「ハリー。君を助けたい」
バグマンからその申し出を受けたのは、第三の課題に使われる生け垣を見つつ課題の内容を知った直後だった。
二人、背中に禁じられた森を背負いながら会話する。
「何故です?」
「ハリー、君は選手の中で最年少。しかも自分の意思で立候補したわけではない。誰しもが君のことを不憫に思って当然だ」
バグマンは父性を全面に押し出してハリーに語り掛ける。
「しかも、現時点で君が一位。最年少で、成人した魔法使いを押しのけて一位だ。私個人としても、魔法省の一役人としても、君に優勝してもらいたいと思っているんだ」
バグマンはハリーの眼を見つめて言った。ハリーもバグマンの眼を見つめて聞く。
「どうだろう。君が『助けてくれ』と一言言ってくれれば、私は君にほんの些細な――――あー、アドバイスをあげられると思うのだが」
「ああ、そういうことなら結構です」
ハリーは即答した。
バグマンはハリーの言った言葉が分からなかったように硬直した。
「バグマンさん、僕は優勝するにしろしないにしろフェアプレイを尊びます。ですから、そういう用件でしたらお断りさせていただきます」
笑顔を浮かべてハリーは拒否する。
「し、しかしだね……」
「バグマンさんが僕を優勝させたい気持ちは良く分かりました。僕も優勝できるように頑張ります」
「ああ、それはもちろんだ。だが――――」
「バグマンさん、何度も言いますが僕はフェアな試合をしたいんです。今こちらを見ている彼らを相手に、年の差はあれど何処まで競えるか、僕の力を試す良い機会なんです」
バグマンが振り返った。
遠くで、先に帰るように言われた三人がハリーたちを見ている。
「これ以上話をしていては僕に肩入れしていると疑われるかもしれませんね。特にカルカロフ校長は僕の件で魔法省に不信感を抱いていますから、それを煽るような真似は極力避けるべきでしょう。どうです? 偶には彼らと他愛のない会話でもしてみては? もしかしたら、僕以上に優勝してほしいと思える人間がいるかもしれませんよ」
バグマンは曖昧に笑う。
「それでは、君は誰の力も借りずに一人で課題に挑むと……?」
「それはもうお答えしました」
「……そうか」
重苦しく頷いたバグマンは、健闘を祈っていると呟いてホグワーツへ戻った。
ハリーはその後ろ姿を見送る。
バグマンに言わせてみれば少々冷える校庭。
それは全くその通りで、本当ならハリーもすぐに城へ戻りたかったが、小さな用事が出来てしまっていた。
冷えを回避するためにローブの上からマントを被り、暖を取る。早いところ済ませてしまおうと、ハリーは歩を進めた。
それから、ハリーがホグワーツ城に戻ることが出来たのは、校庭に人の姿がなくなって数十分後だった。
第三の課題は迷路である。
クディッチ競技場に作られた五メートルはあろうかと言う生け垣の中を彷徨い、優勝カップに一番にたどり着いた者が優勝となる。
迷路に入る順番は今までの課題で取った点数の高い者から。
一番目にハリー。二番目にクラム。三番目にセドリック。四番目にフラー。
いよいよ最後の課題と言う事もあって、否応なく生徒たちの興奮は高まる。
ハリーも意味もなくわくわくしていた。多分遠くにいるハゲの影響だ。
観客席で生徒や選手の親が見守る中ホイッスルが鳴る。
その音と共にハリーは生け垣へ入った。
とりあえずは優勝杯の元へ。話はそれからである。
一定間隔おきにホイッスルが鳴り、四度目のホイッスルが鳴ってから十分ほどして、どこからか甲高い叫び声が聞こえてきた。
声の高さから女性。おそらくフラー・デラクールが最初の犠牲者となったのだろう。
可哀そうなことだが、これで残っているのは三人になった。優勝杯へ一歩近づいたということになる。
ハリーは襲い掛かってきた尻尾爆発スクリュートを縄で固定しながらそう思った。
スクリュートは尻尾を爆発させながら暴れており、これほど殺意を促す生き物もそうはいないだろう。
危険すぎる。
二度と暴れぬようにと雁字搦めにし、止めに生け垣の中に埋め込んでからハリーは先へと進んだ。
しかし数メートル先に進むと袋小路にぶつかってしまった。嫌々引き返す。
がっしゃんがっしゃんうるさいスクリュートを通り過ぎ、二股に戻ってきた。
先ほどは右に進んだ道を今度は左へと進む。
暫く、ハリーは何にも遭遇せずに迷路を進んだ。
辺りは静かで動物の気配はない。
魔法の痕跡すらなかった。最終課題の癖して随分簡単だ。
ゴール付近に障害が集中しているのか、それともムーディがこっそり取り除いているのか。
どちらでもいい。優勝にはあまり興味がないし、辿り着こうと脱落しようとハリーの思惑には何ら影響を及ぼさない。
ただ預言で帝王復活が示唆されているから流れに身を任せているだけだ。
復活してくれるのなら復活してくれた方がいい。
霊魂以下の存在のまま逃げに徹されるよりはましだろう。
そんな事を考えていた。
思考の海に沈みながらハリーを通路を右に曲がる。
その時どこからか叫び声が聞こえてきて、ハリーは立ち止まった。
どこからだろうか。断続的に聞こえはするが見えはしない。
声の方向からおそらくあっちだろうとは思えるが、道はそちらの方向には続いていない。
仕方ないからハリーは叫び声をスルーすることにした。
行けないのだから仕方がない。生け垣をぶち壊してまでそっちに行こうとは考えもしなかった。
暫し歩いた後、叫び声が止んだ。
死んだかもしれない。ハリーは先を急ぐ。
十分も歩いたとき、ハリーは優勝杯のすぐ近くにいた。
ただ目の前にビクトール・クラムが仁王立ちしている。彼は何かぶつぶつと独り言を呟きながら、虚ろな目で立っていた。
「優勝……。ぼくが、セドリック。許されない。ハリ-ポッター優勝。邪魔もの消せあの方の所へハリーポッター消せ殺す殺す」
見てられず、聞いてもいられずハリーはクラムを失神させた。
失神光線を胸に受け、ばったりとクラムは倒れ込んだ。それを跨ぎ、ハリーは優勝杯の元へ。
去り際に、ハリーは空へ赤い火花を飛ばしクラムへ声をかけた。
「ご苦労様」
振り向きもせずにまっすぐ前へ。
置かれている優勝杯は無駄に豪華だった。
主に金色で、所々に宝石が散りばめられていて光を放っている。
じっくりと眺めて、ハリーは優勝杯に手を掛けた。
瞬間、姿くらましをする時の感覚にみまわれ、ハリーはホグワーツから移動した。
優勝杯が移動キーに変えられていた。
ぐるぐると回りながらハリーはその事実を知る。
そして腹の下が引っ張られるような感覚が終わり、全く別の場所に着いたとき、ハリーの額に割れるような痛みが走った。
痛みに呻き、地面に倒れる。土の触感と青臭い臭いが鼻孔を満たす。
身動きすら取れなくなったハリーの耳に、不快な声が聞こえた。
「拘束しろ」
誰かがハリーを起こし、手近な岩の様な物に縛り付けた。それがどうやら墓石らしいという事は、朧気な視界で辛うじて確認できる。
男はハリーをきつく結び付けた際に、ハリーの手から杖を奪った。ハリーは痛みのせいで抵抗らしい抵抗も出来ず、為すがままだ。
薄目を開けるので精いっぱいのハリーの視界には、青白い表情のワームテールが映る。
「準備しろ。急げ」
シューシューとワームテールの向こうから声が聞こえた。
ハリーの近くを大きな蛇が通り過ぎるのを感じ、ドポンと水に何かが落ちた音がする。
ぐつぐつと何かが煮えている。おぞましい何かが。異様な臭いを撒き散らしながら水の底に沈んで行った。
「父親の骨、知らぬ間に与えられん」
ワームテールの声がする。恐怖で震えているその一言一言が、傷跡の痛みを大きくしているようだった。
遂に眼も開けられぬほどに痛みが膨れ上がる。
ハリーは全身を強張らせて痛みに耐える。
「僕の肉、喜んでさ、差し出されん。し、僕はご主人様を、蘇らせ、ん――――!?」
苦痛に叫ぶ悲鳴が辺りを貫き、夜空に反響する。ワームテールが何事かしたらしい。
何をしているのか、必死に頭を働かせて考えようとするも、傷跡の痛みがそれを邪魔する。
嫌な予感がする。止めなければいけない。絶対に、それだけは阻止しないといけない。
ハリーはもがくも、平生の三分の一も力が出ない。痛みと己の無力感とで瞳が潤み始めた。
ぜいぜいと安定しない呼吸を引っ提げ、ワームテールはハリーの元へ来る。
唯一無事な手で銀のナイフを持ち、ハリーの右手を斬りつけた。
その鋭い痛みで、一瞬ハリーの頭が覚醒する。そして唐突に悟った。ヴォルデモートが何をしようとしているのかを。
薬瓶で自分の血を集めているワームテールに、ハリーが叫ぶ。
「止めろ! お前は、自分が何をしているのか分かっているのか!?」
ワームテールはぎょっとしてハリーの顔を見た。
暫しの間見つめ合った二人。しかし、ハリーの瞳に赤い光を幻視したワームテールは恐れに駆られ鍋の元へ急ぎ戻る。
その間もハリーの制止の声が響く。それに一層恐怖を煽られたワームテールは魔法の完成を急いだ。
「か、敵の血! 無理やりに奪われん! 汝は敵を――――」
「止めろ! ワームテール!!」
「――――蘇らさん!!」
ハリーの血が加えられ、鍋からは煮え立つ音と共に閃光が放たれた。
眩しさで、ハリーは反射的に眼を閉じる。そして、その心中は絶望に染め上げられた。
――――なんてことを。
全てを覆い隠す濃い蒸気の先から、ハリーは聞いた。
「ワームテールよ。ローブは何処だ?」
死の飛翔の復活を。
黒いローブを着て、人ならざる姿をしたヴォルデモートは、まず己の手を眺めながら指を折りたたんだり伸ばしたりを繰り返す。
不具合の無いことを知った後、側に倒れるワームテールを、それからハリーに目を向けた。
完全に脱力し切り、失意の底に突き落とされた表情のハリーを見て、ヴォルデモートは満足げに笑った。
そしてワームテールへ声をかける。
「ワームテール手を出せ」
「わ、我が君…………」
ワームテールは手首から先が切り落とされた右腕を差し出す。
ヴォルデモートは嘲るように笑った。
「そちらではない。左腕を差し出せ」
「そ、それは……!?」
「二度も言わすでない。差し出すのだ」
「それだけは……! 我が君、それだけは……!!」
ヴォルデモートは無言で杖を振った。ワームテールは見えない力で引きずられ、ヴォルデモートの足元で左腕を差し出す形で止まった。
「くっきりと、見えている。戻っているな? 俺様の力が」
「我が君……。どうか、どうか。我が君」
「ああ。さて、一体どれほどの者がこれに気づいているか。応じる物がどれだけいるのか。見物ではないか」
ヴォルデモートが左手に触れたとき、ワームテールの悲鳴が夜を劈いた。
それに顔を顰め、ヴォルデモートは汚らわしい物を捨てるようにワームテールを投げ出した。
「見物だ。見物だ」
ヴォルデモートは数歩動き、そして止まった。
その周りで、次々と多くの者が姿現ししていた。
ハリーはその連中をぼんやりと眺める。
驚きに声をあげて、信じられない者を見る表情で、それら十数人はヴォルデモートを囲むように円を描き跪いた。
ヴォルデモートは嬉しそうに、けれど悲しそうに配下を見渡す。
「おお、我が家族たちよ。これほど迅速に招集に応じてくれるとは、俺様は喜ばしい」
ピクリと死喰い人達は反応した。その声音に含まれる皮肉を敏感に察知したのだ。
「しかし、同時に悲しい思いも抱いている。ここにいる誰もがその身体を損なわれていない。健康で、剛健で。五体満足に、吸魂鬼にキスをされたわけでもなく、元気な姿を晒している。すなわち、13年前と何も変わってはいない」
杖を一人一人に向けてヴォルデモートは言う。
「で、あるのならば俺様は問わねばならん。なぜ、このうちのだれ一人すら俺様を探そうとしなかったのか、と」
死喰い人たちは何も答えなかった。それを当然のように受け取って、ヴォルデモートは続ける。
「答える者はおらぬ。当然だ。その行動は俺様の不興を買った。故に自答しよう。ここにいる者たちは13年前、俺様が滅び去ったと信じたのではないか、と。あの老いぼれの、忌々しいマグル贔屓の言葉を信じてしまったのではないか」
一拍間を空ける。誰一人としてヴォルデモートと視線を合わそうとはしない。皆跪いたまま直下を見ている。
「で、あるのならば俺様は失望せざるを得ない。なぜ? ここにいる貴様ら『死喰い人』は、誰よりも近くで俺様の技を見てきたはずなのだ。俺様の呪文の一つ一つが歴史上類を見ない程に練磨されたものであると、俺様が死を退けるために数々の手を打っていると、知っていたはずだというのに」
ヴォルデモートは悲し気に首を振る。その演技染みた動作は見ているハリーに不快感を与えた。
「わ、我が君……」
息継ぎのための一瞬の隙を縫い、輪の中から一人声をあげる。
「ん? ああ、お前は確かエイブリーだったな? どうした。何か言いたいことでもあるのか?」
「我が君、どうかお許しください……。我々全員がぁぁあああああああ!!??」
突如としてエイブリーは苦しみ出した。
見ると、ヴォルデモートの杖がエイブリーに向けられている。
「どうした、エイブリー。思いは言葉にしなければ伝えられぬ。さあ、言うのだ。その口からどんな言い訳が飛び出すのか、見物ではないか」
そうヴォルデモートは言うが、『磔の呪文』を掛けられているエイブリーの口から出るのは意味のない苦悶だけ。
ヴォルデモートはそれに逐一反応しながら、面白げに頷く。
そうして散々弄ばれた後に、エイブリーに向けられていた杖が下ろされた。
ぴくぴくと痙攣し、地に伏せったエイブリーはもはや死んでしまったのではないかと思われた。
隣の死喰い人が助けたそうに身動ぎをして、しかしご主人様の手前何もできない。
目立つ行動を取ってしまえば、今度は自分が標的になってしまうのではないかと恐れたからだ。
「ああ、許せエイブリー。お前の口が中々動かぬから少々やりすぎてしまったようだ。だが、ことのほか面白い言い訳だった。お前に関してはそれで不問にしよう。――――やりすぎた、と言えば」
ヴォルデモートの杖が、血に塗れ倒れていたワームテールに向く。
杖先からドロリとした銀色の液体が零れ、意思を持つ生物の様にワームテールの右手に進んだ。
そこでなくなってしまった手首を形作り、がっちりと嵌りこむ。
それまで浅く早かった呼吸が楽になったように深く遅い物になった。
ただ意識はあれども喋れるほどには回復せず、漏れた言葉は人の言葉とは分からぬ声だけだった。
しかしヴォルデモートはそれにも満足げに頷く。
「ワームテールよ。あまりに影が薄いから半分忘れていたぞ。危ういところだった。もう少し遅れていれば死んでいたかもしれぬ。エイブリーにも言ったが、言いたいことがあれば口に出して伝えることだ。次は人の言葉で言う事だな」
言って、ヴォルデモートは視線を他の死喰い人に向けた。
全員が震えあがっている。自分もあの二人と同様の罰を与えられるのではないかと。下手をすれば死んでしまう罰が待ち構えていると、恐れ慄く。
その恐れを感じ取り、ヴォルデモートは冷酷に笑った。
「なんとも、奇妙なことだが」
死喰い人の身体が跳ねる。
「エイブリーとワームテールの、この様を見て、俺様は満足してしまったようだ」
ほとんどの死喰い人が顔を上げた。その眼には驚きと懐疑が入り混じっている。
「13年。13年もの長きに渡り、積もりに積もった俺様の恨みが――――」
ヴォルデモートが地に倒れる二人を見る。
「たった、この程度のことで発散されてしまった」
「わ、我が君……?」
ルシウス・マルフォイが輪から声を発した。
常から青白い顔色がより一層青白くなり、今や死人と見間違えてしまう程だった。
ヴォルデモートは旧友に語り掛けるような穏やかな調子で答えた。
「左様。ルシウス。まったく奇妙なことだ。昔の俺様なら、死人の一人二人出ていても不思議ではない。それほど、俺様が抱いた恨みは大きい。だと言うのに――――」
鋭く、杖がルシウスに向けられる。
硬直したルシウスを見て、ヴォルデモートは笑った。
「貴様らを傷つけてやろうと言う気は、もはやない」
「我が君……」
ルシウスの声が安堵に満ちた。表情にもそれが滲んでいる。
「エイブリーに免じて、許すとしよう。今にも死に絶えそうなそ奴に感謝することだ」
他の死喰い人達からも、次々に感謝の言葉が放たれる。
数秒。黙って聞いていたヴォルデモートだが、半分ほどが言い終わったところで手を挙げ残りを制す。
「もうよい」
瞬間、冷や水を浴びせられたように全員が口をつむいだ。
ヴォルデモートは、己を囲う輪の空白を無表情に眺めていた。
一つを眺め、次の空白へ。そしてまた次の空白へと目を移す。
そして、最後に未だ墓石に繋がれているハリー・ポッターへ。
「皆、見るが良い。本日のこの目出度い席に、遥々ホグワーツから客人が来られた」
死喰い人の眼がハリーを貫く。
ハリーはそれら一つ一つを見返した。
「ハリー・ポッター。世間で俺様を破ったと噂の、いわゆる『生き残った男の子』だ」
ハリーとヴォルデモートの視線がぶつかる。
赤い眼と緑の眼が相手の心を暴き解こうと、しのぎを削った。
「気になっていることだろう。どのように、この無様を晒している小僧が俺様を破ったのかと。どうやって、今夜俺様はお前たちを舞い戻らせたのかと」
誰かが唾を呑み込み、喉を鳴らした。
「皆も知っていよう。13年前、俺様はこやつを殺そうとした。しかし、結果は振るわなかった。俺様は凋落した。どうしてか。答えは簡単だ。俺様は油断していた。高々魔法使い二人に赤子が一人。そう油断していた。その油断が不幸にも、俺様を破滅させた。あの愚かな女の掛けた呪文が小僧を守り、俺様の放った呪文を跳ね返した。それだけのことだ」
ヴォルデモートがハリーに近づく。
青白く細長い指がハリーの額に触れ、傷跡をなぞり、最後に目元を通過した。
ハリーは額に走る痛みに顔を顰め、歯を食いしばる。
ヴォルデモートは観察する様に、ハリーを眺めまわしゆっくりと離れた。
「しかし、俺様は死ななかった。死に限りなく近づきはした。だが、俺様は生きていた。霊魂にも満たぬ、ゴーストの端くれにも劣る姿になっても、俺様は生きていた。僥倖だ。俺様の実験が功を奏したことの証明にもなった。悲観すべきは、我が家族が俺様の前へ現れなかったことだけだ。まあ、それはもうよい」
何人か、居心地悪そうに体をゆすった。
ヴォルデモートはそれを気にせず話を続ける。
「月日は流れ、九年後。俺様は一つの好機を手に入れた。ホグワーツで教えていた教師が一人、俺様の元へ彷徨いこんだのだ。俺様は、その教師を掌握した。簡単なことだ。そやつは愚かで、騙されやすく自信家だった。俺様はその教師を従え、憑りつきホグワーツへ侵入した。目的は『賢者の石』」
そこでヴォルデモートは言葉を切り、懐かし気に思い出に浸った。
「あと一歩だった。あと一歩で、俺様は身体を取り戻すことが出来た。しかし、邪魔をされた。忌々しいダンブルドアにではない。そこにいる小僧にでもない。名も知らぬ、小娘にだ」
言葉の末端に付与された怒りに、死喰い人達は縮み上がる。
ヴォルデモートの身体から冷酷な気が漏れ、周囲の気温は数度下がったようだった。
「あの小娘には、思い知らせねばならぬ。自分が一体何をしたのか。身に刻み込み教えることとしよう。だが、それは今ではない。――――話を戻そうか」
爆発する直前の怒りをまるで無いが如く消し去り、ヴォルデモートは平生の調子を取り戻した。
「俺様は元いた場所に逃げ帰った。憑りついていた男は、俺様が離れたときに死んでしまった。もう二度と俺様は身体を取り戻せぬのではないかと、恐れたことは正直に言っておこう。ああ、あの時期は俺様の人生においてもっとも影を落とした期間だ」
ヴォルデモートは心底嫌そうな表情を作った。手元で、くるりと杖が回る。
「しかし、神は俺様を見放してはいなかったらしい。二年もたたず、そこのワームテールが俺様の元へ参上した。俺様が身を滅ぼした時、臆病にも逃げた男だが、隠れ家を追われ、死喰い人に命を狙われることを恐れるあまり、また俺様に従う決心をしたようだ」
ある程度回復し、立ち上がろうともがいていたワームテールの動きが止まる。
何人かの死喰い人が軽蔑の視線を投げかけた。
「幸運にも、ワームテールは役に立つ土産を連れてきた。バーサ・ジョーキンズ。魔法省の役員。今年ホグワーツで行われる対抗試合と、それ以外にも思いもがけぬことを喋ってくれた。まあ、最後には死んだが」
地面を這っていた蛇がシューッと鳴く。
蛇語を理解するハリーには「美味しかった」と聞こえた。
「それから、ワームテールの力を借り人に見えるまでに回復した俺様は、先のバーサの情報を元に、先駆けて一人家族を助けることとした。その者をホグワーツに侵入させ、俺様は古い闇の魔術の準備を始めた」
死喰い人達がにわかに騒然とする。
まさかワームテールの他にも、ヴォルデモートの復活を手助けしていた者がいるとは夢にも思っていなかった。
「その魔法薬の完成には三つの材料が必要だった。比較的容易に入手できる親の骨と僕の肉。もっとも難しい敵の血。誰でも良いとワームテールは言った。敵意があるのならば誰でも良いと。しかし、俺様は小僧に執着した。あの愚かな女が掛けた魔法が、今も小僧の中で息づいている。俺様が小僧を降すには、どうしてもこの血が必要だったのだ」
ヴォルデモートがハリーの右腕の傷に触れ、指先に血を付着させた。
ぽたりと血が滴り落ちる。
「さて、ホグワーツに居る同胞の尽力のおかげもあり、俺様は無事に復活することが出来た。多少の懸念材料こそあったものの、それも終わってみれば些細なこと」
ヴォルデモートは杖を振り、ハリーを縛る縄を切った。
もう一度杖を振り、ワームテールの懐にしまってあったハリーの杖をハリーの足元に転がす。
「今宵、13年前成しえなかったことを成し遂げよう。ハリー・ポッターを殺し、世にもう一度俺様の名を轟かそう。世界の変革者として後世まで語り継がれるであろうこの名を、『ヴォルデモート卿』の存在を改めて世界に知らしめよう」
ヴォルデモートはハリーを見据える。
冷酷な表情は、獲物に跳びかかる蛇の様だった。
「立て、ハリー・ポッター。杖を持ち、無様に抗うがいい。俺様は弱い者いじめは好かぬ。所属する寮よろしく、勇気を奮って俺様に立ち向かえ。それでこそ、俺様を一度は破滅させたものに相応しい」
ハリーは言われるがまま杖を取った。途端、上に引っ張り上げられ無理やり立たされる。
魔法の力から解放された時、ハリーはフラフラと覚束ない足取りでたたらを踏む。
その眼には生気がなかった。
「『エクスパルソ』」
そんなハリーを見ても、ヴォルデモートは容赦なく呪文を唱える。
ハリーを逸れ、背後の墓石に当たったそれは爆発を生み、衝撃波でハリーは倒れこんだ。
パラパラと土ぼこりが舞う。
「どうした? もはや抗う気持ちすら持たぬか。仕方があるまい。この俺様を目の前にして、発狂しないだけでも大したものだ。よかろう、終わりにしてやる。貴様が望めば、それを受け入れよう。さあ、『インぺリオ』!」
ハリーの頭の中で、ヴォルデモートの言葉が幾度となく反響した。
抗いがたい、麻薬の様な幸福感。それを偽物と理解しつつも、ハリーは半ばまで受け入れる。
ヴォルデモートの誘いに乗り、口を開きそうになった時、頭の片隅が異を唱えた。
――――死んで、それでどうする?
その声は自分の物だった。夢うつつにハリーは答える。
どうするもこうするもない。死ねばそれで終わりだ。
――――君は今まで、何を学んできたんだい?
また声が聞こえた。
ハリーは答えられない。今までしてきたことが全て無駄に思えて仕方がなかった。
――――折角今までいろいろしてきたんだ。なら、最後まであきらめることはないんじゃないか?
諦めている訳ではない。でも、もうどうにもできない。
あいつのことは僕が一番良く分かっている。もう無理だ。
――――そうかい。それならそれでいいけどね。ただ一つだけ訂正させてもらおうかな。人生は死んでもまだ続きがあるんだ。死ねば終わる物じゃない。君の場合は償いが待っている。楽しみだね、一体どんな苦痛なのか。
ハリーは信じなかった。死の先には何もない。死よりも惨いことなどない。
そう考え続けてきたハリーには信じられない。しかし、その言葉にハリーは死にたくないと思っていた。
まだ生きたい。死にたくない。目的などなかろうとも、ただ死にたくない。
ハリーは眼を開けた。顔を上げ、下卑た笑いを浮かべるヴォルデモートを見る。
震える腕に力を込め、起き上がった。
相変わらず、その眼に生気はない。生きることは諦めた。死ぬしかない。自分は生きられない。
でも、どうせ死ぬなら一矢報いてからでも遅くはないと思っていた。
目の前にいる男の野望を粉々に打ち砕いてから死ぬことにした。
死を先延ばしにする体の良い言い訳。言い訳で良い。縋り付けるのなら。
ハリーは杖をヴォルデモートに向ける。
それまで浮かんでいたヴォルデモートの笑いが凍りつく。
ゆっくりと。焦ったように。両者は呪文を唱えた。
「『アバダ・ケダブラ』」
二つの閃光が衝突し、火花を散らす。
拮抗し、ぶつかり合う。
一進一退の攻防は、いつしか繋がり合い区別がなくなった。
緑の閃光は金色の糸になった。杖が震え、主に知らせる。己の業を。
最初に老人。次に女性。
唐突に現れたその人たちを見て、ヴォルデモートは今夜最高の驚愕を見せた。
一方、ハリーには何が何だか分からなかった。
誰だあれは? ゴーストか? しかし、なぜ?
ハリーは自問する。その間にも手の中の振動は大きくなる。
いつの間にか、ハリーはそれを抑えることに全神経を集中させていた。
そして三人目の人物が現れた。ハリーは呆気に取られてその人を見る。
『ハリー』
赤い髪に、ハリーと同じ緑色の眼。
――――リリー・ポッター。ハリー・ポッターの母親。
13年前に死んだその人。ハリーは信じられないと首を振った。
リリーは悲しげな表情でハリーを見つめる。
『もう少し辛抱して。すぐにあの人が来るわ』
ハリーは、もうこの繋がりを切りたくて仕方がなかった。
しかし、ハリーの手に添えられたリリーの手がそれを許さない。
実体のないはずのその手は、ハリーが杖を手放すことも力を緩めることもさせなかった。
やがて、最後の人物が現れる。
ハリーと同じくしゃくしゃな髪に長身。瓜二つな外見の唯一の違いは瞳の色。
父親、ジェームズ・ポッターはハリーに語り掛けた。
『この繋がりを切ってしまうと、私たちは少しの間しか存在できない。しかし、君にはそれで十分なはずだ。その間にホグワーツへ。ダンブルドアの所へ行きなさい』
「どう、して……」
ハリーが言う。か細く、今にも泣きそうな声だった。
『正直、言いたいことはたくさんある。伝えたいことも。しかし、今は時間がない。だからこれだけを贈ろう』
ジェームズは言った。
『私は君を信じている』
ハリーの瞳から涙が零れる。
それを見せまいとして、ハリーは俯いた。
リリーが優しい表情でハリーの手を包み込んだ。
『私たちは、いつまでも見守っています。さあ、行きますよ』
ハリーはリリーの手ごと、杖を上に持ち上げる。金色の繋がりが消えた。
同時に、四つの影がヴォルデモートの元へ迫る。
ハリーは呼び寄せ呪文を唱え、優勝杯を掴んだ。
ヴォルデモートの絶叫、死喰い人達の呪詛。それら全てを置き去りにして、ハリーはその場から消えた。
帰ってきたとき、ハリーの鼻孔にはまたしても青臭い匂いが充満していた。
だから、もしかしたら移動が失敗したのかもしれないと危惧した。けれど、それは聞こえてきた大歓声に打ち消される。
うつ伏せから仰向けへと、ハリーは体勢を変えた。
空は満天の星空。視界の隅に映る党は紛れもなくホグワーツの物だ。
ハリーは帰ってきた。ホグワーツへと。
地面の振動から、何人かがハリーの元へ走ってくるのが分かった。
それを歓迎する元気もなく、ハリーは茫然と空を見上げる。
「ハリー! 何があったのじゃ?」
ダンブルドアがハリーを覗き込む。
その手がハリーの右手の傷を探った。
「ダンブルドア、何をそんなに慌てているのだね? そこに転がっている優勝杯を見れば何があったのかは一目瞭然だ。ハリーが優勝した!!」
ファッジの声がした。
視界には入っておらず、姿は見えない。ただそれらしき影がハリーを覆っていた。
「ハリー、儂が分かるかね? 喋れるかね?」
ダンブルドアの問いかけを聞きながら、ハリーは思った。
何か言わねばならないことがあった気がする。何かとても重要なことが。
ハリーは一度目を閉じた。
そしてダンブルドアの首元を掴み、口元へ引き寄せた。
「ヴォルデモートが復活しました」
一瞬、ダンブルドアの動きが止まる。
ハリーは右手の傷を見せてつづけた。
「あなたの勝ちだ、ダンブルドア」
青い瞳がハリーを覗く。
ハリーは首元を掴んでいた手を離した。
そして目を閉じ、眠る様に脱力する。
暗闇の向こうから見知った声が聞こえた。
「ダンブルドア、どうやらこの子は怪我をしている。表彰式の前に一度治療するべきだ。医務室にでも――――?」
「いや、コーネリウス。この子はこの場に居た方がよい――――」
「何を言っているんだ、ダンブルドア。見ろ、記者たちが大挙して押し寄せている。少なくともこの場から移さなければ――――」
「儂が連れて行こう。さあ、立てるかハリー。立てんのなら肩を貸そう、ほれ――――」
「ああ、マッドアイ。君が付いていてくれるのなら何の心配もない。そうだろうダンブルドア――――」
「…………待つのじゃ、ムーディ――――」
ピリピリと穿つような空気を感じる。
ハリーはそれに心の底から安堵し、本格的に意識を手放した。
周囲の騒ぎなど耳にも入らず、ハリーは暗闇の底へと沈んで行った。
数日たって、ハリーは第一の課題の日に暇をつぶした場所――――湖の畔の木立に座っていた。
暇があればハリーに話を聞こうとやってくる生徒に嫌気が差し、一人の時間を求めてこんなところにまでやってきていた。
課題が終わってからは、授業など無かったように朝から晩までここにいる。
ほとんどの教師が――――スネイプやマクゴナガルまでもが――――ハリーの欠席を見逃してくれているのは、既に全校中にあの日なにがあったのか、噂が飛び交っているからに他ならない。
ダンブルドアの言葉のおかげもあって、ほとんどの生徒がハリーを放っておいてくれるのだが、時には心無い生徒もいるもので、ハリーはそれら少数から逃れるために一日の大部分をこの場所で過ごし、その時間を心の整理に当てていた。
しかし、これだけの時間を費やしても、未だハリーは心の整理がつけられない。
おそらく、どれだけ長い時間を掛けてもつけられるものではないだろう。
ハリーは湖の真ん中で泳ぐ大イカを眺める。
気付けば空は既に赤く染まっていた。
今日も一日無駄にした。そう思いつつも、ハリーは立ち上がらない。
身体が空腹を訴えている。休息を欲している。
それら一切合切を無視し、徐々に暗くなる周囲を見習ってハリーは瞳を閉じる。
背後で、誰かが立ち上がる気配がした。
そのまま足音は遠ざかっていく。ハリーは振り返らずにその音を聞いていた。
音が聞こえなくなって、ようやくハリーは立ち上がる。
ホグワーツ城へと戻ることにした。
暗闇の中で輝くホグワーツ。
闇と光の狭間に居るハリーには、明るく輝くホグワーツ城と、そこに向かう一点の白が酷く眩しく見えた。