君と僕の物語   作:名無しの執筆者

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なまた


第十九話 「白式」

 時は遡り──。

 風の喧騒を聞きながら、一夏は家に向かっていた。

 重吾を追いかけた時にかいた汗はもう乾いている。服の染み込んだその汗は、今は冷んやりと冷たくなっている。

 一夏は枯れ木が積もった大地を踏みしめながら、よく分からない暗い気持ちに溜息を吐いた。視線を上げると、束と箒が向こうで立っていた。箒は心配そうな顔をしている。

 少し微笑んだ一夏は、軽く手を上げた。

 ザッザッザッ、と枯れ木の潰れる音が風に揉まれる。

 ようやく森の中を抜け出し、長く続いていた斜面を登り終えた一夏は、出迎えてくれた箒に目を合わせ、そしてくたびれた身体に膝を曲げた。

 

「重吾は?」

 

 箒の問いに首を振り、一夏は答える。「いなかった」

「そう」目に見えて落ち込んだ箒は、軽く俯く。

 一夏はそれに口を窄め、立ち上がった。

 

「飯の時間には帰ってくるだろ」

 

 言って、一夏は上着を脱いだ。

 季節は冬だが、このまま汗に濡れた服を着ていたら、風邪を引いてしまう。

 ちらり、と箒を見ると、やはり落ち込んでいた。

 何をそんなに落ち込むんだよ。──と一夏は思ったが、そんな自分も彼のことを心配している節があるので何かを言ったりはしない。それに箒は重吾を弟みたいに思っているから、特に心配なんだろう。

 一夏は脱いだ上着を肩に掛け、ポンと箒の肩に手を置いた。

 箒はそれに微笑んだが、やはり心配そうな顔は治らない。

 困った。どうしよう。

 ぽりぽりと頬をかいた一夏は、仕方無しといった気持ちで束に懇願の視線を送った。すると束が、自分の胸をドンと叩き、任せてというような顔をして鼻を鳴らした。

 

「大丈夫だよ、箒ちゃん! 重吾は強い子だから」

 

 箒の頭を撫で、そう安らげる束。

 しかし箒は「はい」と頷くだけで、笑顔を見せたりはしない。

 流石の束もそれにはショックを受けたようで、あははと苦笑した。そしてバトンタッチを求めるように一夏を見た。

 早くない!?

 数えて僅か三秒。

 何の役にも立たなかった束に白い目線を送った一夏は、どうしようかと息を吐き、その場しのぎの慰めを続けた。

 

「うーん……一夏くんも行くかい?」

 

 と。その時、唐突な提案が束の口から飛び出す。

 一夏は一瞬何を言ったのか分からなかったが、次第にじわじわと頭の中に染み込んできた言葉の意味を理解し、驚き目を見開いた。

 

「どうやってだよ……」

 

 訝しむように束を睨み付ける。

 この人は全く信用できない。

 

「別に? 簡単さ。君がISに乗ればいいんだよ」

 

 然りと言った束は、クルリと回った。

 一夏も箒も、その言葉に唖然とする。

 

「ね、姉さん……!」

 

 箒が待ったを出した。きっと自分と同じことを思っているに違いない。ここは彼女に代弁してもらおう。

 スッと息を吸い込んだ箒。その表情には戸惑いと、そして困惑が入り混じっていた。眉を寄せた箒は、ついにその意見を述べる。

 

「姉さん。ISは、女にしか動かせません」

 

 凛とした声の中にある動揺。分かる。分かるぜ箒。

 

「造ったあんたが、何でそれを間違うんだよ」

 

 少しの嘲笑を混じらせて、一夏もそれに便乗した。束はジッと黙って何も言わない。性格が悪いかもしれないが、この人のこんな姿を見るのはとても清々しい気持ちになる。

 口元を押さえた一夏は、そこで自分が薄ら笑いを浮かべていることに気付いた。流石にこれはマズイと思い、すぐさまいつもの表情を取り繕う。

 束はまだ黙っている。

 風がヒュと通り過ぎた。

 視線を適当な場所に移すと、小さな木枯らしに目が止まる。一夏はそれに本格的な冬の到来にほうと息を吐いた。

 その時、ようやく束が動いた。

 小さな動作だった。思わず「ん?」と眉を寄せてしまうほど、何の意味があるのか分からない仕草だった。

 束は何も言わず、黙々と何かの作業を始めていた。

 作業といっても、空中を撫でたり、文字を書くような動作をしたり、何かを叩いたりするような、まるでパントマイムを彷彿とさせるものだった。

 

「……おい、これなんだよ」

「……さ、さあ」

 

 互いに頭を傾げる、一夏と箒。

 未だ不明な動作をやめない束は、そこで何かを閃いたように、急に神妙な顔から喜ぶような顔に早変わりした。

 一夏はそんな束にますます眉間にシワが寄り、腕を組んだ、この人はいったい何がしたいんだよ……!

 駄目だ。イライラする。やっぱりこの人は嫌いだ。

 自然と自分が人差し指を小刻みに揺らしたいることに気付いた一夏だが、これをやめてしまうと本当に耐え切れなくなりそうなので止めはしなかった。箒も結構心身にきているのか、疲れたような顔をしている。

 そんな箒の疲労した表情に遂に我慢出来なくなった一夏。

 ニコニコとした顔で地面を叩く束に歩み寄り、彼は束を無理矢理立ち上がらせた。「いい加減にしてくれよ! 何がしたいんだよ!」

 

「……」

 

 少し驚いたように、目を丸くする束。

 一夏は立て続けに彼女をまくし立てた。

 

「最初からそうなんだよ!もうやめてくれよ! ずっと変なことばっかりして、訳わかんないこと言ってさあ! ISを動かせばいい? 無理に決まってんじゃねえか! 自分が天才だからって馬鹿にしてんじゃねえよ! 重吾が心配じゃねえのかよ、おい!!」

 

 そうだ。さっきから見ていればなんだ。まるで子どもみたいに変な動きをして、変なことばっかりして。まるで重吾を心配するような素振りを見せないじゃないか。あんたは母親だろう? たった一人の家族なんだろう? だったら追いかけろよ! なんで俺が一番に飛び出したんだよ!!

 ギリギリと歯を鳴らし、一夏は額を束の額と重ねる。

 間近にある束の瞳は、何も変化が無かった。

 一夏はそれにまた怒りを込み上げさせ、呻き声に似た唸り声を喉元から鳴らした。こいつはなんで……っ!!

 突き放すように束を押した一夏は、真冬だというのに全く寒さを感じない我が身を震わせ、そして叫んだ。天にまで届くように。怒りが届くように。喉が裂けそうになるまで叫んだ。

 

「い、一夏……くん」

 

 驚いた表情をする束。

 しかし一夏にはそれが嘘のものであるとわかっていた。なんだよこの人は。何も分かっちゃいないじゃないか。

 我慢ならず再び束を掴み上げた一夏は、乱暴にそのまま地面に押し付けた。束の口から苦しそうな声が上がる。一夏はそれを知ったことかと殴り捨て、束に顔を近付けた。

 

「ISは、あんたが動かせばいいじゃないか! 重吾はあんたの子どもなんだから、あんたが探しに行けばいいだろ!?」

「で、でも……君が心配してくれていたから……友達になれるチャンスをつくってあげようと思って……」

「そんなことどうだっていい!」

「どうでもよくないよ……! だってあの子──」

 

 ひとりぼっちだもん──────

 

 ──────ブチン。

 

 自分でもハッキリとその音が聞こえた。

 ああ、切れたんだな。

 息を飲む音が聞こえる。きっと箒だ。口元に手を当ててビックリしているに違いない。

 しん──と静まった一夏は、ゆっくりと右腕を上げた。

 地面に押し付けられ、一夏に馬乗りにされる束は、その動作に目を見開いた。そして言葉を発しようとする。「ま、待って──」

 

「うるさい」

 

 しかし一夏はその言葉を最後まで言わせず、束の顔面をその振り上げた拳で殴りつけた。

 織斑一夏はこの時、初めて女を殴ってしまった。

「一夏!!」箒の怒鳴りが聞こえたが、構わない。一夏は虚ろになった瞳で一旦空を見上げてから、再び束の顔を見下ろし、そして二度目の拳を振り下ろした。下から、呻き声が上がってくる。

 なんだか意識が暗い。夢を見ているようだ。

 一夏は自分が何をしているのか分からなかった。束が顔を歪めて苦しがっている理由も、箒が自分を乱暴に揺すっている理由も──何も分からなかった。

 

「……あ」

 

 と。そこでようやく熱が引いた。口元から血を流す束と、手を振りかざす箒。ばちん──頬を平手打ちされ、そこで一夏は我に返った。

「あ……あ、あぁ」拳にあるのは痛み。残る感覚は生暖かい血の温度だ。俺……やっちゃったのか?

 転げ落ちるように束の上から体を退けた。ずるり、と地面に肘を付けて、ずりずりと背中で這う。

 束がゆっくりと起き上がり、口元を袖で拭った。

 箒がすかさず駆け寄って、束の口をハンカチで押さえる。

 

「一夏……」

 

 箒は、潤んだ瞳をして、一夏を見た。

 一夏はそれに空唾を飲んだ。

 責めることも、怒ることもなく──箒の瞳には悲しみの色が浮かんでいた。

 

「……すまない、一夏」

 

 箒は、一夏が束を嫌いなことを知っていた。それこそ殺してしまいたいほどの怨みを持っていることも、理解していた。しかしそれでもら一夏の激情する姿は嫌だった。そしてそんな酷いことをさせてしまう要因を作った自分も嫌になった。

 一夏は何も言わず、呆然とする。束を殴ってしまったこと──ではなく、箒が自分に謝ってきたことに対して目を丸くしていた。

 なんで、謝るんだよ──。

 キュッと拳を握る。

 ふつふつと、胸の内から熱が上がってくる。

 眼光を宿した一夏は、束を睨んだ。

 箒はそれにハッとし、束を守るように覆いかぶさる。

 

「……どけっ!!」

 

 立ち上がった一夏は、なるべく優しくだが、箒を束から引き剥がした。が、箒はすぐさま一夏の体に飛び付き、動きを止めようとする。

 歯を食い縛った一夏は、荒い息を吐いた。そして再び箒の体を掴み、今度は少し強い力で押し退ける。するとうっ、という箒の呻いた声が聞こえ、続けて地面に尻もちをついた音が聞こえた。

 罪悪感を感じながらも、一夏は後ろに振り返らない。目の前に存在する束のみに視線を定める。グッと束の襟元を両手で掴み上げた。

 

「あんたは……母親だろ……っ!」

 

 自分でも理由は出ていた。

 束を思わず殴ってしまった理由。それは束の、重吾に対しての関心の無さだ。彼に危険が迫っているかもしれないというのにもかかわらず、飄々とした態度をとって、「友達をつくってあげるため」なんてことを言う彼女の想いの無さに対しての怒りだ。

 束は一夏の言葉に、少しだけ俯く。

 しかし一夏は、そんな束の顔を、襟元を引いて上げさせた。

 

「答えろ!」

「う、うぅ……」

「束さんっ!!」

 

 一段と大きな声を上げて、叱咤する。

 束は気まずそうに顔を逸らし、口を紡いだ。

 それにもうこれ以上は無駄だということを察し、一夏は苛立ち混じりに束の襟元から手を離す。あう、と束が鳴く。一夏はゆらりと立ち上がって、そんな束を見下ろし、すうっと息を吸い込んだ。

 

「──俺が行く」

 

 そして、キュッと拳を握り締める。

 視界には、驚いた束の顔があった。

 

「行くって……重吾を助けにかい?」

「危ないかもしれないんだ。行くしかないだろ」

「……ふうん」

 

 束の──企むような表情。

 しかし一夏は丁度視線を逸らしていたので、束のその深い笑みに気付かなかった。

 

「じゃあ、準備しないとね」

 

 束は両手を広げ、高らかに言う。

 

「準備ってなにさ……」

 

 一夏はそんな束の演技がかった動作に目を細めた。

 ヒュウウ──聞き慣れた風の音。

 髪の毛を僅かに揺らした風に、一夏は小息を吐く。

 束がクルリと背を向けた。スカートが華麗に動く。タンと短く足裏を鳴らして、反転する。

 一夏は準備運動をするように手を数度握り締めた。

 予想だが、束がする準備に必要なのはおそらく自分だ。それに束が用意するものなら、きっと派手で無稽なものに違いない。ならばこっちも準備が必要だ。

 目線を箒に送ると、彼女は心配そうに両手を胸の前で重ね合わせていた。

 少し考えた一夏は、箒に小さく微笑む。

 すると箒はそれに苦笑し、再び吹いた風に髪を押さえた。やっぱり心配性だなと、一夏はそれを見て思った。

 

「さあ一夏くん。少しハードだが、我慢できるかな?」

 

 束に胸の辺りを指で押される。

 

「いいよ。出来る」

 

 少しドキリとしたが、それは押し殺した。一夏は何かを心待ちにするような束の瞳を見つめ返しながら、静かに頷く。

 

「……オーケーだ。──〈白式〉」

 

 トーン──透き通るような音が響いた。

 一夏は思わずそれに聞き入った。耳を澄ませた。

 さわ、と風の音も加わる。透き通る音はまだ続いている。

 なんの音だ? 一夏は辺りを見渡し、空を見渡し、そして地面を見渡し、それを見つけた。

 それは不思議な現象だった。

 移した視線の先は地面。その地面に、白い波紋が広がっていたのだ。束と一夏の間の中心に、その波紋は顕在している。

 片足を曲げ、膝をついた一夏は、そっとその波紋に指先を触れさした。すると触った際の感触は無く、白い波紋も僅かに揺らぐだけで、地面の上から消えたりはしなかった。

 

「……君のISだよ」

「は?」

「名前を呼んでごらん。ほら、〈白式〉って」

「びゃ……〈白式〉」

 

 口を動かす束につられ、一夏はその名を口にする。

 と。その時、波紋に変化が現れた。

 今まで揺らいでいただけの波紋は、一夏が名前を口に出した瞬間に津波のように激しく動き始める。強く、強く。何かを表すかのように、大地の上で脈打つ。

 目を見開いた一夏は、その波紋をジッと見つめた。

 箒も興味があるようで、一夏の隣にトトトと近寄ってきて波紋の観察を始めた。

 

「綺麗だ……」

 

 箒の呟きに頷く。

 波紋はまるで虹の如く輝き、煌めいている。それこそ華美なものに全く興味の無い一夏が目を輝かせてしまうほどに、波紋は見る者を惹き付けた。

 

「……うわ──!?」

 

 突然、より激しく発光し出した波紋。

 一夏は思わず尻餅をつき、目を丸くした。

 これは地震だろうか?

 大地の奥深くから、地響きのようなものが伝わってくる。手のひらを通じて芯を揺らし、僅かに視界が揺れる。

 ゴゴゴと揺れる大地。

 一夏はその現象と、だんだんと激しくなっていく波紋の輝きに喉を鳴らして、ギュと拳を握った。何か……くる!?

 そう思ったその瞬間、波紋が飛び散った。

 空気を侵食するように輝きの本流を迸らせ、空中を縦横無尽に駆け巡った。暴風のように。竜巻のように。狼のように。

 

「来るよ。君の専用機だ!」

 

 束の言葉に、一夏は目を凝らした。

 何か、そこにいるぞ──!?

 目を見張る光景。次第に収まっていく閃光。

 一夏は顔を顰め、ジッと光が止むのをまった。そして、光の中から現れたそれに目を凝らした。なんだよ、こいつは!?

 

「これは……ISか!?」

 

 止んだ波紋の代わりに、光の中心から現れたその巨人。白銀の装甲を体とし、微かな鉄の香りを漂わるその騎士は、一夏の目を釘付けた。

 

「〈白式〉だよ。一夏くん」

「これ……俺の専用機……?」

「むふふ。そうさ。君の相棒さ」

 

 鈍い光沢を放つ〈白式〉の装甲を叩き、束が笑う。

 一夏は雄々しく存在するその巨人を見上げ、ほうと息を吐いた。その巨人はまるでこちらを見ているように思えた。

 手を触れてみる。

 冷んやりとした冷たさだ。

 一夏は〈白式〉の表面に触れさした手を握り、二度目の感嘆の息を漏らした。すげぇ……。

 

「本当に動かせるのか?」

「当然さ。君の専用機だもの」

 

 いまいちISのことは分からなかったが、束が言うからきっとそうなんだろう。束のことは嫌いだが、これを造ったのはこの人だ。素人よりも慣れた人に任せた方がいいだろう。

 一旦、〈白式〉から離れた一夏。

 今度は束がスッと〈白式〉の前に立つ。

 何やら操作を始めたらしく、束は〈白式〉の白銀の装甲を軽くタッチし始めた。フォン、フォン、と束が突く度に装甲の表面から音が鳴る。

 横からその様子を覗き込む一夏は、今一度、白銀の騎士の姿を眼中に収めた。

 テレビ越しでしか見たことがなかったISが、いま目の前に存在することがいまいち実感できない。この鋼の塊に、千冬も乗っていたのだ。既視感とは違う何かが、胸の内に湧き出る。

 一夏はどこか、〈白式〉に対しての高揚感を感じていた。

 

「よし」

 

 と。呟き、束が〈白式〉の前から退いた。〈白式〉を紹介するように手を向けて、こちらを見てくる。

 

「さあ一夏くん。君の出番だ。この子は君を待ってる」

 

 うん、待ってる──。

 いま、声が聞こえた?

 風の囁きだろうか? 取り巻く風の音に混じって、語りかけてくる声が聞こえた気がした一夏は、ぐるりと回りを見渡した。しかし、その声を発したであろう人物は、どこにもいなかった。

 小首を傾げ、勘違いだと判断した一夏。

 目の前に在る〈白式〉の姿を今一度よく確かめ、目を細めた。

 待ってた。千冬じゃなくて、君を……ずっと──。

 風の音がさざめく。

 一夏は喉を鳴らして、導かれるように手を伸ばした。

 

「〈白式〉……!」

 

 ぽつり、呟いてみる。

 呼び声。語りかけ。対話。

 一夏は触れた手のひらから伝わってきた熱に、ハッと息を飲んで〈白式〉を見上げた。

 

(動いてる……!? 反応してるぞ!)

 

 トクン、トクン、と。

 まるで鼓動のような振動がある。

 一夏は脈づいている〈白式〉に芯が熱くなり、ニィと口元が吊り上がった。そしてたまらず、叫んだ──!

 

「こい! 〈白式〉!!」

 

 トーン──優しい音色が響く。

 叫びと共に、〈白式〉から放出された光。視界を埋め尽くした光。一夏はその真っ白な閃光な中で、儚げで朧げな一人の少女が、こちらを見て笑っている姿を見た。

 さあ、一緒に歩いていこう──。

 少女は語りかけてきた。透き通るような髪を押さえながら、囁くように言ってきた。

 井伊月くんは、もう一歩を踏み出したんだから──。

 そして少女は背を向け、歩き出す。

 一夏は水の中で泳いでいる時のような抵抗を感じながら、突き動かされるようにその少女に向かって手を伸ばした。待ってくれ……!

 光は次第に止んでいき、景色は戻ってくる。

 織斑一夏は遠ざかっていく少女の背中を最後に、夢心地のような気分を残したまま、ゆっくりと瞼を開けた。そして、変化した我が身を見下ろして、空を見上げた。

 

「……箒」

「わかってる。重吾を頼んだ」

「……ん」

 

 こくり、と頷き、一夏は膝を曲げる。曲げて、バネのように関節を駆動させ──空へ飛翔した。

 

 行こう──無限の空へ──。

 

「ああ、無限の空に」

 

 一夏は飛ぶ。駆けていく。

 その様子を見つめる束は、太陽の日差しを一身に受ける一夏の姿に対し、

 

「さあ、君の物語の始まりだよ。一夏くん」

 

 紛れも無い「母」の表情で、微笑んだ。

 青空の下、流れ行く大地。

 冷たくも暖かい風を受けながら、織斑一夏──そして〈白式〉は定められた座標を目指した。

 

 

 

 




続く
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