ナザリックへと消えた英雄のお話   作:柴田豊丸

47 / 60
本日投稿する二話の内一話目ですが、番外編です。次話が本編になります。内容的にはオリ主とオリヒロインがイチャついているだけです。興味の無い方は飛ばしてくださいませ。



番外編:ある日のシノン夫妻

 なんだか最近、矢鱈とイヨが可愛い。リウルは近頃つくづくそう思う。

 

 別に容姿の話ではない。

 一途に純朴に愛情を示してくる仕草がいじらしく、堪らなく愛しい。それは本当に不思議なくらい、思わず見惚れてしまう位に可愛らしくなった気がする。思い返せばそう感じ始めた様のは結婚してから──『俺のイヨ、俺だけのイヨ』になった時からである。

 

 本当の本当につくづく不思議なほど愛しく思える様になったので、かつて助言を求めた三人の女性冒険者に『なんかイヨが急に可愛くなった気がするんだが、なんでだろうな』と尋ねたら『うっわぁ、悩んでたと思ったら遂には相談風夫自慢を始めましたよ』と嫌そうな顔で言われた。

 

 俺は真面目に聞いたのに、とリウルは理不尽に思った。幼気で、健気で、献身的で、慎ましやかで、忠実で、それでいてちょっと抜けていて目が離せない。そんな最近の夫との生活について回る疑問を少し質問しただけだというのに。

 

 リウル自身恥ずかしさを堪えながら真剣な思いで質問したというのに、子供の賢さや伴侶の魅力を語りだしたら止まらない煩わしい輩と同一視されたのは心外であった。

 

「……なあイヨ」

「なぁに? リウルさん」

 

 その声が余りにも嬉しそうに弾んでいたので、リウルはちょっと続きを口にするのを躊躇った。

 最近リウルは気付けばイヨを眺める様になった。その癖、『こいつ俺の夫なんだよな』と今更な事実が脳裏で反響し、無性に胸が苦しい様な、その姿を直視できなくなってしまう様な──兎も角、そうした謎の情動が日々増していた。

 

「……いやさ、俺の短い髪なんて撫でてて楽しいか?」

「すっごく幸せですよ? ずっとこうしていたいくらい……」

 

 即答である。すっごく幸せらしい。リウルはなんと返せばいいのか悩んだ。

 

「頭、重いだろ? 疲れないか?」

「全然重くないです、むしろ癒されます。リウルさんはどうですか?」

 

  俺の頭って治癒効果でもあるのかな、等とリウルは馬鹿みたいな事を考える。

 

「ああうん、高さも丁度いいし程よく柔らかくて快適だぞ。暖かいし」

「えへへ、そうですか。良かったです」

 

 リウルの申告に偽りはない。しかも、体勢上視界正面には常に緩んだ笑みの夫の幸福顔がある訳で。そういう意味では実にリラックスできる体勢ではある。髪やら頬、額を撫でる手も優しくて心地よい。

 

 少しばかり時間を遡ればこの無垢な笑顔が自他の血肉で赤く染まっていたなど、誰も信じないだろうなとリウルは感慨深く思った。イヨ自身は己の肉体がどれだけ傷付こうと苦にせず、痛みを感じはしつつもそれを気に病む事は無いのだが、リウルは最近少し心配である。

 

 言葉にせねば通じないという当たり前の事実が、リウルには少しばかり辛い。面と向かって言えないのだ、恋愛方面においては特に。言ってないのに通じるというのもそれはそれで困るが。

 

 愛する夫のこの幸福そうな笑みを、愛らしい稚気を大切にしたい。守ってやりたい。何時までだって自分の隣でこうして微笑んでいてほしい。余り他の奴の前でみだりに笑みなど浮かべるな。例によって面と向かって口にした事は無いのだが、リウルは遅れてやって来た思春期と突然やって来た結婚生活の中で、年下の少年に対するそうした純朴な愛情とちょっとした独占欲を深めていた。

 

 ただ──これまでの人生で頼れる仲間や家族という者こそあれ、異性との年相応なお付き合いの経験は無く、幼少期に母親を無くして以来『甘えられる相手』というものを持たなかったリウルにとって、こうした他者に身を委ねる行為そのものは誠に不慣れで、心情的には落ち着かないのも事実だった。

 

「……お前こういうの好きだよな。抱き合ったりとか、手ぇ繋いだりとか」

「大好きです。リウルさんはこういうの、嫌ですか」

 

 嫌な訳は無い。リウルはイヨが背負う別離の悲しみや日々の鍛錬の苦痛をも上回る幸せを与えてやりたいのだ。一途に、ただただ誠実に己を想ってくれる最愛の伴侶を幸せにしてあげたいのである。

 

「全然嫌じゃねぇけど、けど」

 

 不慣れなのである。何となく気恥ずかしい。他人に身を委ねるとか、身体を、体重を預ける行為に未だ慣れない。幼い頃母親を無くして以来、家族や友人にすら信頼し信用はしても、依存はせずして生きてきたリウルからすれば、甘える様な行為全般が『相手に負担を掛けている』様で本能的に忌避する感覚があるのだ。

 

 そうした思慮の必要ない相手こそ伴侶だと頭では理解できる。夫と妻の関係である。互いに思いやりは必要でも、遠慮などはいらない。

 

 なんなら普段はリウルがリードする側であり、頼られ甘えられる立場なのだから、たまには頼って甘えてもなんら悪い事は無い──というのが頭では分かっていても、むず痒い。

 しかし一方でリウルの中には愛する他者に全てを委ねる甘い安堵と心地好さに浸り始め、その悦楽を享受している面もあり、心中複雑だ。

 

 リウルは今宿のベットで、両足の間に尻を落として座るイヨの膝に頭を預けていた。要するに愛する夫の膝枕を堪能していたのである。

 

 必要とあらば荒れた地面の上でも問題なく安眠できるリウルであるが、イヨの膝枕という寝具は、高さは程良く柔らかさは心地良く高めの体温は落ち着く。しかもイヨのやわっこい両のお手々が髪を撫で付け、安眠を促す様に頬や頭を愛撫してくる。

 

 イヨの少女染みた体躯など何処を取っても細く小さく薄く幼いのに、何処も柔らかな肉感で触れれば心地良く、温かい。香水など付けていない筈なのに何故良い匂いがするのだろう。リウルは不思議に思った。

 

 イヨは毎度の練習で必ず血塗れ泥塗れ汗塗れの戦場帰りが如き有様になってしまうので、その度に身を清めている。水浴びをするか、購入したマジックアイテムを用いて衣服ごと自身に〈クリーン/清潔〉を掛けるのだ。

 

 なので人並み外れて身綺麗なのである。日に数回も身を清めるのだから貴族子女でもそうはいない位に結果として清潔だ。その為悪臭など全くしないし、生き物として当然あるべき体臭すら薄い。でも、僅かに甘い良い匂いがする。その様にリウルは感じる。

 その薄い自然な体臭がリウルにとって好ましいだけなのだろうか。もしもこの少しばかり変態染みた執着に気付かれたらと思うと恥ずかしい所の話では無いので、まさか本人になど聞けはしない。断じて知られたくない。年上の威厳が崩壊する。

 

 愛する夫の奉仕精神溢れる膝枕は、一度恥じらいや意地というものを捨て去ってしまえば最早離れがたく、手放しがたいほどの優れた寝具であった。

 

 場所が高級宿のベットであるからして枕は当然存在するのだが、今更そちらに取り換えようという気は正直全くしない。

 

 事実リウルは頭の隅っこで『俺がこのまま寝ちゃったらイヨは動けないし、ずっと同じ体勢でいるのは苦痛だろう』と考えつつも、その他の大部分では睡眠の安楽に委ねる寸前の状況にあった。

 

 そのリウルの『寝てはならじ』という思考を呼んだが如く、イヨは微笑みつつ囁いた。

 

「僕はもっとリウルさんに頼ってほしいし、甘えて欲しいんです。僕なら大丈夫ですから、リウルさんもちょっとお休みしましょう?」

「………………じゃあ……仮眠取るから、一時間経ったら起こしてくれ」

「了解しましたぁ……お休みなさい、リウルさん」

 

 結局リウルは三大欲求の一つ睡眠欲の誘惑に耐え兼ね、イヨの猫撫で声に促されるまま、夢の世界へ落ちていった。その間際リウルの脳裏に浮かんで消えたのは、ある理解であり悟りであった。

 

 こういう甘えられたがりモードの時のイヨは誰かに似ていると、リウルは前々から思っていたのだ。それが具体的に誰に似ているのか分かった。というより、思い出した。

 

 母だ。

 

 最早記憶が薄れる程の幼き頃──冒険者への憧れすらふわふわとしたものだった、一人の少女リウル・ブラムの幼少期。全幅の信頼と愛情を寄せていた母の姿に、イヨの雰囲気や顔付きが何故か被るのだ。

 

 ──イヨが母さんに似てる? んなわきゃねぇのに……。

 

 まあイヨの外見は男としてはかなり例外的であるから、リウルの父親か母親のどちらかと言えば断然母親に似ている。リウルの父とイヨの共通点など人間の雄である点くらいだ。他の全ては全く違う。

 

 それはそれとして、母とイヨの顔はかなり異なっている。まず性別が違うし、年齢も違う。リウルは母の三人目の子だった訳で、リウルを生んだ時点で母はもう三十近かった筈だ。顔立ちの系統もかなり違う──イヨはどちらかと言えばおっとりしたとした、しかし明るい笑みが似合う幼気な女顔だ。

 

 リウルの好きな顔である。別段少女の様な顔の少年が好きとか、そんなこんがらがった趣味は無かったのだが、なんだかいつの間にか好きにさせられていた感がある。顔が好みならば体型も好みだ。少女的で、細く柔らかく触れると瑞々しい弾力があって温かい。

 

 ──なんか俺そればっかり言ってる気がするな。

 

 身体の感想ばかり言っているとまるで自分がイヨの身体にしか関心が無い様だ。断じてそんな事は無い、とリウルは内心で自己弁護。

 同性にも異性にも全く興味関心は無かったし今も無いのだが、イヨだけは愛おしい。髪を耳に掛ける仕草とか、ちらりと見えるうなじとか、前掛けと三角巾を付けて食材と向き合う姿とか。何故か目を奪われる。

 

 リウルの母親は容姿自体は整っていた方だが、正直美女とは言いにくい顔だった。残っている肖像画などを見るからに普段から相当キツイ表情をしていたのが分かる。美しい、綺麗と言った褒め言葉より怖そうという感想が先に立つ迫力溢れる眼力の女性だった。

 

 リウルの髪を長く伸ばしてドレスで着飾り、女盛りの年齢にして身体が女性らしさを増せば、髪と瞳の色以外はほぼほぼ母の似姿になるものと思われる。確か、母も十代の頃は少年の様だと言われていたとリウルは伝え聞いていた。

 

 それでも、絵画などの記録では無く、リウルの記憶にある母は常に優しく微笑んでいる。怖いと思った事は一度も無い。

 

 リウルは夢うつつのままに考える。目の前にはイヨの顔。リウルと居る時特有のただひたすらに幸せそうで充実感溢れる──同時に、こう言ってはなんだが、何にも考えて無さそうな子供っぽい──笑顔。

 

 ──母さんとイヨの共通点は──俺に無償の愛を与えてくれる所?

 

 其処まで思い至って、承知しがたいこっぱずかしさを直視し兼ねたリウルは、夢の世界に落ちていった。

 

 

 

 

「了解しましたぁ……お休みなさい、リウルさん」

 

 リウルさんって思考や目線が男性的なんだよね、と最近つくづくイヨは思う。思えば初めて会った時、イヨの性別を勘違いしていた時も胸回りや腰回りを凝視された様な気がする。リウルが異性の身体──男性の身体つきを注視している処は見た事が無いのだが、女性の身体について探る様な目付きをしているのは時たまあるのだ。

 

 結婚して以降、イヨはリウルの視線を感じる事が増えた。リウルはリウル自身が自覚するよりももっとずっとイヨの身体に執着していて、イヨはそれを感知していた。リウルはイヨの太腿やお腹、腰回り、首筋、頬や唇などに特段の関心を寄せているらしい。

 それと、体臭に対しても意外なほど執着が強い。身体的に密着した時など、リウルは事ある毎に鼻で深呼吸をしている。恐らくリウルにしてもこの行動自体は半ば無意識だと思うのだが、彼女の中でイヨの匂いになにか好ましく感じるモノがあるのは確かなようだ。

 匂いに対する興味関心について、『遺伝子的・本能的に相性の良い相手の体臭を、人間は好ましいものとして感じる』という俗説を知っているイヨは内心で殊更に喜んでいた。どんな事柄であれ、愛する異性に気に入られる要素が己にある事はイヨにとって幸福なのである。

 

 視線もそうだが、イヨのアプローチに対するリウルの反応は何処となく思春期の──異性慣れしていない少年的ですらある。まあそういった特徴ごと纏めて好きになってしまったイヨからすれば全部愛しいので気にした事は無いけれども。むしろパートナーが自分に興味関心を持ってくれるのはどんな形であれ嬉しく、望ましい事だった。

 

 そういうリウルこそを満たしてあげたい、抱き締めてあげたい。愛し愛されたい。ようやく思春期が訪れたらしい年上の伴侶が尚溺れるほど、目指せもっともっと相思相愛。

 

 こと恋愛に関してのみ、リウルの億歩先を行くのがイヨである。何にも考えていない訳がない。恋愛に関して銅級からやっと一歩を踏み出したばかりのリウルの目にどう写ろうとも、その脳内は幸せや充足に浸ると同時に、戦闘時並みに熱を帯びている。

 そのイヨとて十六歳の、思春期真っ盛りの男である。当然愛する女性と手を繋ぎたい、抱き合いたい、キスをしたい、関心を引きたい、頼られたい、甘えられたいという欲求がある。

 

 だと言うのに、リウルは何時まで経っても夫婦という二人の新たな関係に慣れてくれない。もうそれなりの日数は経つのに、一向に『なんか恥ずかしいし、緊張する……』というふんわりとしていて、それでいて強固な羞恥心を捨て去ってくれないのである。

 

 口には出さないながら多少の独占欲や支配欲なども芽生えてきたようで、そこは進歩だと思うが、イヨとしてはそうした感情をもっと表に出して、自分に向けて欲しいと思う。リウルに独占欲や支配欲があるのならば、イヨには被独占欲や被支配欲、奉仕欲があった。

 

 表面上は何の問題も無いように見えようとも、リウルは不可視なる羞恥と遠慮の一線を持っており、その向こう側に踏み入るのを頑なに避け続けている。

 

 夫婦でも恋人でも無かった時の方がスキンシップという意味ではむしろ充実していたかもしれない。少なくともただ単なるパーティーメンバー、気の合う仲間という関係だった時のリウルは手を繋ぐ事に躊躇いを覚えたりしなかった。

 

 勝手にうろつくんじゃねーよと言わんばかりにむんずとイヨの手を握り締め、颯爽と歩いていったものである。

 

 今のリウルは『今までは普通に繋いでたんだし、今更止めたら意識してるのが丸わかりだよなー……でも今までとは関係が違うんだし、むしろ公私のけじめって意味では人前でも手は繋がない方が……』等と悩みに悩んだ結果答えが出る前に目的地についてしまう、といった具合である。

 

 公私の私でもこうだ。公私の公、冒険者として仕事中である時のリウルなど全ての悩みから解放された様な顔で生き生きとしている。仕事中にそういうのは無しと互いの同意の下に決めているから、そもそも悩まないで済むという訳だ。

 

 リウルの悩みそのものについてはこれからの生活の為にも慣れてもらうしかない、無理に急いでも良い事は無い、自分の方がリウルのペースに合わせなければと思っていたイヨだが、流石に季節が移り変わるほど月日が経っても一向に慣れないというのは想定外であった。

 

 リウルは自分のそうした現状に謎の敗北感を覚え、同時に何時か勝つと意気込んでいるにも関わらず、勝利する為の具体的な行動や努力を放棄しつつある。結婚指輪を送ってくれた時などかなり夫婦らしい行動を取ってくれたのに、それ以降進歩らしい進歩が無いのだ。

 結婚指輪を送ってくれた時の嬉しさや感動をイヨが口に出せば、リウルは恥ずかしがって声を荒げるばかりでもう一度そうした行動を取ろうとはしてくれないのである。

 

 ──寝ている僕の身体を抱き締めたり撫で回したりするのは恥ずかしく無い癖に……。

 

 イヨは寝つきが良い。目を閉じてから数分経たずに寝てしまう程だ。だが同時に寝起きも良く、起きる時は一瞬でパッと起きる。

 

 寝に入って直ぐの頃に身体を触られればそりゃあ起きるというものである。起きているとリウルに悟られない様にするのは、単にリウルに気を使っているからである。最早意識の有るイヨと手を繋ぐのも恥ずかしいリウルだが、寝ているイヨを抱き締め、撫でるのは何故だか彼女的にはセーフらしい。

 

 かと言って、『起きてますよー』等と言えばリウルが──一方的に──咎められた様な気になって真っ赤になるのは目に見えている。イヨを抱き枕にしたい、お腹やら太腿を触りたい、匂いを堪能したいと他ならぬ妻が思うならイヨとしては全く構わない所か望ましく嬉しい事なので、寝たふりをして好きな様にさせているのだ。イヨも幸せだ。

 

 そうこうしている内に互いに気分が安らぎ、夢の世界に落ちていくのがシノン夫婦の就寝パターンであった。

 

 これ以上待っていられない、と決心したイヨは行動を起こした。リウルの自然なペースに任せていたら夫婦らしい夫婦になるのに何年かかるか分かったものではないからだ。

 

 あくまでも接触のレベル自体はリウルに合わせるが、イヨの側から積極的にスキンシップを敢行する事にしたのである。イヨ『が』甘えたい、イヨ『が』甘えられたいという形であればリウルは──自分の方が上手の立場であると思えるなら──『しょ、しょがねぇなー』と一定の冷静さを残したまま触れ合いを許容する事が出来るから、それを利用してだ。

 

 現在もその活動は継続しており、帝国最高級の宿の一室で膝枕中であるが、愛しい妻の寝顔を見ながらイヨは思う。リウルさんの方から強請ってくる様にしてやるもんね、と。

 

「リウルさんは僕の家族になってくれた。僕の寂しさに寄り添って、悲しみを癒してくれた。だったら僕もリウルさんにそうしてあげたい。なれるものならリウルさんのお母さんにだってなってあげたいんだよー?」

 

 甘えてもいいのである。イヨにだけは。

 むしろ甘えてほしい、頼ってほしいのである。イヨにだけ。

 

 リウルの場合は他の家族は存命であり、取ろうと思えば幾らでも連絡が取れる状態だ。だがしかし、完全に立ち直っていると言って良い程度ではあるが、幼少期に母を無くしているという経験はリウルの中に、本人すら自覚が薄い小さな小さな傷跡と、その傷跡に端を発する忌避感を残しているとイヨは見ている。

 

 リウルがその存在で家族や友人と二度と会えないイヨの気持ちを慰めてくれた様に。イヨもリウルの喪失を癒してあげたい。

 

 イヨはリウルを求めるし、リウルに求められたい。イヨはリウルを独り占めしたいし、リウルに独り占めされたいのである。

 自主自立で独立独歩、必要とあらば一人でなんでもこなせるリウルも素敵なのだが、そこはこう、もうちょっと夫である自分に甘えて欲しいのだ。

 

 イヨは戦いと同じ位恋にも愛にも全力で挑む。恋愛においても生まれついてのファイターなのである。惚れた相手との結婚という結果を勝ち取ったイヨであるが、結婚がゴールでは無くスタートである事を本能的に知っていた。

 

 遥か遠き故郷を思い起こさせるリウルの黒い瞳、黒い髪。短く強い黒髪を撫でながらイヨは思う。愛おしい、と。あのクソ女吸血鬼の髪も黒かったがあれは邪気で染まった様な感じであり全然イヨ的には親愛もクソも無い。討伐対象である。いずれ滅ぼす。絶対に。

 

 既に朝起きて髪に櫛を通す行為などはイヨの手によって行うものと習慣化させていた。それに続いて狙うは膝枕の習慣化だ。回数を重ねて徐々に忌避感を無くしてやるのだ。

 腕枕なども実は憧れがあるのだが、あれは顔の距離が近いのでリウルの方が恥ずかしがることが予想される上に、イヨの腕では枕としてボリューム感が足りず不適格と言わざるを得ない。

 

 人の気持ちは日々移り変わる。どんな不幸もどんな幸福もやがて順化し、日常になる。すると特別感が失せ、伴う情動も平坦になる。恨みつらみが時間が過ぎ去るにつれて薄まるように、愛も恋も永遠ではない。その他全ての感情と同じく訪れ重なる時間によって埋没し、薄まっていく。

 

 一時の成果を永遠不変のものと勘違いし妄信し続け、顧みる事見詰め直す事を忘れると、あらゆる全ては経年劣化や変事の前に脆く崩れ去る。

 

 なればこそ、日々新しくより強く愛を恋を重ね塗りし、更新していかなくてはならない。慣れや忘れを上回るほど恋し恋され、愛し愛され続けるのだ。生まれて初めてのこの恋が愛が終生続けられればどれだけ幸せかと、イヨはそう思っているのだから。

 

 勝利と実力向上の為に治る程度の身体損壊などどうでもいい様に、愛しい妻と終生添い遂げる為にはどれだけの努力も惜しくない。

 

 リウルさんのペースに合わせてもう少しゆっくり事を進められたら良かった、とイヨは今でも思っている。異性にまるで興味の無い段階から一気に結婚まで事を進めてしまい、リウルは困惑しただろう。そしてここから更に順化を進めるのだ。

 でもしょうがない。何時死ぬとも分からぬ世界なのだ。気持ちを打ち明けられずして死んだらそれこそ死にきれない。

 

 炊事洗濯は勉強中。リウルの好む味付けも勉強中だ。食べ物には結構こだわる人なので、そこら辺は努力のし甲斐がある。

 

「お義父さん……には会えないかもしれないけど、お義兄さんやお義姉さんに会うの、楽しみだなぁ」

 

 リウルが散々面倒臭いかったるい忙しいと先延ばしに先延ばしを重ねていた彼女の実家への初訪問も、帝国からの帰還後遂に実現する予定なのである。これはリウルにとっても初めての帰郷である。年末年始にかけて三日ほど滞在する予定だ。こればっかりはイヨも渋るリウルが頷くまでごねにごねまくってと首を縦に振らせた。

 

 イヨ・シノン、未だ攻略中かつ売込み中──ッ!

 




時系列は帝都滞在中の何時か。
こういう前後をあまり考えなくていい話は簡単に書けるんですが、本編はそうもいかないので書くのが大変です。

今後も時折、本編に混ぜ込むには微妙な話、一話分には満たない分量の話を番外編という形で同時投稿するかもしれません。
次の番外編は王国舞台で蒼薔薇のみなさんとブレインさんを描写する予定です。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。