視界がぐらりと揺れた。
あれ、疲れているのかな?と目を瞬かせ擦る。
何度か同じ動作を繰り返すとクリアな視界に切り替わった。視線の先で主従は相変わらず通常運行。店内も久方振りに開いたことで、店主の同類達がいつもより多い以外はなんの変わりもない。
それにしても体がだるい。
十日間も休みをもらっておいて疲労が残っているとは流石に言えず、虚脱感の酷い体に鞭打って積み上げられた本の山に手を伸ばし―――暗転。
「…インフルエンザ…だと」
『す、すみません…』
「熱は?」
『さっき…計ったとき、は…39度ほど…』
受話器を置くと、古めかしい電話機が軽い音を立てて通話を切る。
視線を寄越した従者に、ため息をつきながら視線を返す。
「ムーディは…インフルエンザなのですか…」
「そのようだね、私も一応確認したほうがいいのかしら」
「彼は?」
「気にせず休むようにいっているわ…戻ってきて移っても困るから無理言って入院してもらってる。流石にそこまで鬼畜にはなれないでしょう?」
「…店はどうなさいますか」
「……」
店主シェスカ・ランブールは、沈黙にたっぷり時間をかけた。
貸本屋、仕事をする
翌朝、貸本屋「百万図書」を訪れた常連達から悲鳴が上がった。
「うわあああ!店主が、店主があああああ!」
「仕事をしている…だと!?嘘だ!」
「明日人類は滅びるのだろうか…ああ、あの預言書は本当だったんだ…」
入り口でがくがくと震える男達は、古典的に頬をつねるものもいれば、ありえなさに目を見開くもの、この店で借りた胡散臭い預言書を手に取ったものもいる。
店主はそれらに冷たい一瞥をくれると、無視して手に取った書類の束を机に叩いて整えた。
あの、店主が書類を握っている。
あるひとりの勇者が喉を鳴らし恐る恐る進入を試みる。きょろきょろと店内を見渡し、相変わらずこの世すべての男の敵である、絶世の美男子と目が合う。
「……ムーディは?」
「インフルエンザで入院だ」
「謎は…すべて解けたぁ!」
「帰れ」
その台詞はまるでどこぞの少年探偵のようで。高らかに握りこぶしを掲げた勇者は、店主の絶対零度の声音に腰から崩れ落ちた。
「あー…鉄腕アルバイターが休みじゃねぇ」
「店営業できないんじゃないの?」
「いや、十日間も休みだったんだぞ?また店休とか流石に無理だろ」
「だからあのナマケモノが働いている…ように見えるが…働いているのか?俺はまだにわかには信じがたいのだが…」
常では自分以外を無視して本を選び読みふける常連書痴たちは、このとき妙な結束感をもった。それだけの衝撃だったのだが、真相がわかった今は、慌てず騒がず店内を観察する。
店主は先程から書類整理をしているように見えるが、一向に立ち上がったり、書籍の整理などをする気配はない。
「いや…書類整理でもするだけ働いてるだろ、シェスカの場合は」
シェスカ・ランブール。いかなるときでも座して読む、が常のまさしくお飾り店主である彼女が、本か食器以外を持っているところを、彼等はもう何年も常連を続けているが見たことがない。どんだけなの。仕事しろ。
「これを機に、アルバイターのありがたみを覚えることだな」
「ありがたいとは言われなくても思ってるよ、口に出さないだけで」
「出したげてよぉ!」
「気持ち悪いから帰れ」
「この常連中の常連、貴様がまだ十代の頃からの付き合いであるこの俺に…!」
「信徒の癖に異端の神信仰してみたり、黒魔術とかシャーマニズムフェチの君の欲求を叶えられる本屋が他所にあるなら好きにするといい」
「ごめんなさぃぃぃぃ!」
ディルムッドは、常連客と主人が戯れているのを視界に入れながら、ムーディの通常業務を少しでも肩代わりするようにせっせと働いた。基本的に真面目な性格なのである。
ビスケットを帰したのは痛手だったなと頭の片隅で考えながら、サーヴァントの膂力で大量の書籍の詰まったダンボールを軽々と持ち上げる。
常連客が今回借りていく古書の前作の素晴らしさを店主に語りだすと、それに店主が食いついた。どうやらシェスカもいたくお気に召したものだったらしい。
ネットワークを開拓せず、むしろ閉ざした彼女には、店に来た人間としか語らえない。最近はどこぞの黒い男が、自宅か、と思いたくなるほど寛いでいたので、久しぶりの語りとなることは容易に把握できた。
できることならば茶のひとつでも淹れて、存分に語り合ってもらいたいところだが、残念ながらそうもいかない。
「シェスカ様…」
「…あー…わかってる」
気まずそうに視線を泳がせると、常連客に断りをいれる。常連も、残念そうにしながらも今日はこの店一番の働き手がいないことを理解しているのか、貸し出して続きを終えるとそうそうに店をあとにした。
「申し訳ありません」
「君は悪くないじゃないか」
三日後、インフルエンザを完治させたムーディが帰ってくると、シェスカは手に持っていた書類の束を宙に放り投げ、無表情で鉄腕アルバイターを抱きしめた。
唖然としながらも「おっぱい大きいやわらかい」と思ったり。
それになんとなく気付いた従者の視線に失禁しそうになったり。
やっぱり大量に溜まっていた仕事に魂が抜けかけたり。
そうそうに自室に引っ込んで本を貪りはじめた店主に「帰ったんだー」と、溜まった仕事をみながらもほっこりしたり、したのだった。