「いいですか、みなさん! 昨年度の終わりごろから、校内には愚にもつかぬ噂が流布されています!」
『闇の魔術に対する防衛術』の教室で、ドローレス・アンブリッジはグリフィンドール5年生に向けて切り出した。
全員が杖をしまい、机の上には教科書と羽ペンにインク瓶しか置いていない。
その状況に異を唱えた一部の生徒への反論が、いまや教室内に居る生徒――――とりわけハリーへの演説に相成った。
「『例のあの人』が復活した。配下を集め、魔法省転覆を狙っている。……笑止千万!」
アンブリッジはハリーを見ながら鼻で嗤う。
ハリーはつまらなそうに手の中で杖を回した。その眼はアンブリッジに注がれている。
「そのようなことは決してありえません! 『例のあの人』は死んだ。それが14年前から今日まで続く大衆の見解です。そして、死んだ人間が蘇るなど、天地が引っくり返っても起こりえないことなのです!」
何人かの生徒が「そうだそうだ」とばかりに首を縦に振った。
残りの生徒たちにも、表向き肯定こそしていないが、アンブリッジの言葉を聞いて「やっぱりそうだよな」と考えている雰囲気が漂う。
アンブリッジはその空気に気を良くしたようで、一層の大声で話を続けた。
「にもかかわらず、ホグワーツ学校長のダンブルドア先生は、愚かにも『名前を言ってはいけないあの人』が蘇ったと、幾度となく大衆に向けて呼びかけています。魔法省がそんなことはないと何度述べてもそれを聞き入れようとしません。ダンブルドア先生を悪く言うつもりはありませんが、先生はご高齢でいらっしゃいます。どこかにガタが来ていてもおかしくはない」
そこでアンブリッジは横に大きな身体ごとハリーをまじまじと見据えた。
他の生徒たちも釣られてハリーを振り返る。
「目立ちたがり屋の、傲慢な少年の法螺話を信じ込んでしまっても、それは老いゆえ仕方ないことなのです。いくらアルバス・ダンブルドアと言えども老いには勝てません。責めるべき人物は、この世迷言を流布させた張本人でしょう」
教室中の視線をほぼ一身に受けたハリーは、意外にも多種あるその視線を受けきり、アンブリッジを見返した。
その頭の中では、売られた喧嘩を買うか買うまいか、厳正な審査が行われている。
「…………」
そして数瞬後、審査の結果が出た。結果はNOだった。
ヴォルデモートに関することで、今この場で弁明若しくは新たな情報を漏らす意味はないと結論する。
ハリー何も言わずに黙ってアンブリッジの言葉を待った。
そうして、ハリーが何も言わないと知ったアンブリッジは少々落胆した様子で話を始めに戻す。
「魔法省の新しい教育方針では、『闇の魔術に対する防衛術』の授業において実技の必要はないと判断しました。教科書に載っている理論を学び、完璧に理解すれば使えない魔法はありません。ゆえに、この授業中に杖を抜くことはありませんし、ましてや呪文を使う事はありません」
それはあんまりにもあんまりな魔法省の見解。
これにはさすがに、教室は喧々諤々な騒ぎとなった。
OWL(ふくろう)試験を期末に控えた5年生にとって、実技試験でぶっつけ本番に呪文を使えの言葉は死刑宣告に等しい。
だが、生徒たちの必死の抗弁にも聞く耳を持たないアンブリッジは、ただ「理論を学べば使えぬ魔法はありません」と繰り返すだけだった。
「なにか言いたいことがあるのなら手を挙げて言いなさい。それ以外はただの雑音です」
すかさずハーマイオニー・グレンジャーが手を挙げる。
先ほど、授業が始まった途端教科書に文句を付けたハーマイオニーを、アンブリッジは双眸を細めながら指名した。
「ミス・グレンジャー」
「はい。アンブリッジ先生は今、実技を行わないとおっしゃいましたが、それならOWL試験には実技試験はないのですか?」
「いいえ。当然あります――――しかし!」
ならば、と口を開いたグレンジャーの声を上回る声音でアンブリッジは述べる。
「繰り返し言いますが、教科書に書かれている理論を完ぺきに理解すれば、使えない魔法はありません。もし使えないのなら、それは理論を理解していないからです。本人の努力不足で使えないのです」
生徒たちは絶句し、近隣の友人と目を見合わせる。
有り得ないとばかり、なおも手を挙げたハーマイオニーをアンブリッジは無視した。
「さあさあ、おバカな質問で随分時間を潰してしまいました。OWLに受かりたくば、手元の教科書を読み込むことです」
質問を打ち切ろうとするアンブリッジに、今度はハーマイオニーだけでなく多くの生徒が手を挙げた。
しかしアンブリッジはそれら全てを無視する。私が言う事は決まっていると、教科書を片手に掲げて一字一句同じ言葉を繰り返す。
「OWLに受かりたくば、余計なことはせずに手元の教科書を読み込みなさい」
有無を言わさぬ口調。
暖かな布団よりも効果的な安眠快適グッズを眼の前に突きつけられ、抗う事も封じられた生徒たちは苦虫を噛み潰した表情で、一人また一人とページを捲り始めた。
最後まで手を挙げ、懸命に主張していたハーマイオニーも、アンブリッジの心無い言葉の前についに諦めたようだった。
「どうしました? ミス・グレンジャー。兎みたいにピョンピョン跳びはねる前にやることがあるのではなくて?」
そうしてほとんどの生徒が教科書を読み始め、何人かが早くも舟をこぎ始めたとき、アンブリッジに向けて一言ハリーが言った。
「先生、質問があります」
突然の言葉に、アンブリッジは虚を突かれた表情でハリーを見る。
ハリーはニコニコと外面よく手を挙げていた。
「……ミスタ・ポッター。教科書の内容についての質問ですか?」
「いいえ」
「でしたら、今は授業中です。授業に関係のない話は授業が終わった後に――――」
「ええ。それも考えたのですが、どうせなら楽しくやろうと思いまして」
言いながらハリーは立ち上がる。
その右手には、袖で隠れながらも杖が握られている。
「お聞きしたいのは夏休みのことです。ご存知でしょう? 僕が吸魂鬼に襲われた件についてですが――――」
ひそひそと周りの生徒たちはにわかに騒がしくなる。
この夏、ハリーが吸魂鬼に襲われたことは、生徒たちの間でも噂になっていた。
しかしその真偽について本人の口から語られたことはない。
噂は尾ひれが付き、ヴォルデモートと相対したという荒唐無稽な話にまで発展している。
そんなこともあって、ほとんどの生徒は噂は嘘であると結論付けていた。
「あなたが有りもしないことをでっち上げ罪を免れたことですか?」
「いいえ。誰かが吸魂鬼に命令して僕を襲わせたことです」
教室の最後部座席から、今や中ほどまで歩いていたハリーは、アンブリッジとの距離4メートルほどで一度立ち止まった。
アンブリッジの視線がチラリとハリーの右手に注がれる。
「あなたなら知っていると思いまして。誰が吸魂鬼を僕にけしかけたのか。ご存知ですか?」
「いいえ。そもそもそれは、あなたのくだらない嘘――――」
「――――それこそ嘘ですね」
ハリーはゆっくりと、自然な動作で杖をアンブリッジに向ける。
アンブリッジが驚きで逃げることも、杖を抜くことも出来ないでいるうちに、ハリーは唱えた。
「『レジリメンス』――――開心」
ハリーはアンブリッジの記憶を断片的に読み取っていく。
その大半がいらない情報であったが、あらかじめカマをかけていたのが功を奏したようで、しっかりと欲しかった記憶を見ることが出来た。
その記憶を見た時点で、ハリーは杖を下ろした。
アンブリッジは抵抗したせいか床に転がっていて、息荒く状況を呑み込めずにいた。
ハリーは武装解除呪文でその腕にある杖を吹き飛ばす。
続けざまに振り返り、何が起こったか理解できずに茫然としている僚友たちへ「シレンシオ」と唱え一切の言葉を禁じた。
「先生。記憶の中で吸魂鬼に僕を殺す様に命じているシーンがあったのですが、説明していただけますか?」
教室の扉を閉じ、魔法で鍵を掛けながら冷たく問いかける。
その問いにアンブリッジは口をパクパクと開閉するだけで何も言わない。
「先生は嘘を吐きましたね。あなたは知らないと言ったはずだ。にもかかわらず、どうして吸魂鬼に命じる記憶をお持ちなのですか?」
「何を言っているのか、私には……」
「ああ。もう結構です」
なおも知らぬ存ぜぬに終始するアンブリッジの言葉をハリーは断ち切る。
「大丈夫。許しますよ。きちんと罪を償ってもらえるのなら」
大仰に、教室を一周するように振られた杖。
杖が向けられた後、そこにあった本やペン、インク瓶などは全て蛇に変化した。
驚きの中、ハリーは口を開く。
『集え』
蛇語での命令に、蛇たちは一度鎌首をもたげアンブリッジを見る。そして足元に殺到し始めた。
スルスルと移動する蛇の大群に、生徒たちは声こそ出ないがほとんどがパニックに陥った。
椅子や机に上り、出来る限り逃げようとする者。
足を使って、蛇を遠ざけようとする者。
四つん這いで扉へ向かう者。
杖で遠ざけようとするも、呪文を唱えられず半狂乱に陥る物。
十人十色の光景が繰り広げられた。
それら生徒たちと同じぐらいパニックになっていたアンブリッジは、泡食ったように杖を求め慌てふためく。
その手があと少しで杖を掴もうとした時、ハリーは唱えた。
「『アクシオ』」
杖は所有者の手をすり抜けハリーの手の中へ。
アンブリッジの絶望の表情は見物であった。
そうこうする内に、アンブリッジの足元には数十の蛇が鎌首もたげ威嚇しながら集い来る。数匹が足に絡み身体を上り始めた。
アンブリッジは悲鳴を上げ振り払おうとする。地団駄を踏み、払い落そうとする。
しかしあまりに数が多すぎる。
いつしか下半身から上半身へ。そしてついに首にまで蛇は纏わりついてしまう。
耳元で聞こえる「シュー」と言う音に、アンブリッジは総毛だった。
「さあ、先生。先生ならこの状況をどう対処しますか?」
対するハリーはこの状況を楽しんでいた。
杖もなく全身を蛇に取りつかれたアンブリッジ。
生殺与奪を握っているこの状況が楽しくて仕方がない。
いつ『噛め』と言ってもいいのだ。
それだけでアンブリッジは失血多量で死ぬだろう。
この場で頂点に立っているのはハリーただ一人。
邪魔をする人間などどこにもいやしない。
そう思い込んだ。
遠くにいるヴォルデモートの影響もあったのだろう。
いつも以上の傲慢さと、らしくないその油断は、この場において抱いてはいけない物だった。
「――――!!」
背後から赤い光線がハリーを襲った。
杖腕である右手に当たったそれは、ハリーの杖を吹き飛ばし宙に舞わせる。
杖が床に落ちる様子を、ハリーはゆっくりとした時間の中で見ていた。
乾いた音が鳴り響き、ハリーは緩慢に背後を振り返る。
そこには、色素の薄い肌を真っ赤に染まらせ、鬼気迫る表情でミレイ・フォーザンがハリーに杖を向けていた。
ハリーは無言でミレイを見る。
ミレイの横で、その行動に触発されたハーマイオニーが杖を取り出した。
他にも何人かの生徒が杖を抜く。
魔法など使えないだろうに、それでも杖をハリーに向ける生徒たち。
ハリーはそれら全員の顔を眺め、そして不意に左腕に持っていた杖でアンブリッジに呪文を放った。
失神呪文を受けたアンブリッジは気絶する。
それによって、生徒たちは反射的に杖を振るった。
声が出せない中でのその行動は全くの無意味で、呪文を発現出来た生徒はいなかった。
数瞬前に無言で武装解除呪文を放ったミレイでさえ呪文を使うことが出来ていない。
どうやら、先ほどのは『偶々』であったらしい。
ハリーはこれ幸いと生徒たちに背を向け、アンブリッジの前に膝をつき唱えた。
「『オブリビエイト』忘れよ」
教室に入ってから気絶するまでの記憶を修正。
掛かった時間はほんの数秒。終えた後、立ち上がって命令する。
『戻れ』
蛇たちは元居た場所へ戻っていく。
全ての蛇が所定の位置に着いたところでハリーは杖を振り変身術で元の形に戻した。
生徒たちがおっかなびっくりと羽ペンなどの蛇から戻った文具を触り、異常はないか確認している。
それを尻目に、ハリーは呼び寄せ呪文で自分の荷物を――――杖を含め――――手元に呼び寄せ、最後にアンブリッジの杖を放り投げて教室から出て行った。
生徒たちが本来のざわめきを取り戻すのは、終礼の鐘がなって数秒した時だった。
ハリーは一人、必要の部屋で魔法薬を煎じていた。
ぐつぐつと煮える鍋を頬杖を突きながらかき混ぜる。
一見、無色無臭で湯が煮えている様にしか見えない鍋。こう見えて、歴とした魔法薬である。
出来上がるまでに一月もかかるそれをハリーは授業の合間を見てこまめに作成していた。
これも後数日すれば完成する。
長い一か月分だった。作るのに負った苦労全てを取り戻せるとは思っていないが、あって困る物でも無し。
どうせやることもないので小瓶一つ分でも作っておこうと思い立った。
研究の方は終盤に差し掛かったためか遅々として進まず、鍋の横に置いてあるティアラも壊すか壊すまいか判断付かない。
ヴォルデモートの熱いお招きも、ダンブルドアの監視があるため乗ることが出来ない。
ないない尽くしで気が参ってしまいそうだった。ハリーは額の傷に手をやり溜息を吐く。
その時、背後でがちゃりと扉の開く音がする。
同時に、甲高い金切り声が発せられた。
「ハリー・ポッター!」
その声は聞き覚えのあるものだが、ハリーの脳は候補をあげることすらせず、ぼんやりとした像をもって『たしかあいつ』と不明瞭な答えを出していた。
誰だよと思って振り返ると、ドビーが扉の前に立っていた。
その奥に、見覚えのある集団が群れを成している。
「お久しぶりです、ハリー・ポッター!」
「……ああ、ドビー」
ハリーは椅子の上から無表情にドビーを見下ろす。
特段嬉しい再会ではなかった。
ましてや有象無象を引き連れての来訪となるとなおさらだ。
気が付けば、周囲の風景は雑多感にあふれるものから秘密基地めいたものへと変化している。
「何か用かな?」
「はい。いえ、ハリー・ポッターがここに居らっしゃるのは予想外でした」
用があるのは必要の部屋か。
ハリーは察しがついた。
最近、ハーマイオニー・グレンジャーにしつこく『闇の魔術に対する防衛術の自習がしたいので先生になってくれ』とせがまれていた。
その要請は全て無下にしてきたが、まさか必要の部屋を使おうとするとは思わなかった。
知名度のないこの部屋は、頻繁に使っているにも関わらず未だ同伴に与る者と遭遇したことはない。
だから少し油断してしまったようだ。
次からはきちんと人の出入りが不可能になるようにしておかねばと内心で強く戒める。
ハリーは立ち上がり、鍋の横に置かれていたティアラを懐にしまった。
それから乱入者たちと対峙する。
「ここが使いたいのか?」
先頭に居たハーマイオニーに尋ねた。
ハーマイオニーは物珍し気に辺りを見渡すのを止め、慌てて頷いた。
「ええ。そうよ」
「それは困ったな。僕もここを使いたいんだ。何しろここは便利でね」
ピリッと空気がかわった。
ハーマイオニーの後ろに居る生徒たち――――極め付けミレイとロンが――――警戒心を露わにハリーを睨みつけていた。
先日のアンブリッジへの暴挙を知っているグリフィンドール生たちは、やはりハリーのことを危ない奴だと思っているのだろう。
ハリーとしても、いくら命を狙われたとは言えあれはやりすぎたと思っているし、やるなら人目のない場所でこっそりとやるべきだったと反省している。
ここでまた、同僚を相手に同じように事を荒立てるつもりはない。
加えて、何人か恩のある人間も混ざっているようだ。
だから、平和的解決を目指しハリーは一つ提案した。
「シェアしないか?」
ハーマイオニーが唇を引き締める。
「僕はここを使いたい。君たちもここを使いたい。なら、平等に分け合おうじゃないか」
ハーマイオニーが少し考える素振りを見せた。
後ろの生徒たちは提案を懐疑的に見つつ、どうするかはハーマイオニーに任せるつもりのようだ。
このグループのリーダーはハーマイオニーだと言う事だろう。
「……そうね。それが一番無難でしょうね。私たちは週一回程度しか都合を合わせられないでしょうし」
「君たちの都合に僕が合わせよう。僕も毎日ここにいるわけじゃない。予め君たちが使いたい日にちを教えてくれれば、その日は譲るよ」
彼女らにとってはこれ以上ないほどの好条件だ。
リーダーであるハーマイオニーもそれで納得している様子を見せている。
ハリーはこの提案は受け入れられたと確信した。
ハーマイオニーが後ろを振り返り、異議があるものはいないかと確認する。
誰からも声は上がらなかった。
「いいわ。そうしましょう。けれど、もう一つ条件があるわ」
「なんだい?」
「私たちの活動を口外しないこと。分かっていると思うけど、このグループは合法なものではないわ」
ハリーは頷いた。
アンブリッジの頭のおかしい規則集は、一応すべて頭の中に入っている。
ハーマイオニーはにっこりと笑って一つ羊皮紙を差し出してきた。
その笑みが酷く胡散臭い物であるとハリーは思った。
「そう。……なら、この羊皮紙にサインを頂けるかしら?」
『ダンブルドア軍団』と書かれたその羊皮紙にはミレイ・フォーザンを筆頭に名前が連なっていた。
このグループの名簿になっているのだろう。当然の言葉ながらハリーはそれを拒否する。
「何度も断ったと思うけど、僕はグループには入らないよ」
「入る必要はないわ。ただ、名前を書いてほしいだけ」
なぜ?
その疑問はもう一度羊皮紙を見ることで雲散する。
どうやら、これには呪いがかかっている。おそらくは秘密を破った者を罰するためのものだろう。
こんな物騒なものに名を書けと言うのか。
どうするかなとハリーは思う。
考えるまでもなく、これに名を書く気はない。
退学になる危険を冒すつもりはないのだ。
ハリーの視線がチラリと背後の魔法薬へと向いた。
ハリーを見ていたハーマイオニーも、釣られ魔法薬を見た。
その表情は魔法薬を見る時間に比例して、徐々に怖い物へと変化していく。
「……あれは、なにかしら?」
ハーマイオニーの問いかけに、ハリーは内心でほくそ笑んだ。
「あれって?」
「あの鍋で煮込まれているもの、よ」
「さあ、なんだろうね?」
ハーマイオニーの表情は、今やどこかで見たような凄い物へ変化していた。
それをどこで見たか思い出す暇もなく、ハーマイオニーの詰問が始まる。
「あれは、私の見立てでは真実薬ね」
ハリーは答えない。後ろで「真実薬って?」と誰かが小さく質問した声が聞こえた。
ハーマイオニーは、ハリーのその無言が「YES」と言っていることを知っていた。
「あれを作るためにいくつ規則を破ったの?」
「さあ……。いちいち数えてないからね」
「個人であんなものを作るなんて、何を考えているの? 危ないにも程があるわ」
ハーマイオニーは静かに怒っていた。
たった三滴で心の内を全て暴露してしまう自白剤。
魔法世界においてすら、その使用や所持、製作を制限している超危険物。
あれを作っているということは、ホグワーツの規則はおろか魔法界の法すら破っていることに他ならない。
ばれたら退学では済まされない。最悪アズカバン送りになってしまうだろう。
監督生の立場にあるハーマイオニーが怒るのも当然だ。
「あれは没収します。それから、あなたには罰則を――――」
「まあ、まずは落ち着こうか。ハーマイオニー・グレンジャー」
ハーマイオニーは何を言っているんだと余計に頬を紅潮させた。
そろそろ我慢の限界と言う風情だ。いつ怒鳴られてもおかしくはない。
しかし、続くハリーの言葉にその頬の色が一転する。
「もしあれを没収すると言うのなら、僕は君たちのことをアンブリッジに密告してしまいかねない」
赤から青へ。
瞬間的に移り変わるその様は、クリスマスのイルミネーションのようで、見ている分には非常に楽しめる。
ハリーはニコニコと笑って言った。
「取引と行こうじゃないか」
ハリーの言葉に、ハーマイオニーは無言を貫いた。
「僕は君たちのグループのことを黙っている。代わりに、君たちもこの魔法薬の存在を誰にも言わない。ギブアンドテイクだ」
そこでハリーは小さく声を忍ばせた。
「――――幸いにも、真実薬のことを知っている生徒はそう多くはないみたいだしね」
ハーマイオニーの後ろで待機していた他の生徒たちは、その大多数が真実薬が何なのか分からず首を捻っていた。
それ自体は仕方ないだろう。真実薬はN・E・W・Tレベルの魔法薬だ。
具体的には、授業では6年生で初めて知る機会を得ることになる。
このグループに6年生以上の者はそう多くない。
加えて、魔法薬学のNEWTはO・優と言う最高の成績がないと受講することが出来ない。
余計に知っているものは少なくなる。
「さあ、没収し全員で痛い目を見るか、目を瞑り互いの秘密を抱えるか。選んでくれ、グレンジャー。リーダーは君だろう?」
聡いハーマイオニーのことだ。
その頭の中では、今この瞬間にも策がひねり出されていることだろう。
で、あるのならばすぐに理解するはずだ。最善策がどちらなのか。
表情に苦渋を滲ませるハーマイオニー。
対照的にハリーはにっこりと笑っていた。
そうして諦めたような溜息。ハリーは手を差し伸べた。
ハーマイオニーは躊躇いながらもそれを握る。
それで交渉は成立した。
「そういうことで、よろしく」
その場にいる全員が初めて見るハリー満面の笑顔は、非常に憎たらしいものだった。
そう言えば、とハリーは今更ながらに思い出す。
そう言えば以前にもここに来たことがあったなと。
周り、天高くそびえる棚にびっしりと水晶玉が置かれているその部屋で、ハリーは場違いにも昔のことを思い出していた。
昔と言っても、言うほど昔ではない。精々2年ほど前か。
あの時はクィディッチワールドカップの騒ぎに乗じて侵入したが、今日はいともたやすく侵入出来た。
お膳立てが出来ていたと言えばそれだけだが、普段からこのくらい緩ければこの先もやりやすいだろうにと残念に思う。
ハリーは2年前と同じ道をたどり、同じ棚の同じ水晶玉の元へ来た。
2年の間に新しく被った埃。しかし微かに指の形が見て取れる。最近誰かが触れたようだ。
その目的の水晶玉を前にして、ハリーはそれを取るのが無性に惜しくなった。
人っ子一人居ない魔法省。こんなこと滅多にないのだから、何か普段できないことでやっておきたい。
さて何かあったかなと、手元の巾着袋を漁る。
フレッドとジョージの悪戯道具が目についた。
科学の結晶閃光玉。ペルー産インスタント煙幕。試作品のゲロゲロトーチ、鼻血ぬるぬるヌガー。
役に立たない物しかない。せめて花火が残っていたらまだ何か出来ただろうに。
ハリーは諦めて巾着袋をしまう。
もうとっとと取ってしまおう。
ハリーは自分と『例のあの人』と書かれている水晶を手に取った。
途端、周囲に人の気配がする。
暗がりに隠れていたのか、姿を消していたのか判然としない。
けれど相も変らぬ黒い衣装を身に纏った一団は、揃いも揃って下卑た笑いを浮かべながらハリーを取り囲むように立っていた。
正面に立つルシウス・マルフォイが偉そうな態度を声音にまで広げ言う。
「よくやった、ポッター」
彼と会うのは裁判の日以来だろうか。
その時もこうして威圧的な言葉を紡いでいた。隣に居たダンブルドアを気にしながらであったため、威厳は微塵も感じられなかったが。
「さあ、それをこちらに渡すのだ」
手を差し出しながらルシウスは言った。
その隣のベラトリックス・レストレンジは壊れたおもちゃのように笑っていた。
「まんまと引っ掛かったポッティーちゃん! 罠だとも知らずに一人でのこのこと、お馬鹿なことだねえー?」
ゲラゲラと四方から笑い声が木霊する。
それが癇に障ったハリーは、苛立ちと「アズカバン帰りが偉そうにすんな」との気持ちを込めて失神呪文をお見舞いした。
真っ直ぐに進んだそれを、ベラトリックスは俊敏な動きで弾く。弾かれた呪文はあらぬ方向に向かい、水晶玉を一つ破壊した。
予言の語りが聞こえる中で得意そうなベラトリックス。ただ、その顔にはすでに小馬鹿にするような色は消え去っていた。
好戦的な表情でハリーを観察している。今にもハリーに向けて呪文を放ちそうだ。
それを抑えながら、ルシウスが穏やかな口調で場を叱咤する。
「これこれ。学生に無茶をするでない」
仕切り直しと言う風に、改めてルシウスは手を差し出した。
「ポッター。我々の目的はその予言だけだ。それを渡しさえすれば、危害は加えない」
「……ヴォルデモートはどうした?」
ルシウスの言葉をほとんど無視して、ハリーは尋ねる。
出鼻をくじかれたとルシウスは眉を顰め、咄嗟に手をかざしてベラトリックスを牽制する。
「……我が君は、ここには居られない。君にとっては好都合だと推察するがね?」
「ああ、好都合だよ」
言って、ハリーは近くの棚を爆破する。
グラグラと棚が揺れ、置かれていた多数の預言がハリーを含めたこの場の十数人に降り注いだ。
「この小僧!!」
ベラトリックスが吠え、呪文を唱える。
それに呼応して四方を囲んでいる他の人間も呪文を唱えた。
ルシウスの制止の声が虚しく反響する。
外れた呪文が予言を砕き、ハリーにより屈折させられた呪文が死喰い人に命中し相打ちが発生する。
そこら中でゴーストのような姿が浮かび上がり、いくつもの語り部が思い思いに予言を語る中、ハリーは唱える。
「『アバダケダブラ』」
それはハリーの背後に陣取っていた死喰い人に命中する。
仮面をつけていて顔こそ分からなかったが、隣に居た死喰い人が「ロドルファス!!」と叫んでいた。
ハリーは叫んだ死喰い人をも気絶させ、退路を確保する。
「『プロテゴ』守れ」
通路一杯の大きさの盾の呪文を背後に放ち、足止めに使う。
崩れ落ちてくる予言を避けながら、ハリーは急いで『予言の間』を去る。
背後からいくつか死の呪文が放たれていたが全て無視した。
『予言の間』を抜け、ハリーは『死の間』に到着していた。
アーチから聞こえる囁き声が酷く不愉快で、顔を顰めながらゆっくりと歩いている。
石段を上りアーチのある台座に近づいたとき、囁き声を覆う笑い声が頭上から聞こえ、ハリーはようやくかと言わんばかりに溜息を吐いた。
見上げると、いくつか存在する扉の全てから死喰い人が現れている。声の主はベラトリックスであった。
飛んできた失神光線をハリーは弾く。
死喰い人達は呪文を弾幕の様に発射しつつ近づいてくる。
それはあくまで牽制が目的の物で、きちんと狙いがつけられているものは少ない。
ハリーは自分に当たる物だけ弾いていた。
そしてハリーが動かずにいる間に、死喰い人たちは円形に包囲を完了させた。
しかし、ルシウス・マルフォイを始め数人の姿が見えない。恐らく『予言の間』で横たわっていると思われるが、その場合生死は定かではない。
「手こずらせてくれたねえ? ええ、ポッター?」
ベラトリックスが怒りで紅潮した顔で言う。
ハリーは答えずに死喰い人を見渡していた。
9人か。思ったよりも少ない。学生相手だと思い油断していた者が多いことを示している。
情けない奴らだと心中で唾棄した。
「それを渡せ。そうすれば命だけは助けてやるよ――――『アクシオ!』」
ハリーは反対呪文で応対する。
小賢しいとばかり、ベラトリックスは舌打ちした。
「少しはやるようだけどねえ。この状況が分からないのかい? まさかたった一人で、この数の死喰い人を相手にやろうなんて考えちゃいないだろう?」
9人を相手に一人で挑む。
普通に考えれば無謀だが、この場合はハリーが有利だ。なにせハリーの手には予言がある。これは武器だ。
ハリーは頭の上に予言をかざした。
「これが欲しいんだろう? いいよ。あげる」
言って、天高く予言を放り投げた。
死喰い人達の眼がハリーから予言へと移り、何人かは杖すらも予言へと向けていた。
ハリーはその致命的な隙を見逃さない。
ハリーの杖から蛇の形をした炎が生み出された。
それは一瞬の内に周囲の死喰い人達を呑み込み灰燼に帰す。
ほとんどの死喰い人は飲み込まれ、辛うじて呑み込まれずに対処できたのは二人。
内一人、アントニン・ドロホフはハリーに向け紫色の炎を鞭のように放つも、それは即座に鎮火させられ、驚きと呪文途中の動作とで無防備なところを死の呪文で殺される。
最後の一人のベラトリックスは、ハリーとドロホフの決闘を余所に、予言に向けて呼び寄せ呪文を唱えていた。
「『アクシオ!』」
宙に浮かんでいる予言は重力に従いハリーの手の中へ落ちる。
ベラトリックスは愕然と呟いた。
「呪文除け……? いつ?」
「2年前かな」
ハリーは答えたが、ベラトリックスはそれを嘲りと受け取り、ただ強い瞳で睨みつける。
しかし、眼とは裏腹にその口の端には微かに笑みが浮かんでいた。
「はは……。はは、はははっ!! 驚いた! 驚いた!! まさか学生の分際で『悪霊の火』を使うなんてねえ!?」
ベラトリックスは自信満々に続ける。
「けれどもう無理だ! もう油断しない。本気でやる。私は、あの方に直接魔法を教えてもらったんだ。お前如き青二才がどうこう出来る次元には居ないんだよ!」
ベラトリックスは言葉尻と共に死の呪文を放った。
ハリーは二歩横にずれてそれを回避する。そして一歩近づいた。
「なんだい。やろうってかい? いいよかかってきな。優しく撫でて――――」
「お前は僕には勝てない」
宙から銀に輝く盾を取り出しハリーは述べる。
ベラトリックスはその盾に目を奪われていた。
「聞きたいことがある。答えろ」
ハリーは武装解除呪文を放つ。
応じて、ベラトリックスも呪文を放つがそれは銀の盾に防がれた。
ベラトリックスは身を翻して呪文を躱し、次の呪文を放とうとするが、その前にハリーの呪文がベラトリックスの元へ届く。
それも何とか防ぐも、防いだそばから次の呪文が殺到し、防戦一方になった。
このままでは勝てないと、ベラトリックスは態勢を立て直すために逃げに徹することにした。
背を向けたベラトリックスをハリーは撃たず、悠々とその後を追う。
予言を手に入れられず、末には仲間を殺された今、このまま逃げることはしないと確信しているからこその余裕である。
如何に逃げる素振りを見せようと、それはただのブラフだ。
必ずどこかで予言を奪おうと仕掛けてくる。
ハリーはエレベーターに乗ってアトリウムまで戻ってきた。
暖炉にフルーパウダーでも使ったのか緑の火が焚かれており、その火が中央の噴水に反射しキラキラと煌めいている。
まさかと思い、ハリーがエレベーターから出た途端、死角から魔法が繰り出された。
「『アバダケダブラ』」
ハリーは銀の盾を使い防ぐ。ゴオンと重苦しい音がホールに響き渡った。
ハリーの杖が噴水の立像に向けられる。
途端、鎮座していた四つの金の像が動き出し、ベラトリックスを捕縛せんと駆け出した。
叫び、呪文を乱射するベラトリックスだが、像はそれを全て反射し効果はない。
すぐさま床に押さえ付けられ、その衝撃で杖を手放してしまった。
ハリーは呪文を唱える。
「『ステューピファイ』麻痺せよ」
気絶し倒れたベラトリックス。
ハリーは真実薬を取り出し、無理矢理に口の中へそれを流し込んだ。
呑み込んだのを確認したところで「気付け呪文」が放たれる。
「聞こえるか?」
「…………はい」
「僕の言葉が分かるか?」
「はい」
効き目を確認し、ハリーは問う。
「ヴォルデモートが君に預けたものがあるはずだ。――――金のカップだが?」
「はい」
「それは今どこにある」
「グリンゴッツ魔法銀行の、私の金庫の中に」
「そうか」
それがハリーの聞きたかったこと。
それだけ分かればもう満足だったが、ついでとばかりにもう一つだけ聞いておくことにした。
「もし君が死んだとき、金庫の相続権は誰にある?」
「……シシーに。妹のナルシッサに」
「ああ。そうだろう。それはそうだ。――――ありがとう。もう眠ってくれていい」
ハリーは緑の閃光をベラトリックスに当てた。
ベラトリックスはゆっくりと仰向けに倒れ、天井を見つめたまま動かなくなる。
「これは冥土の土産だ。受け取ってくれ」
亡骸のすぐ近くに予言を放る。
床に落ちたそれは粉々に砕け、封じられていた記憶を語り始めた。
『七つ目の月が落ちる時、帝王に三度抗った――――』
一度聞いたその内容をハリーは聞くことはせず、暖炉に向かう。
そこでフルーパウダーを使い、ホグワーツのアンブリッジの部屋へと帰って行った。
O・W・L試験が終わり、ハリーを含めた5年生たちは今学期の残り――――夏休みまでの一か月余り――――を悠々自適に過ごしていた。
辛い試験勉強から解放されたことと、試験結果を考えたくない現実逃避とで、生徒たちはいつも以上に開放的に毎日を送っていた。
その類に漏れず、唯我独尊に過ごしていたハリーの元へ、一通の手紙が送られてきた。
差出人はダンブルドア。
『今日の夕暮れに校長室へ来てほしい』
そう書いてあった。
校長室に入るには合言葉が必要である。
校長室の門前に鎮座しているガーゴイルの石像に合言葉を言う事で、入ることが可能になる。
今期の合言葉は『フィフィ・フィズビー』であった。
ダンブルドアからの手紙に遠まわしにそう書いてあった。
エスカレーターのように、自動で上る螺旋階段。
グリフィン型のドアノッカーを叩く。
「お入り」の言葉はすぐに返ってきた。
ハリーは校長室へ入室する。
一番最初に目についたのは歴代校長の肖像画だ。
そのほとんどすべてが目を瞑り眠っているように見える。
棚やテーブルの上には銀の魔法道具がたくさん置いてあり、そのほとんどはダンブルドア自ら制作した物である。
普段は煙を吐いたり小刻みに動いているそれらは、今は動いていない。
「かけなさい」
ダンブルドアの言葉に従い、ハリーは椅子に腰かけた。
ダンブルドア自身は机に向かい、背もたれの高い椅子に腰かけていた。
二人の距離は数メートル離れていた。
ハリーはダンブルドアを横目で見つつ言葉を待ったが、当のダンブルドアは難しい顔で押し黙るばかりで一向に口を開かない。
仕方なく、ハリーの方から口を開いた。
「校長復職おめでとうございます」
それは意図せず冷たい声音だった。
「ありがとう」
ダンブルドアは気にした様子もなく受け止める。
「先生の復帰を皆待ち望んでいました。教師はもちろん、生徒たちも」
「それは、君も含めてかね?」
「もちろんです」
ハリーは笑う。
それは、いつもの人当たりの良い笑いではなく、どこか冷やかさが漂っていた。
「疑いが晴れたのは、先日の魔法省での死喰い人大量逮捕のおかげでしょうか。誰のおかげか分かりませんが、感謝しないといけませんね」
白々しく、言う。
ダンブルドアは何も答えず、ただハリーの眼を見ていた。
全てを見透かすような青い目。
ハリーはその目を正面から見返した。
しばらくの間、二人は何もしゃべらず見つめあっていた。
その光景を肖像画が固唾を呑んで見守っていた。
やがて、疲れたようにダンブルドアが口を開いた。
「ハリー。今夜、君を招いたのは心にあらぬことを話すためではない」
ダンブルドアは立ち上がり、ハリーの元へ歩く。
そして、対面の椅子に座った。
「そろそろ、互いに騙し合い化かし合いを止め、正直に話すべきと、そう思ったからじゃ」
その言葉で、ハリーは己の手の中にワインの入ったグラスを幻視した。
条件反射で口に運ぼうとしたが、それは一度の瞬きで跡形もなく消える。
動かした手のやり場に困り、嘆息と共に背もたれへ身体を預けた。
顎を上げて傲岸不遜にダンブルドアを見る。
いつの間にやら日は沈み、校長室は闇に包まれていた。
唯一、暖炉だけが二人を照らしていた。
白く神秘的な雰囲気のダンブルドアと黒く不気味な雰囲気のハリー。
しかし、その清廉な見た目とは裏腹に、ダンブルドアの言葉は重く冷たい物だった。
「――――トム、君は何を考えておる?」
ゆらゆら揺れる影二つ。
その片方には、三つ目の陰が覆いかぶさっていた。
おわり