そのカフェの名前は、サテライトという、少し変わった名前だった。
人類が初めて地上を離れて月の地に降り立った20世紀から時代は進み、月へのエレベーターができるのではないかという噂もある今日。宇宙黎明時代であった20世紀などならまだしも、その名が与えるイメージは今日では進歩的な宇宙科学ではなく、もはやアンティークの域に達した時代遅れの、下手をすれば
実際、20世紀頃から打ち上げられた
そのような不思議な名前をつけられたカフェは、大学や寮からは少し離れたところにあった。経済が盛んな地域から離れ歴史的建築物などの残る地域からも離れた所にあるその建物は、古すぎず新しすぎない少し寂れたような雰囲気を放っている。前時代の遺物として存在する古くさい物体の名前に、中途半端な外見。その雰囲気に何か感じるものがあっただろうか。隣で蓮子は、
「不思議な建物ね。でも、いい雰囲気。まるでこの京都には存在していていないかのような感じね。どこにでもありそうで、印象のない。」
などと評価を始めていた。
「でしょう。だから、一度入ってみたかったのよ。」
そう言いながら全体を眺めると、一瞬また何かが見えた気がした。どうも今日は厄日のようだった。
「ふーん。でも、よくこんなとこ覚えてたわね。」
「普通に気になったから?」
「ああ、いえ、そうじゃなくて。だって、ここ、特徴がなさすぎるっていうか、影が薄いっていうか。」
「確かにそうかもしれないわ。でも、名前は少し印象的でしょう。だから。」
「なるほど。さすがメリーね。」
くだらない話をしているうちに、気づいたら五分ほど経っていた。雨が降っているというのに、なぜ目の前にある建物に入らなかったのだろう。少し濡れてしまった足元を眺めて、水を吸って少し重くなったミューズの感触にため息をつく。そしてマエリベリーは、後ろでまだぶつぶつとつぶやいている蓮子の声を振り切るように、入り口の扉を押して開いた。
中は、ピカピカであった。
もっとも、カフェの中なんて時代が変わったとしてもあまり変わるものはない。せいぜい、お湯を沸かす機械が適温でお湯を沸かしたり、今までマスターが奥から歩いてとってきていたミルクがすぐに手元に出せるようになったりと、その程度の変化でしかなく、カウンターやボックスの席がおいてあるという環境は前時代でもその前でも今の時代でも共通で、特筆するような事はあまりない。
ただ言うなれば、テーブルは新しいものらしく傷もあまりなくピカピカで、カウンターの前や奥に置いてある機材は最新鋭のものだったし、置いてある家具などは有名な高級品家具メーカーの製品だった。
あまりにも外見や名前とチグハグしたその雰囲気に、隣では、蓮子が少し驚いたように店内を眺めている。ただでさえ古くさい名前に、中途半端な外見、そしてあまり良いとも言えない立地。そこから普通想像されるのは、中途半端な内装や古くさい調度品に古ぼけたマスターだっただろう。
だがこの店は違う。名前を古く、外見は中途半端に、そして内面は新しく、と分けているのだ。当然狙っての事だろう。しかし、こんな客足も見込めなさそうな立地で、よくこの道楽趣味のようなのカフェをやろうとしたものだと思う。いったいどこからお金が出てきているのか、それは謎の一つだった。
そんな謎だらけのカフェを目にして、メリーは後ろを振り返って、蓮子に対して少し浮ついた気分で聞いてみる。
「どう、このカフェ。なかなか良さそうでしょう?」
「そうね、確かに美味しいお茶が飲めそうな良い雰囲気。でも、これは驚き。新しいカフェだったんだ。」
「ううん、このカフェ、噂になったのは最近だけれど、実は30年以上前からあるんですって。」
「うそ。こんなに今時なのに。」
本当に、このカフェが30年以上前からあるというのは驚きだ。だからこそ、呆れたように声をあげる蓮子に思わず笑いながら、私はもうひとつ新事実を告げてみることにした。
「それにこのカフェ、実は他にも、今噂になってる理由があるのよ…。ゆっくり座ってお茶でも飲みながら、話しましょう?」
手近なテーブルにバッグを下ろし小洒落た椅子に腰掛けながらそう提案すると、蓮子も聞く気になったらしく、対面になるような位置に座ってくれたので、マエリベリーはゆっくりと話し始めた。
このカフェに関する前情報はいくつもあった。
そのうちの一つは、いつも客がいない、という噂である。
とはいえこの店は、雰囲気通り寂れたところにあるから、もし客足が少ないというような並大抵のものだったらきっと噂にならなかっただろう。どこのカフェが寂れててドコのカフェが人気なんて情報は、今時ステルスマーケティングや誹謗中傷などで、それこそネットの何処にでも溢れかえっている情報にすぎない。
だが、広大なネットワークの掲示板で噂になっていたというその話は、少し不可思議なものだった。
カフェサテライトへ入ると、絶対に他の客は存在しないというのだ。
無論、これだけではただの寂れたカフェでしかない。実際、カフェサテライトはいつも寂れた雰囲気を漂わせているし、おかしな話でもない。
ただ、その後起きた一つの不可思議な事件は、話題になり続けていた。待ち合わせに使ったのに、いつまでも相手が来なかったという。
この話を書き込んだ人物は、とある営業の関係で近くにあったカフェを使ったがいつまでも相手が来ず、しびれを切らして相手に連絡したところ、「自分は中にいるのにお前は何を連絡するのか、早く来い」という不可解な連絡が帰ってきたらしい。実際その後、両者共に同時刻ごろカフェサテライトに入る姿が目撃されていた。
この不可解な話が泊をつけたのだろう。それ以来、衛星カフェテラスは噂になり続けている。
それらのことを蓮子に教えると、彼女はじっと考え始めたようだった。なにしろ世の中にはいろいろな不思議が存在するが、この手の話は私ではなく、いつも蓮子がするような話だったのだ。情報を先取りされて蓮子はきっと驚いただろう。その反応に少し悦に入っていると、ゆったりと親友は口を開いた。
「メリー、グッジョブ。いいわ、今日の予定だったところは急ぐ所ではないし、今日はここでゆっくりお茶しましょう。」
どうやら、予定を組み替えるほど気になったらしいとマエリベリーは苦笑した。そして、カフェにかんする謎を話し続ける。
「そうそう。こんな話もあるのよ。」
「えー、なになに?」
「ここの店長は国籍不詳の金髪美人らしいんだけど、年齢も不詳で、この30年間いっさい歳をとったように見えないんですって。それどころか、若くなったとさえ言われてるらしいわ。」
「何それ、メリーっぽい。」
「あら、美人と認めてくれるのね。ありがとう。」
「はいはい美人美人。でも、なんだかありがちな話ねぇ。どうせ、誇張でしょ、その若さの秘訣は羨ましいけど。今時のアンチエイジングかしら。」
「そう、そこもちょっとおかしいの。」
もったいぶったように言いながら、少し小さな声でマエリベリーは話した。
曰く、今時のアンチエイジング手術はすごいが、あくまで手術という外科的措置を取るため短期間で繰り返しづらく、また何度も行うことはできない。だが不思議なことに、手術期間のブランクはないという。
それに、それらの技術でも完全に誤魔化せはしない染みや小皺などもほとんどなくて、店長は若い。そのため怪しい技術に手を染めたと言われているのだ。
そんな話をだらだらと続けていると、奥の方で音が聞こえた。振り返って見てみると、小さな少女が独り、トレーを持ってやって来ていた。店のお手伝いだろうか。なぜか猫耳と尻尾をつけているのはご愛嬌といった感じがする。
「ご注文を伺いに来ました!」
少し上擦った声を出しながら、少女はトレーを机に置いてお冷を出してくれた。今時風の氷入のお冷ではなく、昔ながらの温いお冷だ。ありがとうと声を返しながら注文しようとしてはたと気づいた。そういえば、蓮子と話すのに夢中でメニューを見るのをすっかり忘れてしまっていた。
だが、メニューはもう蓮子の手の中にあった。
仕方がないので蓮子がメニューを選ぶのを待つことにする。大方、蓮子のことだからすぐに決めてしまうだろう。そう思って待っていたが、なかなかメニューを選ぶ声が聞こえない。困って蓮子の方を見ると、眉を潜めて何かを考えていた。
「ねぇ。」
声をかけるも、返事は無く、ますます眉を潜めている蓮子にマエリベリーはだんだん腹が立ってきた。なんのこともない。早くパフェが食べたいのだ。
「ねぇ、蓮子…。」
「メリー。」
だが、返ってきた声は思いのほか深刻そうで、そして困惑を含んでいた。思わずメリーは固まって、蓮子の顔をじっと見つめてみる。その眉は若干の不機嫌さを保ち、何やら非常に困惑しているようではあったが、いつもの範疇に入る親友の顔がそこにはあって、マエリベリーは密かに安堵した。
「メリー、これ、見て。」
そう言いながら蓮子がメニューを差し出す。思わず受け取って、そのメニューを慌てて眺めたマエリベリーは次の瞬間凍りついた。
店長の欄には、自分の写真が貼ってあった。
「ねぇ、メリー。その人、親戚か何か?」
やがて、固まってしまった空気を解すように蓮子が尋ねてきた。少なくともその声に怒りがないことに安心する。わけが分からなかった。
「そんなわけ、ないじゃ…」
ない。そう言おうとした途端、激しい頭痛に襲われた。思わずそのまま倒れるようにして、マエリベリーは机に突っ伏した。蓮子が叫ぶ声がする。何かが軋むような音がする。見えないはずのものが見えて、見えるはずのものは見えず。そこにあったのは、大きな大きな境界だった。
境界、それは存在のみが確認される世界の歪み。
この科学世紀においても未だ存在が解明されない闇に包まれた、しかし確かに存在しているこの世の解れ。
その奥には異世界があるとも別次元があるとも言われる不思議の世界。そんな境界は本来、目で見ることも触れることもかなわずただ計器によって存在が確認されるだけのもの。
だがマエリベリーにはそれが見えた。オカルト、というやつだった。
何故そんなものが見えるかはわからない。何故自分だけに干渉できるのかもわからない。ただマエリベリーにはそれが出来たし、当たり前のことだった。
一時はそれに戸惑いもした。困惑したことも何度となくあった。だが、それはやがてマエリベリーの日常として再び元に戻っていったし、最近は変な目の持ち主が他にも居ることがわかって安心もしていた。
もう一人の変な目の持ち主は良い友人だった。自分の変な目の事も知っていたし、それを受け入れるだけでなく面白がるだけの妙な度量も持っていた。だからこそ、マエリベリーは境界への恐ろしさを忘れていたし、何より今まで境界が頭痛を引き起こすことなんて一度も無かった。
なのに、今回は何かおかしい。嫌な予感がする。
耳鳴りがずっと鳴り続け、蓮子が何を言っているのかよく聞こえない。やがて意識も遠くなりはじめ、自分がどこにいるのかもわからなくなってきて。遠からず完全に意識を飛ばすだろうマエリベリーの耳元で、突然明瞭な音がした。
「いらっしゃい。境界の子。」
艶やかな、だがどことなく聞き覚えのある女の声は、そう告げた。その声は背筋をとろけさすような艶やかさを含む一方で、背筋を凍らすような何かを含んでいた。その声に、マエリベリーは聞いてはいけない何かを感じて、次の瞬間、完全に気を失った。