──千冬──
一日の半分が過ぎた頃の篠ノ之家。
ざわざわと少しだけ騒がしい家の中では、一際一夏がそわそわと廊下を徘徊していた。
箒や栞おばさん。そして束一家もそれぞれ落ち着かない様子でいるが、一夏のは少し見ていて慌ただしいものだった。
今日、なんと久方ぶりに千冬が帰省するのだ。だから一夏も篠ノ之家の面々も、今日は少し緊張気味なのである。
織斑千冬といえば、ブリュンヒルデの称号を持つ女。まずはじめにくるイメージといえば、そんな肩書きからだろう。
世の女性に彼女を知らない者は存在しないほど、織斑千冬は世界の女性の憧れであり、理想なのだ。インフィニット・ストラトスという女性専用の兵器が誕生し、男女の立場が逆転したこの世界では、それが極端に表れている。
もちろん、彼女は強い女性だ。
弟の一夏はそれを知っているし、昔から付き合いのあった箒達もそれを理解している。けれど昔からの付き合いの仲だからこそ、織斑千冬という人間が強さだけで出来ている訳でないことをわかっていた。
だから、この場にいる皆が、織斑千冬の登場を今か今かと待っている。かのブリュンヒルデを最初に迎え入れる言葉は一体何にしよう? 彼女はきっと疲れているだろうから、休ませてあげたいな───。
優しさ、興味。様々な感情を抱えながら待ち人を待つのも、また一興かもしれない。
なんてことを考えながら時計の音に耳を傾けていると、何やら外の方から車のエンジン音が聞こえてきた。それに、さらなる騒めきが呼び込まれた。
「来た! 来たよ、おばさん!」
一足先に駆けた一夏は、勢いよく家を出た。
外にはやはり車が止まっている。
黒で塗装されたその車から、一人の女性が降りてきた。一夏はそれを見た途端に顔を破顔させ、女性に寄った。
「お帰り、千冬姉!」
「ああ、ただいま……一夏」
言って片手を上げた織斑千冬は、懐かしむように一夏に微笑んだあと、家から出てきた栞おばさんに軽く会釈した。
2
家に入った千冬は、まず深く息を吐いた。
その様子から疲れていることが伺えた。
一夏は千冬の持っていた鞄を受け取り、意外な重さに小さく声を零した。ずっしりとしたその重量から、千冬の仕事の忙しさが伝わってくる。
箒も玄関先で千冬を迎えていた。彼女はこれから夕食の準備に取り掛かるらしく、割烹着を身に纏っての出迎えだった。
「箒よ、一夏が世話になっているな」
久しぶりに会う箒に、千冬は微笑んだ。
褒められた箒は、恥ずかしそうに肩をすくめさせている。
「千冬さんもお変わりなく」
「馬鹿を言うな。二歳は老けたさ」
言って箒の肩をポンと叩いた千冬は、次いで彼女の隣に立っていた束を見遣った。その時、一夏は千冬の束を見る目に違和感を感じたが、初めて見るその瞳の色に戸惑って、上手く表現ができなかった。
千冬はサッと目を反らす。まるで気まずさがあるように、束から視線を退かして早々と居間の中に入っていった。
束が溜息をつく。
一連の光景を見ていた一夏は、よく分からぬ二人の仲に少しだけモヤモヤとし、千冬に続いて居間に足を踏み入れた束の背中を最後まで目で追った。
そんなに、仲悪かったか?
一夏は疑問を抱えたまま、居間に入った。
昔の記憶を掘り起こしてみても、束と千冬が不仲になったことなど無い。小さな小競り合いはあったものの、千冬にしては珍しく、束は「友達」としての位置にいた。
「ボーッとしているなよ? 一夏。腕によりをかけるのだ。お前にも当然手伝ってもらうからな」
準備は万端といった感じの箒に意識を引き戻され、一夏は中身の無い、すっからかんな返事を返した。「ああ」
箒が一瞬、怪訝な顔をする。
一夏はまずいと思い、慌てて料理の支度を始めた。いけない、いけない。箒を怒らせたら後が怖いぞ。
食器棚の横に取り付けてあるハンガー。そこに掛けてあるエプロンを取って身に付ける一夏。首から被り、腰の紐を巻いて括りながら、彼は居間の机を挟んで座る千冬と束の姿を覗いた。
物々しい沈黙の中に──二人はいた。
語ることもなく、触れることもない様子である。
箒から指示されることをこなしながらも、そちらの様子が気になって仕方が無い一夏は、料理のことが上手く集中できなかった。駄目だ。箒に怒られてしまう。そう言い聞かせても手付かずで、一夏は下唇を噛んだ。どうしたら……。
悶々とする一夏は、チラリと箒を見遣った。彼女は一夏の視線に気がつくと、無言で首を横に振った。ううむ、と唸る。箒から駄目との指示が出てしまった。
溜息をついた一夏は、大人しく手元の大根を分断した。料理を本格的に始めた。箒の方は既に一品目の料理を仕上げている。こちらも急がなくては追いつけない。
ようやく忙しなく料理を始めた一夏。
偶に千冬と束に視線を移すも、彼の意識は完全に料理に置かれていた。職人の域である。
「……」
けど、やっぱり気になることは気になる。
一夏は一区切りついたことをチャンスに、再び視線を二人に移した。隣の箒はそれを呆れ顔で見つめていた。
台所と居間は、長いカウンターによって仕切られている。だから居間の様子をもっと正確に見るためには、そのカウンターに腹を乗せて覗き込まなければならない。出来上がった皿を並べるのが目的のカウンターだが、今はその便利性が憎たらしい。
どうにかしたいな。一夏はキョロキョロと辺りを見渡した。一瞬だけ呆れた顔の箒と視線が合ったが、見て見ぬフリをした。カウンターは一夏の胸の辺りまであるので、飛び越えるのは至難の技だろう。かといって無理にそれをすれば、この場にいる全員に無様な姿を見せることになる。ん? そういえば重吾と栞おばさんはどこに行ったんだ?
確かに居間にいた筈の二人は、いつの間にか居なくなっていた。どこにも姿が見当たらない。また珍しい組合が消えたな。一夏は少し考え込んだあと、いまだ呆れ顔の箒に目を向けた。
「なあ、おばさんと重吾、どこ行ったんだ?」
箒はそれに首を傾げた。
どうやら彼女も行方を知らないらしく、一夏はますます眉を顰めた。いったいどこにいったのだろう。
その時、火にかけていたヤカンが金切り声を上げた。水が沸騰したよとのサインを一夏の耳に届かせた。
一夏は火を止め、ヤカンの中の水を茶瓶の中に流し込む。茶の葉に熱湯が染み込み、特有の仄かな香りを漂わせる。少し熱かったかもしれない。茶瓶の表面が、ほんのりと温かさを有していた。
何だか気が抜けてしまった。重吾と栞おばさんのことは、あとで戻ってきた時に聞けばいいかもしれないな。
さて──エプロンを脱ぎ、元のハンガーに戻した一夏は、丁度居間の全てが見渡せる位置に移動した。壁に背中を預け、腕を組んで観察を始める。千冬と束は相変わらずの厳粛の中にいた。いったい二人はいつまでその状態を長引かせるつもりなのだろうか。
時計を見ると、時刻は夕食にはまだ早いといった頃だった。
一夏は込み上げた睡魔に欠伸を漏らし、千冬と束の観察を続ける。
「すまない一夏。私は母さん達を呼んでくるから、少し一人で居ててくれ」
「おう、そうか」
微笑み、一夏は彼女を見送った。そして、さてと視線を元の位置に戻した。
いくら時が経過しても、二人の様子は一向に変わらない。居間を支配しているのはひっそりとした静けさと、出来上がった夕食の美味しそうな香りだけ。
うう、何だかお腹が空いてきた。今日の料理には我ながらの本気を出したから、早く食べてみたい。じゅるりと唾液を飲んだ一夏は、もう一度時計を見遣り、夕食時になるのを待ち遠しく思った。
すると、そんな一夏の空腹が感染してか──ぐうう、と音が鳴った。一夏の腹では無い、誰かの腹から。
むむ、と口を曲げた一夏は目を細める。誰だ、誰が鳴らした。猛禽のイメージをしながら、ここにいる自分以外の女性を注意深く観察する。女性に対して失礼なことだが、この静かな世界を壊すにはいいキッカケだと思った。
まったく変な動きを見せない千冬と束。けれども二人のどちらかの腹の虫が暴れたの確かだ。表情の変化が無いから分からないが、このどちらかに犯人が存在する筈だ。
と。そんなごっこ遊びを暇潰しにしていると、ようやく姉の千冬が口を開け、声を発した。どこか恥ずかしそうな声色で、静かに。
「……腹が……空いたな」
その言葉に、口元がにやけた一夏。
彼はすぐさま「箒!」と呼び声を上げると、ウエイトレスのように出来上がった夕食を机の上に並べ始め、満面の笑みを織斑千冬に向けたのだった。
◆
食事が終わり、後片づけは箒に任された。
家事は女の役目──という考えは、一夏の嫌いな考えのひとつだが、彼女はそういった類の風習が好きなので、別に手伝ったりはしない。それに箒のほうが、片付け方が手慣れている。
一夏はテキパキと作業をこなす箒を見、そしてまったく動かない千冬と束のコンビをジロリと見遣った。食事は女の役目──という考えは嫌いだ。嫌いだが、ここまで動かない女の人の姿を見ると、思うこともある。一夏ははぁと溜息を吐いた。食事後の机を吹く栞おばさんは、そんな一夏を見て苦笑していた。
「たまには動いてくださいよ……」
「食べ過ぎた。動けん」
「お腹いっぱぁ〜い」
熱々のお茶を啜る千冬。
ぐでん、と畳に体を投げ出す束。
なんとだらしない姿。なんと情け無い大人達。
一夏は限界まで募った「呆れ」に頭を抱える。
そんな一夏に、お風呂から戻ってきた井伊月重吾が、
「ぐっじょぶだぜい!」
と、満面の笑みと共にサムズアップをしてきた。
が。それを無視をした一夏は、暇潰しにテレビを点けた。今日は何をやっていたっけな。番組の予定が載っている新聞紙を眺めながら、リモコンのボタンを押す。次々に変わっていくテレビの映像に、一夏は目を細めた。
「うえ〜。無視されたよ〜」
「押しが足りんのだよ。押しが」
向こうでは、千冬による重吾の反省会が行われていた。
「今日は特に何も無いようだな」
「んー……みたいだ」
皿洗いを終えた箒が、一夏の側に座る。次いで栞おばさんが、箒の隣に座った。合計で六人の大人数が、ひとつの家の居間に集まった。少しだけ窮屈である。
見たいテレビも無かったので、適当なチャンネルに切り替えた一夏は、新聞紙をたたんで机に向かった。目の前に、栞おばさんの注いでくれたお茶がある。それを手に取って飲み、ほうと息を吐いた。
「楯無さんは元気?」
「ああ、上々だよ」
ふと耳に入った人の名前。それには聞き覚えがあった。
重吾はいつもの鍛錬の際に側にいる。その時、何気無い会話をしていた中で、その「楯無」という名前を聞いた。確か、IS学園の生徒会長をしている人だとか。
「どんな人なんだ?」
二人の会話に加わった一夏。
「とっても綺麗な人だよ」
相変わらずの満面の笑みである。
はは、と笑った一夏は手元のお茶を飲んだ。
「それだけじゃ分かんねえよ」
「えっとね……えーっとねぇ」
伝えたいことは、何となくはわかる。きっと彼は、その楯無という人についての魅力を語りたいのだろう。
けれど重吾の場合、それが顕著に現れ過ぎている。伝えたいことを言葉にする為、必死になるばかり、それができなくなっている。
子どもみたいだな──別に悪意はない。然りと思っただけだ。彼のその必死で純粋な姿に、懐かしいと感じただけだ。
彼は多分、どんな人とも友達になれる。織斑一夏は尚も懸命に説明をしようとしてくれている重吾の姿に、唐突にそんな考えを浮かばせた。
「──分かった分かった。とにかく、凄い人なんだよな? その楯無さんって女の人はさ」
嘘だ。正直理解はしていない。ただ彼の必死な様から、その楯無という人物の像を勝手に汲み取っただけだ。
けれど重吾にはそれだけで十分だったのだろう。
腕を組んでウンウンと頷いた井伊月重吾は、「流石は一夏くんだぜ」とても嬉しそうな顔をした。幸せそうに。彼女のことを尊敬するように。
だから一夏は少しだけ羨ましいと思った。尊敬できるような人がいることが──誇れるような人がいることが──あまりにも嬉しそうな彼のその姿が、ほんのちょっぴりだけ羨ましいと思った。
一夏は茶を啜った。ぼうとした。
湯呑みの茶は既に飲み干していた。けれど構わず傾けた。というよりも口元を隠す為に、湯呑みのふちを押し付けた。
自分でも分かる。いま自分は、悔しがっている。彼に対して羨望してしまったから、口元が歪んでしまっている。だから口を隠さなくてはならない。
一夏は湯呑みを掴む手に、自然と力が入っていたことにそこで気が付いた。いけないな、と思う。口元をなるべく平常になるよう緩ませ、そして湯呑みをどかせた一夏は、そこでようやく笑ってみせた。戯けたように、楽しむように。
「そっか。よかったな」
きっと重吾以外に、この作り笑いはバレているんだろう。この無理をした笑いを、見透かされているんだろう。
けれど良いのだ。笑わなければ、彼が悲しむ。
彼を──井伊月重吾を悲しませたくない。
一夏はそう思ったから、たとえ作り笑いになろうとも、表情を形作ったのだった。
続く