ナザリックへと消えた英雄のお話   作:柴田豊丸

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【銀糸鳥】と【スパエラ】

 騎馬立ちに構え、水の入った樽に掌底を当てる。所謂寸勁など元居た世界の練習ではやった事がない。漫画の真似をして遊んだ事ならあったかもしれない。ロマンというか、カッコいい技だと思う。

 

「──ッ」

 

 呼気。

 

 瞬間、樽の上蓋が木片と化して弾け飛び、詰まった水が円柱状に噴き上げる。樽は無傷だが中身の水は全てたたき出され、重力に従って落下し、周囲に半分飛び散りもう半分が樽に帰還した。

 

 向き直る。

 

 其処には台の上に乗った陶器の壺。平行立ちで、揃えた五指の指先を壺の腹に当てる。

 

「──ッ」

 

 再び、呼気。

 

 貫き手がほぼ無音で壺を貫通。引き抜くと、手首の形に添った楕円の穴が壺には空いていて、其処から向こう側の風景が見える。打突箇所以外に傷一つ、罅すら入れる事無く、手指が焼き物を串刺したのだ。破片は全て小指の爪の先より小さく砕け散っている。

 

 人間を超えた身体能力と技術が可能にした武である。

 

 これらの現象に、スキルや武技は一切関わっていない。ユグドラシルの格闘系スキルとして存在する方の勁力を用いて打突したなら、水が内側から気化爆裂して樽を木端微塵に吹っ飛ばした筈だ。

 イヨは一時期通常の鍛錬によって職業的に系統の違うスキルを習得できないか試したが、結果は恐らく不可能であろうと判断できるものだった。

 

 通常の技術の段階までは寸勁発勁粘勁沈墜勁纏勁──なんなら気配で相手に幻を見せる事も出来た。イヨが篠田伊代だった時に学んだ空手の技術体系ではない、マスター・オブ・マーシャルアーツという職業の設定によって保有する武術の知識によって理解して、体得『していた』。だが、それがゲーム的な、魔力的もしくは気功的な作用を必要とするスキルの域に達する事は無かった。短い時間でイヨは体感的に察してしまったのだ、『この道は何処にも繋がっていない』、と。

 どうも通常の鍛錬とは別のトリガーが必要とされている様な気がしてならない。得られたのは徒労感だけだった。

 

 試しを終え、若き達者──イヨは見物人たちに向き直り、ゆっくりと一礼した。興奮した様な叫び声、呆気にとられた様な呻き、様々な声で周囲が溢れた。

 

 そんな中、パチパチと拍手の音が響く。埋没してしまいそうな音量でありながら、それを契機として騒音が退いていき、やがてそれだけが取り残された。

 

「いやー、すごいね。器用な技ね。ただぶっ壊すだけならまだしも、私それ真似できないよ」

「お目汚し、恐縮です」

 

 イヨはその声の主、そしてその仲間たちに向けてがっしりと頭を下げる。見物人たちにした一礼と比べて丁寧さは遜色ないが、明らかに緊張を滲んだ低頭だった。

 

 周囲の尊敬と畏怖の視線を一身に集めるその五人こそは帝国冒険者組合の最上位、その二チームの内一チーム。

 それぞれが珍しい職業に就き、変わった能力を持つと言うアダマンタイト級冒険者チーム【銀糸鳥】の五人である。

 

 一目見ただけで向こう一年忘れられそうにない面子が揃っている。

 吟遊詩人と暗殺者系の男二人はまだしも、禿頭に編み笠錫杖の袈裟姿とボディペイントを施した半裸体、真っ赤な毛並みの猿猴という亜人は、黒山の人だかりの中でも闇夜の松明の如く目立つ存在だろう。

 

 猿猴の戦士ファン・ロングーに並んで進み出たのは吟遊詩人、チームのまとめ役であるフレイヴァルツ。彼は美しい所作で手を広げると感嘆の吐息を漏らし、

 

「おお、貴方のその容姿、手腕、数奇なる人生、吟遊詩人として非常に興味をそそられる題材です。お時間さえ頂ければ私の手で是非とも一編の詩歌を捧げさせて頂きたい! そう、例えば清冽なる無垢に彩られた可憐にして勇壮な──」

「リーダー、止めてあげてくれませんかね。いきなりそのノリは若い子にはキツイ、聞いてるだけで俺もサブいぼが」

「良いんですかぁ! 光栄です、是非ともよろしくお願いします!」

 

 イヨは詩歌の類は好きであった。自分が題材となった詩歌もその例に漏れず、時たま街の辻で声を発す流しの吟遊詩人の詩に耳を傾けるのが、多数ある趣味の一つでもある。なにせ又聞きと脚色に次ぐ脚色よって自分のやった事とはまるで乖離した英雄譚になりつつあるので、同じ出来事を題材にしているのに人によって全く違った物語を奏でていて面白いのだ。

 

 面白いのだけれども、『別人だし別の出来事だよねこれ、デスナイトは腕八本も無いし僕は全身から光を発してたりしないよ!? そもそも男だし! 純人間だし! 混血とかじゃないし! 家族生きてるし! 順風満帆に生まれ育った余所者ってだけじゃ盛り上がらないからってバックボーン盛り過ぎだよ! それに、僕以外にも戦った人はたくさんいるのに省くなんて酷いよ駄目だよ!』という気にも当然なるので、制作の段階から話を聞いてもらってちゃんとした歌を作ってもらうのならアリかと考えていたのである。人々の希望となるのは最上位冒険者の務め故。

 

 あと、イヨはリウルの影響でアダマンタイト級冒険者ファンなのでお話できるなら割となんでも嬉しかったりする。

 

「すいません、うちのはああいうの好きで」

「……リウル・ブラムさんね、名前は聞いてるよ。あんたはきちんとした明るい所の出と聞いてたが、物騒な技ばっかり身に付けちまったもんだ」

 

 表情を笑みに象った小柄な小男、ケイラ・ノ・セーデシュテーンが笑っていない小さな目を細めて返す。

 

「恐縮っス……自分、今はシノンと名乗ってます」

「ほー……? ほー! それは目出度い、拙僧からもお祝い申し上げる!」

 

 禿頭、編み笠、錫杖、袈裟。全身異国情緒の塊のような僧侶、ウンケイが言う。

 

「話には聞いていましたが、同性婚だいや相手は少年だと性別すらはっきりしなかったので意味不明の誤報の類かと思っていましたが──」

 

 アダマンタイト級冒険者ほどの有名人となると日常の些細な事でも周囲の人々の耳目を集める為、そういう意味不明意図不明の噂話の類も生まれては消えるものらしい。流石に国境まで超えて耳に届くものは少ないそうだが。

 

「本当だったのですね。おめでとうございます、こんな仕事だとそういう一般的な幸せとは縁が遠くなりがちですが、良い事ですよ」

 

 理知的な口調でそう述べたのは、腰ミノ半裸のボディペイント、ポワワンだ。

 

「いや、まあ、はい……恐縮っス」

 

 お互い直接の面識は無いのだが、後進のアダマンタイト級冒険者を先達が歓迎してくれるという形で至極良好に交流することが出来た。

 話には聞いていても実際に対面して外見に圧倒された部分はあったが、【銀糸鳥】の面々は外見に反してとても良識的で友好的だった。リウルは声を掛けられる度に『恐縮っス』と言っている。他の冒険者もいる手前、同格としてあまり遜った態度は取れないという思いから動作にこそ表さないが、終始ヤンキーの如き敬語だ。

 

 【銀糸鳥】や【漣八連】より王国の【蒼の薔薇】や【朱の雫】の方が好みと言いつつ、何だかんだ尊敬しているし好きなのだろう。

 

 冒険者の尊敬を集める二つの最上位チームの一つ【銀糸鳥】、そして他国から来た新しいアダマンタイト級の【スパエラ】が交流中とあって、帝都冒険者組合の修練場は黒山の人だかりである。他国に比べて専業兵士である騎士たちのモンスター退治をも含めた治安維持が行き届いている為、やや斜陽気味の冒険者組合は熱気に包まれている。

 

 イヨも先程の試し割りで注目を掻っ攫ったが、【スパエラ】の五人の中でも物理的に巨大なガルデンバルドなどは特別何もしていないのに滅茶苦茶目立っている。

 外見で強さが分かりにくいイヨの対極、どっからどう見たって強いに決まっていると赤ん坊でも分かる戦士、身長二メートル二十六センチ体重二百十キログラムのガルデンバルド・デイル・リヴドラッド。

 

 恵まれに恵まれ倒した巨体と、その巨体を覆う人骨に搭載できるとは到底思えない筋肉に次ぐ筋肉。それを極厚の装甲を持つ鎧で覆い、縦にも横にも巨大で分厚すぎる。戦士であるならば誰もが羨望と恐れを抱かずにはいられないその存在感に、多くの者がざわめいていた。

 

 ──強そうにも程があるだろ。プレートが見えねぇのか馬鹿、強そうじゃなくて強いんだよ。アダマンタイトにしたって強そうだろ、噂は聞いてたけど誇張じゃなくてマジであのサイズだなんて信じられるかよ。担いでる武器が俺と同じ位の大きさだぞ、本当に人間か? オーガだかトロールとの混血だって聞いた事あるぜ。でっけぇ。お伽噺じゃあるまいし、ある訳ねぇだろそんな話が。

 ──でもあの娘っ子、おっと、お嬢様の方もエルフだかドワーフだか妖精の血が混じってるって聞くぜ。そっちも相当な化け物だな。歳幾つだ、十五か十四くらいか? 王国の蒼薔薇もリーダーが十代と聞くが、それより下とは恐れ入るなぁおい。若いってより幼いって位だろ。ちっちぇ。あの髪や肌の艶、貴族出身かな? だとしたら相当なお転婆で破天荒だな、座ってるだけで飯が食える身分に生まれて冒険者とは。

 

 遠巻きに聞こえるざわめきの大半はそんなもの。帝国においてほぼほぼ属国扱いの隣国、アダマンタイト級空位が二十年も続いた国の連中とあって一般市民よりか畏怖の度合いがやや低い。

 癒しを担当する者が不在と聞くがなんとかその席を手に入れてチームに滑り込めないだろうか、難度百を大きく超えるアンデッドを相手にしたという勲を詳しく聞きたい、そんな声も聞こえてくる。

 

 【スパエラ】の面子で、初見時もっとも目を引く者と言えばガルデンバルド、ついでイヨだ。禿頭マッチョ魔法詠唱者たるベリガミニ、黒髪黒目でモロに異邦人的容姿であるリウルも二人と比べれば常識的冒険者像に近い存在である為あまり目立たない。

 

「あなた、武王と戦うって聞いたね」

 

 ファン・ロングーの一声とその内容で、ざわめきが止んだ。

 

「……はい、そのつもりです。もう告知されてるんですね」

「今朝、久し振りに武王の試合が組まれた事、相手があなたである事が公表されたよ。まだ知らない人も多いけど、一部の界隈では既に大騒ぎね」

 

 最新最小の英雄と、最大最強の武王の一戦。

 そう銘打たれた組み合わせは武芸者や流血マニア、戦闘愛好家、惨劇嗜好者の間で大注目を向けられていた。人界最強の称号アダマンタイト級を戴く冒険者が闘技場の舞台に上がる、そして相手は人魔の境無く帝国最強の戦士、武王ゴ・ギン。

 

 共に世の人々から最強と畏れられる存在同士の衝突は当然多くの耳目を集める。ファン・ロングーが言う所の知らない人々であった冒険者たちも、先に倍するざわめきを漏らした。

 

「あれは強いよ。実際に戦った事は無いけど、私よりあなたより武王は強いね。一対一で殴り合ってあれに勝てる生き物は帝国にはいないよ」

「その様に聞き及びましたので……」

 

 短く澄んだイヨの返答。ファン・ロングーは無言で目を細める。人とは異なったその顔立ちに込められた感情を見通せるのは、長く共に歩んだ仲間たちのみだろう。

 逆に言うと、猿猴であるファン・ロングーの目からしても人間の表情や年齢は分かりにくい。人間の国で過ごした時間も長いので普通の異種族よりはかなり判じられるようになってはいるのだが、眼前のイヨ・シノンは幼い雌だろうと思える容姿でありながら既に成体であると自称している上、ごく薄い匂いはどちらかと言えば雄らしく感じる。

 

 雄っぽい匂いの雌なのか、雌的な見た目の雄なのか。まあどちらにしろえらく紛らわしい人間であった。子供なのは間違いが無いと思うのだが。

 

「だから戦う?」

「はい」

 

 しかし、そうした見た目の造形等よりも雄弁に訴えかけてくるものがある。

 

 闘争心。幼子の様に煌く瞳に宿ったらそれは最早物理的な光輝を感じさせる域。物言わぬ物体相手に試し割りをしてみせた時とは比べ物にならない。武王との試合の話を出した直後から、明らかに戦闘意欲の類が強く表に漏れだした。

 基本的に、弱くても王を名乗れるのは人間種だけだ。強き者こそが王。強い戦士や魔法詠唱者が上位の地位を占める。そうした性質は世の中の基本であり、大抵の種族はそうした性質を持つ。

 

 猿猴も例外ではない。人の社会での暮らしが長いとは言っても、その本質は人間等より遥かに弱肉強食であり、荒事向きの種族である。

 言葉よりも雄弁な闘気を間近に、ファン・ロングーは牙を剥き出しにして笑った。

 

「……良いねぇ。シノンさん、あなたに人間以外の種族の血が流れてるって噂、私は話半分に聞いてたけど、実は本当? 正直ちょっと親近感を覚えるね」

「先祖代々まで遡っても百パーセント純人間で間違いないのですが、何故かそうした噂が絶えず、私自身は困惑しております。……バルさんの方はどうだか分かりませんが」

「おいこらイヨ」

 

 歳の割に背が小さいのは曾祖父がドワーフだからだとか、歳の割に身目が幼いのは長寿の種族の血を引いているからだとか、男なのにああした容姿なのは人と妖精の合いの子だからだとか。

 所詮は噂話の範疇なのだが、イヨやガルデンバルドのやや特異な身体的特徴や馬鹿げた膂力を説明する為に時たま、何処かの誰かが混血という設定を引っ張ってくる事がある。

 

 特別である事の分かりやすい理由付けというものだろう。

 神もいなければ人間以外の知的種族すらいない地球の史実でも、良くも悪くも並外れた事を成した人物に対し神の加護や英雄の血筋であるとか、異類との婚姻の結果生まれた存在である、通常より一年長く母親の腹の中に居て髪も歯も生えそろった状態で生まれてきたとか、所謂『異常な出生』が後付けされ伝承される事はままある。

 

 厳密に言うと今のイヨの身体は父母から生まれたモノでは無くゲームのアバターが現実化したものである為、ゲームの設定によってはちょっと分からない部分もある。設定で言えばそもそもプレイヤーは加護を受けた特別な存在で、だからこそ蘇生によってレベルダウンはしても消滅はしないのだ。まあこの世界ではどうだか知らないが。

 だからと言ってイヨは自身が人間ではない等とは思わないし、数多の種族が歴史を紡ぐこの世界で人間じゃなかったからなんだという話だとすら思う。

 

 種族や出自がどうだろうと敵は砕くし味方は守る。

 

「あなたが強い事は分かるね。でも武王はもっと強い、あなたが勝てるとは思わないよ。だから勝てとは言わないね。ただ……」

 

 言下に、ファン・ロングーの体毛が逆立つ。剥き出された牙は変わらないが、その意味が笑いの感情を表すものでは無い事は誰もが察した。

 怒れる巨獣から距離を取れ。無形の圧力に晒された冒険者たちが、本能の命令に従って一歩下がった。不動を貫いたのは【銀糸鳥】と【スパエラ】──そして対面のイヨ・シノンだけだ。

 

「承知しております」

 

 最強の称号、人類の切り札、人間の最高位者たるアダマンタイト級冒険者で数多の観衆の前で負ける。例え万夫不当の武王が相手であっても、試合が興行でも、冒険者の本分であるチーム戦では無く一対一の戦いだったとしても、負けは負けだ。

 無様な負け方をすれば不利益を被るにはイヨ一人では済まない。

 

「若輩者ではありますが、戦士の名誉に懸けて恥ずかしくない戦いをすると誓います」

 

 肌を刺す怒気を満身に浴びながら、イヨは微動だにしない。イヨは公国冒険者の頂点として帝都の地に立っているのだ。先輩とは言えクラスとして同格である以上、人前で圧される事があってはならない。対一だったらごめんなさいするのだが。

 

 イヨ・シノンとファン・ロングーの身長差は二十センチほどだが、背丈の高低以上に四肢の太さや胴の厚みなど、戦う生き物として外見上は天地の開きがある。苦労も飢えも知らぬ飼い猫と野生の狒々の差だ。

 

 血に飢えたモンスターも二の足を踏む猿猴の大戦士、ビーストロードの威圧を前にして不動を貫くその胆力は確かに、小さな体に秘めた意気と武力を見る者に感じさせた。

 

 ファン・ロングーは小さな人間に対し手を差し伸べる。握手ではない。

 

 立てた両手を差し伸べるその動作の意味、見誤るイヨでは無かった。イヨもまた両手を差し出し、ファン・ロングーのそれとがっちりと噛み合わせた。

 手四つだ。イヨの柔らかお手々とファン・ロングーのグローブの如き分厚さを誇る手掌は如何にも不似合いだが、兎に角組み合ったのだ。

 

 視線を交わし、息を合わせた次の瞬間──ミヂリ、と肉と肉、骨と骨が喰い合う音が確かに響いた。互いの総身の筋肉が対手を屈さんと膨らみ、軋む程に歯を食いしばる。

 

 両者の間で交わされるのは石を圧壊させ金属塊に手形を残す超常の握力と、それを突端にした持ち合わせる筋力と根性の比べ合いである。

 

 ファン・ロングーのそれと同じ位、歯を剥き出したイヨの顔は笑みに近かった。限界を超えた膂力を引き出さんと力を絞る余り顔面は斑に紅潮していたが、実際に笑っていたのかもしれない。

 

 三十秒もしない内に、イヨの全身から滴る様な汗が噴き出した。太い血管が浮き上がり首の筋が張り、食いしばった歯茎からは血が流れている。とても淑女の姿では無いが、イヨは男なので問題はない。

 

 真紅の毛並みに覆われたファン・ロングーは汗や筋肉の膨張と言った変化が分かりにくいが、一分が経つ頃になるとイヨにやや遅れて、彼の身体も震え始める。

 

「ヌぅ……!」

「ギ、ギ、ぐ、ぁ!」

 

 喉奥から絞り出す声は両者共に何の意味も持たない。イヨは劣勢を脱しようと奥歯が砕け手指の骨が悲鳴を上げるのも構わず、更なる剛力で掛かる重圧を跳ね除けようとするが、表面上対等な姿勢を維持するのが精一杯だ。

 

 如何にイヨの筋力が同レベル帯の人類が持ち得るものとして至上に近い領域にあっても、そもそも亜人種であるファン・ロングーとは根本のステージが違う。

 種族が異なるという事は次元が違うという事だ。人間より身体能力が優れた種族であるファン・ロングーの膂力は同レベル帯どころか近レベル帯の人類では到達不可能な領域にあった。

 

 砕けた歯ごと噛みしめる顎から溢れる血を飲み下しながら、イヨは更に笑みを深める。

 

 ──流石先輩! なんという剛力! 試合ではないとは言え勝負の栄誉に預かったからには、偉大な先輩に後輩の意地を見せねば……!

 

 腕が、背骨が、膝が今にも砕けそうだ。力を抜けばその瞬間自分は潰れる。この力の差をどうやって埋める? 力以外に介在する余地のないこの勝負、それでもなお勝利を目指すならば、

 

 ──根性……!

 

 余りの圧力に手指は骨が砕けることも無く変形を始めていたが、苦境にあって自壊をも躊躇わず、筋繊維の千切れる音を無視して更なる蛮力を発揮せんとイヨは唸る。

 

 イヨの視界の端で、【銀糸鳥】の面々が『おいおいおいおい』と言わんばかりに勝負に割って入ろうとしている。五体が砕けるぞ、と純粋に心配してくれているのだろうが、その動きをリウルが遮った。『すんません、ああいう奴なんです。好きにやらせてやってください』──流石リウルさんは僕の事を分かってくれてる、とイヨは嬉しくなった。

 

 静まり返っていた冒険者たちが不意に歓声を上げる。ファン・ロングーの剛腕と力比べをしてこれ程の長きに渡り耐えた人間はかつて存在しなかった。明らかな無理無茶無謀であっても、不可能だった筈のそれを未だ維持している人間が現に目の前に存在するのだ。

 

 ただ単に全力を発揮する負荷に疲労を感じているだけの赤き猿猴と違って、イヨはその総身が彼我の馬鹿力で歪みつつある。最終的にどちらが負けるかなど火を見るよりも明らかだが、そもそも身体能力に優れる亜人種と人間が真っ向から競い合えるという時点で既に大偉業なのだ。

 

 どんな筋力でどんな根性だよ、と先程の試し割りの時などとは比べ物にならない程の称賛と驚愕がイヨに殺到する。何処ぞバカ垂れが『あと三十秒持つか持たないか、俺は持つ方に銀貨十枚!』等と賭け事をおっぱじめるのが聞こえた。

 

 期せずして、イヨは荒れくれな男たち──とそんな男たちにも負けない逞しき少数の女傑──から『添え物斬りの上手なお嬢ちゃん』では無く『尊敬すべき大いなる馬鹿力』の称号を勝ち取れた様だ。

 

 結局イヨが左手首の骨折と同時にギブアップを宣言したのは二十五秒後で、先程の銀貨十枚の男には悪い事をしてしまったが、その並々ならぬ負けず嫌いと見た目に反した骨太な気性に、そして勿論勝利したファン・ロングーにも惜しみない喝采が降り注いだ。

 

 イヨは無事な方の手で──比較的、と付けねばならないが──ファン・ロングーと今度こそまともな握手を交わした。赤き猿猴の姿は一時の怒気が嘘の様に穏やかだ。

 

「見た目の割に大した雄ね。人間で私と此処まで張り合った者は初めてよ」

 

 そう言うファン・ロングーは全然余裕そうである。イヨは全身が微痙攣しているが、彼はしゃんと立っている。

 

「貴重な経験をさせて頂きました──」

「これで、一対一ね」

 

 一対一、とイヨの唇が音を出す事無く反芻した。そして直ぐ、試し割りの時に言われた台詞、『私それ真似できないよ』が思い出される。技の器用さでイヨに、筋力の強さで自分に軍配が上がった事でイーブンだという事だろうか。

 

「武王との戦い、私も見に行くよ。頑張ってね──」

 

 ファン・ロングーが背をかがませ、イヨの耳元で囁く。

 

「──次はギャラリーのいない所で立場とか関係なく一戦、ね?」

 

 成る程確かに親近感を抱く、とイヨの顔にぱぁっと笑みが広がる。

 

「是非やりましょう、お願いします。人目を気にしなくていい場所で、今度はガチンコで」

「あっはっはっは、やっぱりあなた、かなりこっち側よ! 人間にしておくには惜しいね」

「バルさんも一緒にやろうよー」

「試合自体は構わんが、あまり年寄りに無理させんでくれよ。俺はもう四十超えてるんだぞ」

 

 弱肉強食式、もしくは直接殴打式コミュニケーションという人間種社会では蛮族的な、しかしいわゆるモンスターや亜人種の社会ではそこそこに通用する価値観の下、二人は意気投合した。

 

 雄同士が互いの力量を計るべく、命の危険が無い範囲で一勝負するという習性は生物界で多く見受けられる。

 

 肩を組んで大笑いしながら『ファンさんの毛並み、すごく綺麗です!』『がっはっは、あなたが同じ種族の雌だったら嬉しい言葉だったんだけどねー』等とはしゃぐ二匹の戦人を、周りの常識人たちがちょっと良く分かんないな、という目で見ていた。

 

 というかイヨの折れている方の手首が未だプラプラしているのでちょっとかなり結構気味が悪い。歯が砕けている為か顔の輪郭もちょっと変形している。

 

 ウンケイが痛くないのですか、と問うとイヨは変わらぬ笑顔で『めっちゃ痛いです!』と元気よく返答した。リウルとセーデは揃って『そりゃそうだろうよ』と呆れを含んだ声音で零す。

 

「よろしければ拙僧が治癒魔法を掛けましょうか? 見ての通り拙僧は四大神を崇める神殿とは中々友好を深める機会が無く──」

「ああいえ、大丈夫です。自前のものがありますから」

 

 慣れっこな為か怪我の割に言葉は流暢である。

 暗に『仲間が圧し折った骨なので無料で治癒魔法を掛けてもいい』と申し出るウンケイの言葉にイヨは笑顔で返し、折れていない方の腕で懐からポーションを取り出し、風呂上がりの牛乳でも飲むかの様に一気に呷る。

 傷は即座に完治した。『ああ、すっきりした』と痒い所に手が届いた的な感想を抱くイヨであった。

 

 そんな一連のやり取りを見ていたフレイヴァルツは手近のベリガミニに、

 

「あの、疑う訳では無いのですが……彼、薬物か何かで痛覚を麻痺させていたりしますかな?」

「ああ、あれがあ奴の常態です」

「──近頃の若者は怖いですなぁ……」

 

 フレイヴァルツが作る予定のイヨの詩歌、その路線がやや変更になりそうだった。

 




自分ちの稲刈りが終わって親戚の稲刈りも終わって近所の稲刈りも終わってやっと更新。でももう次の作物が始まる。

【漣八連】の皆様はまだ依頼中でご帰還していない様子(原作で名前以外登場していないので描写できません)。
ただ【銀糸鳥】の皆様も依頼中に皇帝陛下相手に会話した所しか描写が無いので、同格もしくは格下の相手とどういう風に接するのか未知数ですが現状こんな感じで。原作でまた登場する事があったら書き直します。

また、【もしイヨが百レベル異形種だったら】の連載版タイトル【終にナザリックへと挑む暴君のお話】の第一章、約94000文字を何日かに分けて投稿予定。

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