──泣き虫と弱虫──
手をついて頭を下げ、私は深く息をした。
ずいぶんと長い間──時を忘れていたみたい。
冷んやりとした指先はまるで氷のよう。感じる重圧がとても重たくて、息をするのが厄介だ。
たまらず顔を上げた楯無の視界に入る、年老いた男。──彼は父だ。
「解っているのか、刀奈よ」
その名で呼ばないで──。
腕を組み、娘を見下ろす更識玄郎は、冷たい声でそう言った。頷き、再び深く頭を下げた楯無は、不快感にも似た感覚を覚える。
「楯無の名はお前のものだ。ならばその使命、果たすことが当然のことであろう」
ひとつひとつが冷たく、そして重い。
楯無は父に向かって、ただ頭を下げるしかなかった。
「何にうつつを抜かしているのかは知らぬ。だが、課せられたものを忘れるほど、お前はそれに執着しているのか?」
執着。その言葉、胸に響くものだ。
彼のことを思い出した。朗らかに笑う彼の顔を、楯無は思い出した。──同時に、彼によく似た少年のことも、思い出してしまった。
「……お前のその指輪が原因か?」
ハッとした。楯無は、直ぐに指輪に手を重ねた。
父がこちらに歩んでくる。きっとこの指輪を剥ごうと目論んでいるのだ。
楯無は激しくなっていく鼓動に目を見開き、すがるように指輪に意識を集中した。父の足音が次第に近付いてくる。嫌だ、取らないで。この指輪は私の大切な物なの。胸の内の叫びは決して父には届かない。加速していく鼓動ばかりが、耳元で叫んでいる。
グッと手首を掴まれ、強引に体を起こされる。
小さな悲鳴が、口元から思わず零れた。
顔を上げると、父と視線が合う。父の無言の視線は、確実に指輪を捉えていた。
楯無はそんな父の圧に負け、指輪をはめた指を差し出した。怖かったから、震える手を差し出した。
父の玄郎は、そんな娘の姿を見つめ──そしてついに指輪を掴み、力を込めた。
嫌だ──! 張り裂けそうな思いが、口から飛び出しそうになった。けれど怖かった。それを躊躇った。大切な彼の指輪がゆっくりと引き抜かれていくさまを、「泣き虫」の私は泣きそうになりながら見つめた。
「──や、やめて……!」
けれどそれを、突然そのか弱い声が止めてくれた。
動きを止めた玄郎と楯無は、声がした方を向いた。そして見た。その今にも泣き出しそうな少女の姿を、妹の更識簪の震える姿を瞳に捉えた。
「それ……お姉ちゃんの、大切な指輪……。だから、取らないで……お父さん……」
震えた声だ。きっと懸命の勇気を出しているのだ。
彼女は──更識簪は、姉の窮地を必死で救った。
彼女はもとよりそんな性格はしていない。楯無と玄郎の間に割って入ってきたことなど、一度も無かった。ましてや姉の為の──楯無の為の勇気など、一度も垣間見せたりはしなかった。それほど彼女は弱く、影だった。なのに、
「……向こうへ行ってなさい」
「い、嫌……っ!!」
彼女は勇敢だった。怖いはずの父に向かって、震えながら立ち向かっている。
それを見、楯無は胸に熱が生まれるのを感じた。熱い熱い、火傷しそうな熱だ。
歯を食い縛り、ぎゅっと瞼を閉じる。このままでいいのかと自分に言い聞かせ、心を律していく。
私は更識楯無だ。そして、簪の姉だ。
彼女が産まれた時、決めたことがある。
全ての厄は、私が引き受ける。そしてこの命を、お母様の代わりに守ってみせる──。
手はまだ震えていた。父への恐怖が無くなった訳ではない。けれど覚悟を決めていた。言葉を紡ぐ覚悟を、歯向かうことへの覚悟を決めていた。
「私の言うことが聞けないのかッ!!」
「ひっ……!?」
喰い下がらない簪に対し、ついに声を荒げた玄郎。
それに楯無は目を見開き、錆び付いた口を開いた。
「やめなさい! 更識玄郎ッ! 楯無の名を継ぐ我が妹に対し、何たる蛮行か! お役御免の老人は、大人しく報告を待っていることが常だった筈──過度の手入れは、良からぬ祟りを招くと知りなさいッ!」
凛──とした声。
玄郎に言葉を叩きつけた「更識楯無」は、掴まれていた手を振り払い、唖然とする簪の元に歩む。そして背中を軽く押して共に歩き、無言で佇む玄郎の横を通り過ぎた。──玄郎は部屋を出て行くその最後まで、何も言ってはこなかった。
2
心臓が痛い。
熱に体が犯されていく。
言ってしまった──言ってしまった。
父に、初めて歯向かってしまった。
「……くだらぬことだと分かっているけど」
胸を押さえつけながら、吐血するように零す。
楯無は未だ止まない父の重圧に顔を歪め、屋敷を支える柱に手を付いた。
隣にいる簪は、困ったように手を彷徨わせていた。姉が心配という気持ちと、助けた方がいいのか? という気持ちがどっちつかずになっているようだった。
「だ、だいじょう……ぶ?」
その言葉は聞こえなかった。耳に何かが詰まっているみたいに、風の音すら伝わってこない。
「なぜ……」
──父は、何も言わなかった。
楯無は震えた。
毅然だった態度など、すでに無い。
彼にどんな思惑があったのか、それは分かっている。彼は私に仕事をさせたいのだ。あの老人は、長く続く代々の家業をおろそかにさせたくない──そう思っているから、手を上げてきたのだ。
楯無は玄郎の娘だ。
玄郎は楯無の父だ。
親が子に手を上げる。それは、すでに無くなってしまった躾のやり方だ。暴力だ。けれど、間違いではない。
「お母様……」
今は亡き、母を思い出した。
母は優しかった。何とも言い難い、暖かさを持っていた。だからどうしても比較してしまう。あの父と、母の愛を──。
柱から手を退かした楯無は、佇む簪を見た。
簪は母によく似ている。容姿は親子なので当たり前だが、何より身に纏う雰囲気が同じなのだ。
きっと彼女は優しく育つ。現に、とても優しい。
まさかあの状況を救ってくれるの人間が、彼女だとは思わなかった。嫌われていたと思い込んでいたから尚更だ。
楯無は簪の肩に手を乗せ、そして抱き寄せた。
「わわ」と彼女は突然の抱擁に驚く。けれど嫌がる素振りは決して見せない。むしろ待っていたかのように、それを静かに受け入れた。
「無茶なことして……ほんとに……」
「でも……酷いこと、されてたんだよ?」
その言葉に思わず涙が込み上げる。
楯無は簪の優しさに、本当に縋りそうになった。
「ごめんなさいね。駄目なお姉ちゃんで……」
いつも気丈であろうとした。
彼女を幸せにする為に、家業を全て引き継いだ。
その結果、私はこの子に嫌われた。
才を持つ姉と──それを持たない妹。
彼女の中でそれが出来上がり、楯無は姉としてでは無く、「楯無」として見るようになった。怯えるようになった。
簪が──この子が日陰を好むようになったのは自分の責任だ。
家族の為に沢山を犠牲にしてきた、私個人の過ちだ。
けれど、それでもこの子は救ってくれた。
私を──更識刀奈を──必死で。
「ごめんね……ごめんね……ッ」
震えがどうしたって止まらない。涙が止まらない。
"刀奈"は簪の温もりにどうしようもなくなって、これまで経験してきた苦しみの日々を一気に思い出した。
「……お姉……ちゃん」
少女はか細く、呟いた。
──ああ、またそう呼んでくれるの……?
刀奈はさらに彼女を抱き締め、そして髪を撫でる。
それに簪は決意したように眼光を宿し、弱々しい姉の体を負けじと抱き締め返した。
「お姉ちゃんは、泣いてた……。あの夜の日に……ひとりでずっと泣いてた」
あの夜の日とは、いつのことだろう?
「……私……初めて見た。お姉ちゃんが泣いてるところを……初めて見た。……ずっと、お姉ちゃんは辛かったの?」
本当ならば、そこで頷いてはいけないんだろう。これ以上の弱さを出してはいけないんだろう。
けれど刀奈は甘えてしまった。その彼女の抱擁に、優しさに甘えてしまい、頷いてしまった。
簪は少し黙り込んだ後、そっと口を開く。
「──お姉ちゃんは、私が守るよ」
目を見開いた──。
刀奈は涙に濡れた顔を上げ、簪を見つめた。
彼女はとても優しく、そして強い目をして言った。
だから、一緒に頑張ろう──と。
私は思わず嗚咽を上げた。もう駄目だったからだ。
必死に止めていた悲しみが、決壊して溢れてくる。積もりに積もった悲しみが、声となって溢れ出す。
泣きじゃくる刀奈。
それを撫で続ける簪。
その光景に、かつての不仲は無く。確かな姉妹としての絆を存在させていた。
「私は……お姉ちゃんの妹だから」
言い、簪は満面の笑みで頬んだ。
続く