ーー素振りの音ーー
走る太刀筋は鈍く、そしてノロイーーー。
もう何度振ったかも分からない素振りに、とうとう織斑一夏は体を投げ出した。
どん、と道場に響いた落下音。
背中越しに感じる床の冷たさが心地良い。反面、着ている道着は汗に濡れていて気持ちが悪い。
「……うし」
再び立ち上がった一夏は、また素振りをする。
これを繰り返すこと、既に三度目。
骨格、そして筋繊維がズキズキとしているのに、やめることなくひたすら没頭を続ける。
まるで呪われたみたいに。
まるで囚われたみたいに。
1、2ーーー1、2ーーーと。
交互に動かす両足の裏は何度も磨り減っている。この素振りは二年前から毎朝続けている鍛錬なのだ。一夏は、これをずっと休むことなく行ってきた。
「一夏よ、そろそろ休め」
凛とした声。
一夏は視線だけを動かして、道場の入り口を見た。そこには、長い艶やかな黒髪をポニーテールに結った少女が、茶の乗った盆を両手に立っていた。
「置いててくれ、箒。まだ終わってないんだ」
言い、素振りを続ける。
「そんな無茶苦茶な太刀筋でやっていても、己の糧にはならない。私の言うことを聞いてくれ」
「……」
「一夏よ」
「……少しだけ休むんだからな」
やはり箒は強い。なんてことを思いながら、一夏は持っていた竹刀を壁に立て掛けた。
「ふふ。ああ、そうしてくれると嬉しい」
そんな子どもみたいな一夏に、篠ノ之箒は微笑んだ。
◆◆
箒と出会ったのは小学生の頃だろうか。
初めて会った時、最初は静かな奴だと思った。
昔の箒は、今みたいに凄味がある訳でもなく、なんていうかこう……頼りない奴だった。というよりも、人見知りだったんだろうな。きっと束さんがいなかったら、話すことも無かったに違いないと思う。
昔の印象のこいつは、少し酷いもんだ。けど、それは間違い。俺は箒に会えて良かったと思っているし、言い訳みたいになるかもしれないけど、昔から箒の笑顔は……好きだった。
純粋っていうか、綺麗なんだ。箒の笑った顔は。
だからなんていうかーーーうん、好きなんだ。
「……なあ、箒」
昔のことを思いつつ、一夏は口を開いた。
「ん? どうした?」
箒が、結った髪を撫でながらーーーこちらを向く。
少しだけドキリとした。
「箒ってさ……好きな人とかいるのか?」
普通。そう、普通だ。
この年なら恋愛話の一つや二つ、するだろう。
気恥ずかしさを隠すように、一夏は頬を掻いた。
視線で箒を伺うと、彼女はなんだか困ったような微妙な顔をしていた。まずかっただろうか?
変な空気間に緊張する一夏は、この話を終わらせようと言葉を紡ごうとした。けれどそれよりも先に箒が口を開け、言葉を発した。
「い、一夏はどうなのだ? いるのか? その……好きな異性というものが」
「俺に返すのか!?」
180度回ってきた問いに驚く。けれど一夏は腹を括り、質問に答えようとした。
「俺は!」
「う、うむ!」
「俺はな!? 箒!」
「な、なんだ一夏!?」
「俺は……! 俺は……分かんねえ」
が、寸前でやめた。
情けないと、自分でも思う。好きな人のヒントも言えないなんて、子どもだ。いや、臆病だ。
紛らわせに茶を飲んだ一夏だが、心に残ったものは拭えない。せめて少しだけでも言えばよかった、という思いが、強く根付いている。
そんな一夏に、箒が手を伸ばした。持っていたタオルで、首元の汗を丁寧に拭い取る。
きっと箒にとっては何気ない行為だったのだろうが、一夏にとっては少し刺激の強いものだった。年相応に成長した彼女はとても美人だから、そんなことをされるだけでドギマギとしてしまう。今にも心臓が爆発してしまいそうだ。
もう一度茶を飲み、何とか心を落ちつかせようとする。しかし男というのは馬鹿なもので、間近にいる異性からどうしても目が離せない。
が。一夏はそれ故、冷静さを取り戻した。
箒のーーー服の間から覗いた「傷痕」。
それを直視してしまい、織斑一夏は立ち上がった。
「どうしたのだ?」
「……稽古の続きだよ」
「なんだ、怒っているのか?らしくないぞ」
「……別にいいだろ」
「……あ」
と、そこで箒も自分の傷痕が隠せていなかったことに気付く。すぐに服を正し、こちらから見えないようにした。
それに、一夏は苛立った。
その傷痕を隠そうとしたことに。なにより、傷痕を見せない為の気遣いをしていた箒に、"的外れ"の怒りを覚えた。
「気にするなよ? もう前のことなんだ」
前のこと? 気にするな?
一夏は壁に立て掛けていた竹刀を手に取る。
「私だって……気にしていない」
そんな訳ないだろ。そんな訳ないだろ。
なんでーーーそんな嘘をつくんだよ、箒。
一夏は竹刀を握り締めた。胸の内に沸く怒りに、歯を食いしばった。だんだん息も荒くなってくる。箒のその優しさがあまりにも嫌でーーー手に持っていた竹刀を乱暴に投げ捨てた。道場に、酷い音が響き渡った。
「……帰る」
しん、と静まり返った道場。
さっきまでの雰囲気とは一変した静けさが、空間を支配していた。
「一夏!」
箒の呼び止めなどもはや聞いていなかった。
一夏は道場の入り口から外に出ていき、自分を呼び求む少女を無視して帰路を目指した。心の内にあるもどかしさを押し込みながら、がむしゃらに走ってーーー叫んだ。
そして、一人取り残された箒は、
「一夏……」
全てを抱え込んだ少年の名前を、震えた声で呟いた。
続く