三途の川は緩やかに流れている。
深い霧と遥かな昔から変わらない優しいさざなみ。この世とあの世の狭間で流れていく緩やかな時間。
そこに船が一艘。
ぎこぎこと船頭が櫂(かい) を器用に操りながら進んでいく。意外にもその船頭は可愛らしい少女である。紅い髪を二つ結びにして、蒼い着物を着ている。ただ袖が短い、それは動きやすいようしているのだろう。そんな彼女は死神であった。今はただ、静かに死者をあの世に連れていく途中なのだ。最近は死神も忙しく、彼女の様な別の地域の彼岸の担当もこうやって応援に来なければならないほどに此岸は忙しい。
「それで、おまえさんはなんていうんだい?」
ぎこぎこ漕ぎながら死神が聞く。見れば船に男が一人。着流し姿でだらしなく座っている。体つきは細く、髪はざんばら。抱えた三味線を手で撫でながらうっすらと笑っている
彼は死神を見る。
きらりと光る眼光と穏やかな笑み。激しさと諧謔の入り混じった表情は彼の人生そのものだった。ただ、もはや昔のことである。
「僕の名前かい?」
「……僕? ああ、最近はやりのあれ」
死神はうんうんとゆっくり頷く。最近では「僕」という一人称が流行っているらしい。男もそれを使っているのだろうと思った。どうやら人間の世の中はかなり変わってきているらしい。そのせいで死神も忙しい。
とはいってもこの赤毛の少女は別に構わない。死者と話すことは彼女のやりがいでもある。男は船から手を伸ばして、川の水に触れる。冷たい。だから一応死神は注意する。
「ああ、だめだめ。落ちたら命は……ってもうないね。どちらにせよ船の上でゆっくりしているのが一番さ。そろそろ名前くらいおしえてくれてもいいんじゃないかい?」
男は手をぱっぱと振って水気を払い。少し考えてふっと笑う。
「春風」
短く答える。嘘はついていない。死神ははあ、と感心したような呆れたような顔をする。
「そりゃあまた、風流な名前だね」
「そうだろう。父母には迷惑を掛けっぱなしだったが、多くの物を貰った。名も気に入っているよ。それで姉さん。あんたの名前はなんていうのかな?」
「あたいかい? 小町っていうんだ。いい名前だろう?」
「いい名だ」
春風は静かに言って目を閉じる。小町は櫂を漕ぐ。ちゃぷちゃぷとゆったりと船は進んでいく。彼の生きた場所から離れていく。それが悲しいかどうかは彼にもわからない。ふと彼が「来た道」を振り向けば深い霧。その向こうに彼のいた「場所」はあるのだろうか。
船の残した波。水面に浮かんで消えていく。
そんな中で彼は三味線を鳴らす。
春風は船に合わせるかのように軽快な音を奏でる。聞いているだけで楽しくなって来るかのような音である。小町も「おっ」と嬉し気な声を出す。三途の川を三味線を奏でながら行くのも悪くはない。
どうせ急ぐことはない。現世とは違うのだ。
「お姉さん」
男は弦をはじき、聞く。うっすらと笑っている。小町は軽く返す。
「なんだい?」
春風はくすりとした。
「少し、聞いてくれ」
「ああ、聞いてあげよう」
小町は死者の話を聞くことが好きだった。この男が何をして生きてきたのか、それも知りたい気もする。春風は三味線を緩やかに弾きながら、まるで唄うように小町に語り始める。低い声、それでいて耳に心地よい芯の籠った声だった。
「僕は今日やっとここに来ることができたいつも思っていた場所だったが、中々行き方が分からなかった。そのくせ周りは先に行きやがるから、実に困った。勝手に仕事を放り出して眠っていく連中のことが恨めしくて仕方がなかった。仕方ないから僕が代わりにやることになったよ。」
「ああ、あの義助の馬鹿め。この入江の馬鹿め。何故ここにいない。ちくしょうめ。俊輔ののろまを見習え。そんな感じで悪態はどれだけついたことか。よく覚えてないくらいだ。いや、口に出す暇もなかったかもしれない。とにかく忙しかったなぁ」
春風はべべんと三味線を鳴らす。ただ喋っているだけのようでいて、何かの物語をしているようでもある。小町は口を挟まない。櫂を静かに動かしている。しかし、彼女に春風は問いかける。
「お姉さん」
「あいよ」
「この川は。三途の川はどれだけ昔から流れているんだろうか?」
「さぁね……あたいも分からないくらいずっと、ずっと昔じゃないか」
「この水はどこから流れてきているんだろう?」
「さぁね。ずっと、遠くからじゃないか」
春風は他愛のない疑問を口にしては微笑む。過行く時間をなんとなく楽しむかのように。彼はもう急ぐことはない。あれだけ急いでいたのだから、少しくらいは昼寝でもしているか、三味線でも弾いていたい気分だった。
ただ、少し気になることがある。
「お姉さん」
「はいはい」
「ここに子供のような人は来たかい?」
「子供? そりゃあ河原で石でも積んでいるんじゃない?」
「ちがう。子供の様なひとだよ」
小町は首を傾げた。要するに大人気ない人が来たかと聞かれているとすぐにわからなかった。冗談かと思ったが目の前の春風は三味線を弾く手を止め、少し真剣な表情をしている。彼女はふと空を見上げて思い出そうとするが、よくわからない。だから隠すことなくいう。
「悪いね。よくわからないよ」
「そうか。……その人の話を少ししてもいいだろうか」
「いいよ」
軽く許してくれた死神に苦笑しつつ、春風は何かを思い出すかのように眼を閉じる。そしてまた音を奏でる。
「その人は、まあ子供がそのまま大人になったような人だった。純粋で真っ直ぐでね。普通思っていても言わないことをすらりと言うから……ま、大変だったよ。そのくせ人のいいところを見つけるのがうまくてね。誰彼となく褒めるからそれも大変だった」
「だから、大勢がその人の周りに集まった。みんなその人が好きで堪らなかった。みんなの先生のくせにその人は、私は教えるなんてできない共に学ぼう。なんていうから、忘れることができないくらいにいろんなことを覚えてしまった」
「その人はある時から死にに行く道を歩き出した。不思議だった。分かる、ああこの人はいずれ死ぬだろうと。分かってしまったからと止めても止めきれない。誠実にあの人は死に向かって歩いて行った。その人はそのまま先に行ってしまったよ」
春風はさざなみの音に耳を澄ませる。船の周りには白い霧が浮かんでいる。
「……この船が向こう岸についたら、あの人は待ってくれているだろうか? 僕はあの人に話すことはあるだろうか?」
彼は小町を見る。この死神の少女はちょっと瞬きをしてから、にやっと笑う。
「あたいはね。こうして送ることを永い事続けてきたさ。だから今までいろんなやつの話を聞くことができたから言うけど、あんたは大丈夫なんじゃいかい? なーに死んでからも永いんだから、ゆっくりしていきな。こっから先は気張ることはないよ」
「てきとうなことだなぁ」
「仕方ないさ。あたいの性分だから」
けらけらと小町は笑う。つられて春風もくっくと苦笑する。彼はしばらくしてから笑いをおさめてからすうと息を吸う。冷たい空気が肺に流れ込んでくる。そして彼は「あの世」の空気を吸っていることに気が付いてから皮肉の様でもう一度くっと噴き出した。
春風は頭を掻きながら、彼は目の前に広がる霧を見つめる。
船は静かに進んでいく。急ぐことはなく、止まることもない。
振り向けば「居た世界」。前には「行く世界」。死だとか生だとかは、実際に死んでみれば大したことはないのかもしれない。そう春風は思う。少なくとも死神と他愛のない会話をするくらいは「死」も楽しめる。
「すみなすものは……か」
彼はこれからどこに向かうとしても、もうどうでもよかった。
「おもしろいのう」
そう、どこからか流れてきた風に言葉を載せる。
船はぎこぎこと進んでいく。二度と彼は戻らない。