第一話 「水の中で」
ーー水の音色ーー
とても不思議な感覚だった。
ふわふわしたような、面白い感覚。
まるで鳥にでもなったのか、とっても体が軽い。ううん。軽いっていうよりも、水の中で泳いでいる感じかな。
ずっと閉じていた瞼を開けても、入り込んでくる光は全くなかった。少しも、ちっとも。
怖いーーーと思った。
いつもならそばにいるお母さんも、ここにはいないから、僕は少しだけ怖くなってしまった。
と、その時、光が差し込んだ。
窓の隙間からだとか、カーテンを通り越してだとかの光ではなくて、僕がいま"浸っている"硝子の筒の表面全体から入り込んでくる光。前から後ろから、そして横から。
久しぶりの光は、ちょっとだけ僕には眩し過ぎた。思わず顔を顰めてしまう。硝子越しから見える光は、とても不思議な色だった。
がたん、と突然硝子の筒が揺れる。
何かと思って上を見ると、硝子の筒の中を満たしていた水が、徐々に下へと下がってきていた。底に視線を動かすと、水をゴウゴウと吸い込む穴が出現していた。どうやら遂に、この水の中から解放されるみたいだった。
水は数秒で顎まで下がり、そして胸の辺りまできた。
僕は口に装着されていた呼吸器を取ると、めいいっぱいの深呼吸をする。口にふんだんに入ってきた空気は、あまり美味しくはなかった。なんていうか、水だった。
やっとこさ水が全て吸い込まれ、硝子の中は空っぽになる。
どうにかして外に出られないかな? ここは窮屈で嫌だよ。
と。思っていたその時、タイミング良く硝子の筒が上へスライドしていき、僕は硝子の牢屋から解放された。案外あっさり叶ったな、と僕は笑った。
「……誰かが泣いてる」
微かだったけど、確かにそれは泣き声だった。
僕はふらつく足を動かして、その泣き声が聞こえる方に向かった。
ドキドキと胸が鳴っている。なんでだろうか。前にもこんなことがあった気がするな。
ひたひたと部屋を出て廊下を進み、声を探す。
あっちやこっちを歩きまわり、そしてようやく泣き声がする部屋の前に辿り着いた。
古びたドアだった。
この家自体が、どこか一昔前の西洋の家のようである。
ゆっくりとドアノブを握り、そして回した僕は、ギイと鳴ったドアの軋みにドキドキとしながら、部屋の中を覗き込んだ。そして、泣いてる女の人を見つけた。
「……重吾?」
ぴたーーー女の人が僕を見て泣き止む。
ドアを閉めた僕は、静かに女の人に近付いて、こう言った。
「大丈夫? "お母さん"」
かちり。
なんだか懐かしいスイッチの音が、どこからか聞こえた。
◆◆
ーー親子の絆ーー
ポタポタと、ポタポタとーーー。
昨日から流れ出した涙が、まだ止まっていなかった。
拭いたって拭いきれない。私はいつしか眠っていたけど、涙は枯れちゃいなかった。
部屋は散らかっていて、まるでボロ屋敷のよう。
立てていた写真立ても床に転がっている。
昨日、散々暴れてしまったから、めちゃくちゃだ。
嗚咽がまだ止まっていなくて、少しでも動くと肩が揺れた。それに涙も出て、気力という気力がどんどんと無くなっていく。
私はこの涙を止める方法がわからない。思いつくのはとっても得意でも、こういうことに疎いから、たまに自分が分からなくなるんだ。
ギイーーーとドアの開く音が聞こえた。
突然鳴ったそれに、私は少しだけ震えた。
ぺた、ぺた、ぺた。
それはとても小さくて、とても聞き慣れた足音。
部屋の中に入ってきたのは、一体誰なの?
顔を上げた私の目に映ったのは、不安そうな少年の顔だった。優しげな瞳に、私と同じ赤茶色の髪色をしている。
「……重吾?」
「大丈夫?お母さん」
重吾と呼んだその子は、水に濡れた後のようにずぶ濡れで、思わず笑ってしまった。
「酷い格好じゃないか」
「いいよ、そんなの。ーーー泣いてたんでしょ?」
再びの問答に、何も言えなくなった。
だから私はーーー篠ノ之束は笑った。「そうだよ」
「なにかあったの? どこか痛い?」
「へーき。へーきだってば、重吾」
「でもさ……」
大丈夫と言っても引き下がってくれないのは、頑固じゃなくて優しさだ。この子は、自分とは全く違う人間に成長してくれている。
頬をかいた束は、困ったなと口を結んだ。
重吾はこちらをジッと覗き込んでいる。
んーと少しだけ束だったが、すぐにメイアンを思い付き、湿った重吾の髪をわしゃわしゃと撫でた。
「そう言えば秘密にしてたことがあった!」
「もう、お母さん」
重吾が怒ったような顔をする。だけど無駄だよ。私はお前の母親なんだから、なんでも見通しさ。
「え〜! いいの重吾〜? すっごいカッコいいことを教えてあげるつもりなのにな〜」
「えっ!? カッコいいこと!!?」
途端、重吾が目を輝かせ始める。その姿、まさしく子どものそれである。
にしし、と笑った束は、そして口を開いた。
重吾は礼儀正しく正座をして、興奮しきった様子でどんな話を聞かせてくれるのだろうとワクワクしていた。
「うんうん。お行儀よく待てて良い子だ。ご褒美にほら。これを重吾にあげちゃう!」
胸のうちから取り出したのは指輪。
窓から差し込む光に反射して、綺麗に輝いている。
「うわあ! 凄い!」
指輪は手渡すと、重吾はその場で飛び跳ねそうな勢いで喜んだ。思わずこちらまでニヤけてしまうほどの歓喜っぷりだ。束は重吾の姿を見ながら、微笑ましい気持ちになった。
重吾は恭しい手付きで指輪を指にはめる。キラキラと光るそれを、本当に嬉しそうに眺めている。
うんうん。立ち上がった束は、散らかった机の上から一冊の冊子を取り上げ、そして再び重吾の前に戻った。重吾はまだ、嬉しそうに指輪を眺めている。
「あとこれも」
言い、冊子を差し出す。
指輪を眺めるのを一旦やめた重吾は、差し出されたその冊子を訝しむように手に取った。
「……僕、学校に行くの?」
呟いた重吾の言葉に、そうだよと頷く。
重吾に渡した冊子。それはIS学園のパンフレットだった。
そう、重吾を学校へと行かせたいんだ。歳だってもう15歳と丁度いいし、そろそろ"外界"との接触もさせてあげたい。
「嫌かい?」
「ううん!」
そう言うと思ってたよ。嬉しそうな顔をするな、重吾は。
束は頷き、重吾の頭をまた撫でた。
くすぐったそうに肩をすくめた重吾は、えへへと笑ってパンフレットを大事そうに抱き締める。束はそれに少しだけ、複雑な気持ちになった。
「じゃあ、準備しなきゃね!」
立ち上がり、心躍る少年は部屋を飛び出していく。
呼び止める間も無く、束は苦笑いした。
「もう、誰に似ちゃったんだろうね……」
さてとーーーー
スカートの埃を手で払い、束は立ち上がる。
息子と喋った所為か、悲しい気持ちなんていつの間にかどこかに飛んでいっていた。あーあ、目が痛いや。束は真っ赤になった目尻を撫でながら、近くの棚に目を動かした。
棚の上には、裏向きに倒れた写真立てがある。枠縁が綺麗な赤色で染色された写真立てが、静かに存在している。
束はそれを少しの間だけ眺め、そして手を伸ばした。枠縁をそっと掴んで力を込め、おそるおそる倒れている写真立てを起き上がらせた。
光に反射した写真立てには、一枚の写真が納められている。笑った青年の姿。それが納められている。
束は、その写真立てを持ち上げ、抱き締めた。
胸にこみ上げてくるのは「熱」のような温かさだった。
「準備してきたよ!」
再び部屋に戻ってきた重吾に気付かれないよう、束は反射的に写真立てを後ろに隠した。
「IS学園かぁ、どんなところなんだろうな〜? 楽しみだな〜。友達何人いっぱいできるかなぁ?」
「重吾なら100人できるよ」
重吾が視線を逸らしているうちに、隠していた写真立てを棚と壁の間に落とす。カタン、と音が鳴る。重吾がそれに、ピタリと動きを止めた。
束は少しだけ焦ったが、重吾が頭を傾げただけで、何も追及してこなかったので安堵する。
視線を少しだけ動かして写真立てを伺うと、重吾からは決して見えない位置に上手く落下してくれていた。
「……うん。じゃあ行こっか」
はしゃぐ我が子の手を握り、うっすらと微笑む。
ぎゅっと握り返してきた重吾も、楽しそうに笑う。
頷き、束は部屋を出た。後ろから、重吾が荷物の詰まったキャリーバッグを引いてついてくる。ふふ、と思わず笑ってしまった。あまりにも重吾の顔が楽しそうだったから、母親としては堪らなく可愛いのだ。
束はガラガラと鳴るキャリーバッグの音に耳を傾けながら、そしてIS学園までの道のりを思い出した。
続く