィール・ミルズス男爵には悪いが、ガドの言いたい事がイヨには痛いほど分かる。逆の立場だったら自分だってそう叱咤しただろうから。

 

「勝てて当たり前の格下相手に手古摺った末の辛勝。これはお前にとって負けに等しい無様だ。そこんところは分かってんな?」

 

 

 

 

「お前らはアダマンタイト級だ。そしてお前は英雄だ。自覚がどうあれ人はそう見る。人類の切り札だ。最強の代名詞だ。人の守り手だ。そうでなきゃならねえ。最強が負ける意味、知らねぇとは言わせねぇ」

 

 勝って当たり前の実力差があった。でも負ける寸前まで手古摺った。

 負けて当たり前の実力差があった。でももう少しで勝てるという所まで相手を追い詰めた。

 人々が称えるのは後者だ。前者は『最終的に勝ったから良い様なものの、あの内容では』、だ。

 

 こういう時、勝ったから良い等と言ってくれる人は少ない。小学生の空手道全国大会王者の経験があり、そして其処から転げ落ちたイヨにとっては余りに耳慣れた台詞だ。

 勝てる相手には勝って当たり前。圧勝が当然。五分の相手とだって負ければ手抜かりだ。負けが濃い相手にでも勝たねばならぬ。

 

 一番とはそういうもの。実際がその理想とは遠かったとしても、志は常に上に上に。血の滲む様な努力など当たり前の前提であって、ある程度以上のレベルならばそれは誰も彼も例外なくしているのだ。していない者などいない。

 二度や三度頂点に立ったとて、勝ち続けられなければ最終的には負けなのだ。

 

 体格の差が開くにあたって王者どころか上位大会進出すら叶わなくなった時期、かつて鎬を削った強敵が、顔も知らない誰かが、初戦敗退常連だった顔見知りが自分を負かして上に昇っていく──今強い人たちを下から眺める日々。

 『王者は勝って当たり前』。強かった時も弱かった時も、イヨはこの言葉があまり好きでは無かった。空手は好きだったし勝てば嬉しかったし、負けは負けでこれ以上無い糧だったが、言葉として好ましくなかったのだ。

 

 だが、今の自分が好ましいとか好ましくないと言える立場で無い事は承知している。【スパエラ】の先達三人にも口を酸っぱくして言われた事だ。

 

「一応言っとくがよう、俺は息子を愛してる。俺に似ず真面目に──ちぃとばかし個性的ではあるが、真面目に育って今や一人前だ。自慢の息子だ。だがな、それはそれ、これはこれ。お前の力量ならバド風情は何の問題も無く叩きのめしてやらなきゃあ嘘だぜ」

 

 自慢の息子を風情と言ってのけるガド・スタックシオンは既に人間の顔をしていない。闇夜に浮かぶその表情はただ真剣なもの──そうである筈なのに、其処に人として当たり前の揺らぎや波を感じないのだ。これは、そう──鬼気が漲っているとでも言うのか。

 

 先程刀を突き付けられてより、何ならやり返さんと気を伺っているイヨ・シノンであるが、その隙は無い。彼我の距離が至近でなく、刀剣の間合いだと言うのも理由の一つではあるが、では距離を詰められるかと言えばそれも難しい。

 

 ああ、これが私人でも公人でも武人でもない顔、英雄としてのガド・スタックシオンの顔かと少年は唐突に理解した。

 

「アダマンタイトが負けたら誰が負かした奴を相手にするんだ? 最強が負けた、もう勝てる奴ぁいねぇ、人々にそう思わせちゃいけねぇんだ。中でもお前さんは特によ、デスナイトと対峙した男よ」

 

 国をも亡ぼすモンスターと互角に戦った男。そして、そのモンスターを滅ぼした勇者たち。その存在は公都の民草の希望の象徴だ。

 

「今回は味方同士の人間同士だからまだ良かったが、本来相手が死に損ないの老英雄だろうと、種族の頂点に立つモンスターの王だろうと、国堕としだろうとお前は勝たなきゃならねぇんだ」

 

 仲間を亡くし、既に引退して二十年が過ぎる英雄の言葉は冬の夜より尚寒々しく、それでいて刃の様に鋭い。

 

「英雄は例え死んでも負けちゃならねぇんだよう。勝って死んだならまだ象徴として使えるが、死んで負けるも負けて生きるも最悪よ。死ぬにしろ生きるにしろ勝つ。俺の様に、俺の仲間たちの様にだ。英雄を破るほどのその相手は絶望の象徴となる。最強より強い奴に勝てる訳はねぇ、血を見る事も無く平和に生きる人々にそう思わせちゃいけねぇんだよ」

 

 アンデッドはクソだ、と老人は暗夜に断言した。

 

「弱い連中は自壊も恐れず盲目的にただ生者を襲う。強いのは万策尽くしてひたすら生者を殺す。生きる為でも何でもねぇ、とうに終わった筈の連中がただ殺すだけ。存在するだけ百害あって一利なし、一刻も早く死の安寧に戻してやんのが世の為人の為連中の為ってもんだ」

 

 死ねば仏と言う訳でも無いが、この世界の宗教観によれば例え罪人であっても、刑が執行されて死んだ時点で罪は拭われている。罪が拭われた後に起き上がり、生を憎む死の具現となって生者を襲い続ける等、余りに悍ましく哀れだ。

 勿論そんな連中に故も何もなくただ殺される被害者は更に哀れである。これほど報われない、何の得にもならない死はあるまい。

 

 アンデッドによって生ける者が殺されて得をする、喜ぶのは同じアンデッドか、生きながらにして不死者に傾倒した変態位である。

 

「お前さんは高位吸血鬼と思しき小娘を取り逃がしてる。更にはその背後に、輪を掛けて強大な化け物がいるものと推測される」

「分かっています。あの時終わらせられなかった僕の手抜かりです。必ずや」

「おうよ。殺し損ねた悪党は地の底まで追い詰めて念入りにあの世に送れ。一度死に損なった実績のある連中だぁ、二度三度と這い上がって来ねぇ保証もねぇ。塵も残さず滅ぼし尽くせ」

「はい、絶対に……!」

 

 滅ぼします、そう暗夜に誓う。

 第三者が居合わせたならば息苦しささえ感じただろう、濃密な気迫の放射だった。

 

 大先達からの叱咤激励。新婚の幸せに浸ったイヨの気を一段締め上げるには十分過ぎるものである。こと戦いに関して微に入り細を穿って大胆不敵に熱烈激情、冷徹にして不動、生来にして後天の戦闘特化者たるイヨ・シノンの熱が更に高まる──反面、対面のガド・スタックシオンは萎んだ。

 

 構えも変わらない。顔つきも。何も変わらないのに、何故だろうか、イヨは目の前の人物が急に、年相応の老人になってしまった様な気がした。相変わらず其処にいるガドの姿に、自分は隙を見出せないのに。

 

「はぁ」

 

 ──何が変わった? 外見は変わらない──心境? 心構え? ──自覚?

 

「偉そうに先輩風吹かせてはみたけどよう」

 

 老いた英雄が。

 

「俺が言えたこっちゃねぇんだよなあ、公都が危ねぇって時に現場に居もしなかった俺にはよう」

 

 老いた元英雄に。

 

 

 

 

「ガドさん……?」

「俺はよう、まだまだそこら辺の若いのには負けねぇ自信がある。不意打ちで良いなら目下の所公国最強だろうお前さんの首でも刎ねられる。あの場にいたなら出来る事は山ほどあった筈だ」

 

 そんな事を言っても仕方が無い。どうしようもない。あの時こうしていたら──どう仮定した所で変わらないのだ。

 

 そもそもガドは現役を引退して長く、冒険者組合副組合長の職にある人間である。その職務の為に公都にいなかったのだ。もしかしたら一国を滅ぼせる化け物が来るかも──そんな天文学的な不幸を予期していなかったとして、それを責められる者など地上の何処にもいやしない。

 もし責める者がいるとしたらば、それは八つ当たりというものである。

 

 ただ。本人が自分を責める場合は──。

 

「ガドさん──」

「英雄ってのはよう、英雄たる機会に恵まれるんだ。そうして英雄たるを示して見せた者、そう言う奴だけが英雄だ」

 

 終生を平穏無事に過ごし、誰にも脅かされず誰とも戦わなかった者がいたとする。その人物がどれほど強かろうとも、英雄とは呼ばれない。脅威の下でこそ英雄は生まれる。

 

「分かり切ってたつもりだった。だが分かってなかったんだな。半端に強さを保ち続ける事が出来たばっかりに。元英雄としての自分の使い道を探してよう、後進の為と思って象徴に徹した。時にはこっそり請われて敵も斬った」

 

 イヨは公城でのバド・レミデア・フィール・ミルズス男爵の言葉を思い出した。ガドは自分の長男を、その強さにおいてガド本人にも追随するとされた自らの息子を斬り殺している。

 裏社会に身を寄せたからだと言っていた。そしてそれは一般には殆ど知られていないとも。

 

 官民共に強者不在の時代が長かった公国では、かつての英雄に迫るほどの強さを持った悪者を如何にかできるのは、引退した英雄本人しかいなかったのだろう。

 

「どっちつかずだった。でもよう、今回でこそ、痛いほど分かり切った。もう俺は英雄たる定めから外れちまったようだ。必要な時に俺はその場にいなかった──居合わせたのはお前さんだ、イヨ・シノン。新たな英雄よ」

「英雄たる定め──それも、アダマンタイト級冒険者の心構えでしょうか?」

「いんや? 少なくとも現役の時はこんな事僅かにも考えなかったぜ。今のアダマンタイト級がどうかは知らねぇが、俺と同世代の連中もそんな細かい事は考えてなかったように思う……初めて天の定めってのを意識したのは、仲間が死んで俺だけが生き残った時、引退した後だな」

 

 その辺りの事はイヨも教わったし、自分でも調べたので知っている。ガドがリーダーだった【剛鋭の三剣】のメンバー、ガドと並び立って一時代を築いた若き天才たちは、最後の依頼で全員が死亡している。

 

 狂った竜とゴブリン部族の侵攻──公国では誰もが知る英雄譚だ。正気を失ったドラゴンが七つの村と二つの街を壊滅させ、その混乱に乗じてゴブリンの部族連合が森から湧き出た。史上稀に見る大きな被害を巻き起こした事件である。

 

 チームを二つに分け、狂った竜とゴブリンの軍の両方を討ったのが公国史上最大最強のアダマンタイト級チーム【剛鋭の三剣】。

 中でも『ガド・スタックシオンの千人斬り』や『四英傑の竜落とし』の逸話は今でも語り草であり、彼らは公国東部数十万の民を救ったとして押しも押されもせぬ大英雄として歴史に名を刻んだ。

 

 一人でゴブリンの軍を相手取ったガド・スタックシオンは瀕死の重傷を負いながらも生き残り、酸のブレスを吐く黒竜に挑んだ四人は相打ちとなっている。

 

「実際千人も斬ってねえけどな。一人でやった訳でもねぇ。まあ突っ込む時こそ一人だったけどよう……族長やらの上位種どもを狙ってひたすら奇襲繰り返してよう、頭を失って逃げ散る多数の雑魚は騎士と他の冒険者が追い討った。その後俺は仲間の方に行ってよ、溶けた大地の中で──思い出したくねぇな」

 

 ガド・スタックシオンは仲間全員の蘇生に失敗している。腐敗と損壊の激しさが原因であると言われていて、この出来事と高齢が彼の引退を決定付けた。

 ガドに並ぶと言われた剛剣の使い手も、飛び影と称えられた隠密も、地神の杖と慕われた神官も、第五位階も間近と噂された最年少の天才魔法詠唱者も──皆死んでいる。

 

「つまりよ。俺が英雄引きずるのも限界ってこったな。これからは新たな英雄、【スパエラ】の時代。中でもお前さんだ。俺が殺し切れなかった男、俺を殺す寸前まで追い縋った男。だから呼んだ」

 

 本題である。ガド・スタックシオンの、一度は沈み萎んだ気が充溢していく。はち切れんばかりに。

 

「若いもん殺す訳には行かねぇからよう。今まであんまり人に稽古つけてやった事はねぇんだが──」

 

 不器用なのだ。若い頃から。そして本物とは実戦の中でこそ育まれるものであり、それを伝えるのも実戦でしか出来ないと思っている。

 修練場の教官連中には万人を責め殺して一人の英雄を見出すやり方は現実的に無理だと言い切られてしまったが、既に英雄たる者なら心配ない。

 衰え切る前に、数十年の経験から培った全てを伝えたかった。

 

「お前さんなら生きて耐えられると見込んでの事だ。どうだ、俺の稽古を──」

「是非ともお願いします!」

「おう、それでこそだぜイヨ・シノン!」

 

 イヨが嬉々として両拳を構えると、ガドも喜色満面に双刀を引き抜いた。

 

 雲の過ぎ去った月下に、二人の戦鬼が対峙する。

 

 自分と同等以上の強者との戦い。イヨにとってそれは願ってもやまない機会である。不遜な物言いだが、単身でイヨと互角に戦える強者は公国にはいないに等しい為、今までは質の不足を数で補う方法を取っていた。

 

 強くなるには無数のものがいる。努力、才能、環境、時間、良い指導者。増してや今のイヨは篠田伊代ではなく、ユグドラシルのキャラクターをベースとしたイヨ・シノン。

 戦えば戦うだけ強くなれると保証がされているに等しい。約束されたレベルアップ等と言う現実的にはあり得ないご都合が確定している。

 

 どれだけ身体を磨り潰そうともポーションや治癒魔法がある。強くなるために無限の修練と戦闘を重ねるのに必要なのは、後は心だけだ。これだけお膳立てをしてもらって、努力を惜しむ事が何故出来よう。

 少なくともイヨには出来ない。

 

 切創も裂創も割創も擦過傷も挫創も挫滅創も刺創も咬創も熱傷も、内臓破裂や解放骨折、四肢切断も。ありとあらゆる負荷を気にせず、痛みと好きなだけ慣れ親しんで自らを鍛えられる地獄のような天国は少年の理想であった。

 

 そして今。

 

 目の前には自分を踏み付け切り刻み喉を割かんとする指導者がいる。人生を戦闘に捧げ生き残った本物の戦士が。その全てをもって自らを鍛えようとしてくれている。

 

 こんなに恵まれていて良いのだろうかとイヨは一瞬悩んだが、次の瞬間全て忘れた。他の事に脳細胞を用いる愚は死を招く。目の前の老戦鬼をどう破ろうかという事だけに心技体を尽くさねば。

 

 イヨは前回の戦闘から一レベルアップし、新たなスキルを二つ覚えた。そういう意味では戦力差は縮まっている筈だが、ガドはガドで疲労対策など何か考えてきているだろう。完全にカバーするのは不可能な筈だが、装備品の内一つか二つを疲労軽減のマジックアイテムに交換されるだけでイヨは厳しい。

 

「三つほどお聞きしたい事が。何故僕だけなのですか? ガルデンバルドさんやリウルさん、ベリガミニさんは?」

「防御型の戦士はまだしも、斥候や魔法詠唱者に何を教えろってんでえ。そもそも俺ぁ人にもの教えられるような出来た人間じゃねぇんだ、お前はまだしも連中は俺相手にしたって強くなれねぇよ」

「成る程、申し訳ありません」

 

 心が逸っているのが分かる。心の臓が高鳴っているのも。だってしょうがないじゃないか、あの特例審査以降今一度拳を交えたくて仕方が無かったのだから。

 

 それをこうも整った形で叶えてくれた。

 

 ──次、次に雲が月に掛かった瞬間だ。僕は月を背にしている、僅かな明暗の差にガドさんの眼が順応する隙を突こう。

 

 まだかまだかと胸を弾ませながら、イヨは喋り続ける。僅かにも気を逸らせたらいいなぁ、と絶対に成功しないであろう企みに望みをかけて。

 

「僕の身体ももう僕一人の物では無いので、出来れば死なない様にお願いしますね」

「分かってらぁ。俺だって前回嫁にしこたま絞られてんだよ。もっとも、お前が死んで当然のミスを犯した日にゃあ知らねぇがな」

 

 ──もう少し、もう少しだ。最後にこれだけは──

 

「──なんでこんな郊外で隠れて戦うんですか? 練習なら普通に組合裏の修練場で良いのでは?」

「はっ」

 

 イヨの問いに白髪のガド・スタックシオンは鼻で笑い、子供みたいな顔で答えた。

 

「おいおいイヨ・シノンよぉ、面構えだけじゃなく性根も女子供になっちまったのかよう? ──練習は兎も角、男の特訓ってなぁ古今東西人知れずこっそりやるもんと決まってんだろうがぁ!」

「あぁ! 成る程、そうですね!」

 

 そっちの方がカッコいいから。

 

 百%の納得と共に、イヨ・シノンとガド・スタックシオンは互いに全力の攻撃をぶち込んだ。長い長い死闘──もとい秘密の特訓の開始であった。

 

 

 

 因みにこの秘密の特訓であるが、家に帰った瞬間それぞれの妻に思い切りバレて超説教を喰らい、次回以降公開練習となった事は二人の名誉のため敢えて記さずにおく。

 




次回から帝国編です。イヨの武者修行的な内容も含みます。

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