振り切ると、その切っ先は光を発した。
暗闇を照らすような月光の輝き──その残光。
引き戻せば次第に瞬きを潜め、燐光だけを残し、その刀は腰元の鞘に眩い刀身を納める。
サァ────風が、囁いた。
つい、と指先を鞘に合わせ、撫で上げる。
顔を動かすと、視界に数多の星々が映り込んだ。
「…………」
綺麗だ──素直にそう感じる。
赤、青、黄色。
様々な色合いが重り合った自然の宝石。
自ずと笑みが浮かぶ。
腰にある刀を鞘ごと引き抜き、近くの木に立て掛けた。
「…………明日は……何が、あるんだろうな」
刀を預けた木の根元に腰掛け、星を眺める。
手のひらに付いた血を衣服で拭い取り、ほうと息を吐く。スンスンと鼻を動かすと、血の生臭い匂いが鼻腔に充満した。
顔を顰めてしまい、苦笑する。
慣れた筈の香りを少しだけ気持ち悪いと感じてしまった。
ふぅ、と。二度目のため息。
寒さで痺れた手のひらを握り締め、そして立ち上がる。
そろそろ家に戻らなければ、いろいろと困る事がある。あいつの為のご飯だってまだ出来ていないから、早く帰ろう。
僅かに茂った草の根を踏み、帰路に着いた。
少しした場所にある煙突のある家──そこを目指す。
◆
「────帰ったぞ」
開口一番にそれを言う。
するとすぐさま奥の方から、愛らしい足音が聞こえてくる。トテトテと小さな子どもの足音──。
微笑み、見ると、そこには赤茶色の髪をした、まだ六歳にも満たない小さな男の子がいた。
「おかえり!」
少し舌ったらずな元気のある声。
男の子はその小さな体をめいいっぱいに表現し、こちらへと抱き付いてくる。私はそれを、優しく受け止める。
「…………ああ……ただいま」
微かに香る、ミルクの匂い。
それに瞼を閉じ、微笑む。
「えへへ〜♪」
男の子は笑い、抱擁に甘えた。
「……さ、ご飯にしよう」
数度、頬にキスをしてやり、男の子と共に家の中へ進む。
──パタン。
家の扉が閉まり、ロックが締まる。
そして煙突の家の灯りが、ひとつ増えた。
◆
手早く、本当に簡単な料理を作る。
チラリと後ろを見ると、両手にスプーンとフォークを持った男の子が、待ち切れない様子でこちらを見ていた。
軽く微笑みかけて、そしてさっさと仕上げてしまう。
皿に盛った大雑把な肉料理。バケットに放り込んだパン。器にはコーンスープを注ぎ、ようやく料理が出来上がる。
「ほら、出来たぞ」
机にそれらを並べれば、それなりに見栄えは良くなる。
男の子は目を輝かせ、今にも飛びつきそうだ。
──可愛い奴め。
と。思わず口を押さえる。
男の子は小首を傾げ、不思議そうにこちらを見ている。
「…………なんでもないよ」
紛らわすように頭を撫でてやると、男の子は気持ち良さそうに目を瞑り、子犬のように甘えてきた。
その姿に胸の内が締め付けられ、苦しくなって男の子から目線を逸らす。手のひらに感じる温もりが、何故だか異常に愛おしく思え、堪えるように歯を噛み締めた。
「えへへ〜♪ マリア〜」
名を呼ばれ、視線を戻す。
そこには、もっと愛してとせがむ男の子がいた。ニコニコと笑って全力の愛情表現をする幼子が、こちらの手のひらに頭を擦り付けていた。
それに、それに──私は────。
「……ほら、早く食べな」
あまりにも淡泊で、あまりにも冷ややかな態度をとった。
◆
食事が終わった後に訪れたのは静かな時間。
時計の音が浮き彫りになって聞こえる程の、優しい時。
食事をした皿を片付け、暫しの休息を得る。体に着るシャツを無造作に脱ぎ、部屋の壁と接地しているソファの隅に放り投げた。そしてその横に深く腰掛け、溜め込んでいた重い息を一気に吐き出す。
部屋の中心に敷かれる絨毯の上では、男の子がおとぎ話の絵本を一生懸命に読んでいる。不思議の国のアリスだろうか。この子が好きな本は、不思議の国のアリスと人魚姫だから。
「──……ん?」
と。不意に膝に違和感を感じる。
見ると、男の子がこちらの膝上に登ろうとしていた。しかし横着に絵本を抱えたまま、よじ登ろうとしているので、中々上手くいっていない。
少し思案した後、手を伸ばして男の子の体を抱き上げた。女の力でも容易く持ち上げられるほど、この子の体は小さくて軽い。
膝上に座らせてもらったことが嬉しいのか、男の子はこちらを向いて「えへへ」と笑う。それに少しだけ微笑んでやり、その頭を一度だけ撫でた。
──あ……いけない。
ふと、仕事に帰ってから一度もシャワーを浴びてないことに気が付き、咄嗟に体の臭いを確かめる。すると仄かにだが、仕事で浴びた血の香りが鼻腔を掠めた。
しまったと唇を噛む。
男の子は絵本に熱中していて、まだこの臭いには気付いていない様子だが、この距離ならいずれ知られることになるだろう。そして血の香りを憶えられ、それが日常の一部であると勘違いされてしまう。
どうしようかと迷ったが、とりあえず身を清めようと動いた。だからまず、膝の上に座る男の子を降ろし、脱ぎ捨てていたシャツを引っ掴んでシャワールームへと向かった。慌てている訳ではなかったが、少し足早になる。
シャワールームにつくと、すぐさま衣服を脱いで洗濯カゴに投げ入れた。纏めていた髪の毛を解き、シャワーを出して温かくなるまで放置する。
再度、臭いを嗅いでみる。
服を脱いだおかげか、さっきよりかは匂ってはこない。が、既に血の臭いが我が身に染み込んでいるのだろう。僅かだが、喉奥が熱くなる鉄の香りがする。
──さっさと落としてしまおう。
そうしてシャワー室に足を一歩踏み入れたその時、頭の隅を男の子の姿が通り過ぎる。一人で絵本を読む彼の姿が、突として浮かび上がる。
シャワー室に入れていた足を引き、静かにシャワールームから彼の様子を覗くと、やはり男の子は静かに絵本を読んでいた。しかしその姿は先ほどの盛んな雰囲気ではなく、静けさと消沈さを纏った似つかわしいもの。幼い子どもが漂わせるべきではない気と外観だった。
「……っ!」
まただ。また、体が動いた。
然りと踏み出た片足が、彼の元へ導く。
一歩、二歩──そして三歩と。
シャワールームから然程距離の無い部屋は、少しの瞬きの間で辿り着くことが出来る。何も身に纏っていない体を撫でる室温の冷たさが、何と不愉快なことか──。
私は小さなその体を後ろから抱き上げた。
わー! と男の子が声を溢す。が、構わず抱き締める。
少年の体は冷たく、冷え切っていた。今頃になってようやく部屋の寒さに気が付き、歯痒くなる。
「もう遅いから、一緒にお風呂に入ろう」
頭を撫でながら誘うと、男の子は「うん!」と元気よく頷いた。調子の戻った少年の様子に、私は不思議な安心感を感じる。胸の辺りがまた、「ぽっ」と熱を帯びた気がした、
◆
「ほら、頭流すよ」
温湯の出るシャワーを当て、泡を流す。
男の子は前に一緒にお風呂に入った時、泡が目に直接触れた際の痛みがトラウマなのか、必死に身を縮めて目を閉じている。
なるべく注意しながら、少しずつ洗い落とす。
「まだー?」と不安そうに少年が聞いてきたので、私は泡を洗い落としながら「もう少し」と返した。
頭に付いた泡をようやく全て落とし切り、少し水を拭い取ってやってから、一緒に湯船に浸かった。
この子が来てから知ったことなのだが、こうして湯船にお湯を張って入渠するのが、日本の文化らしい。あまり自分の生活に対して頓着していなかったから、そんな風習、知る由も無かった。
「きもちーねー♪」
そうね──と、心の中で返す。
慣れない風習だと思っていたが、存外に気持ちの良いものである。体の汚れが浄化され、冷え切った身体の芯が一気に温まる感覚は、言葉では表現出来ない程の心地良さだ。
浴槽の縁に後頭部を乗せ、息を吐く。
膝に乗る少年も一緒になって、背をもたせてきた。
「…………今日は……何をしてた?」
自分が居なかった間、何をしていたかを問う。
「絵本とね〜……るーびっくきゅーぶー!!」
「……諦めの悪い奴。あれは難しい玩具だぞ」
数日前にあげた玩具を思い出し、顔を顰める。
この子は貰ったそれを、えらく気に入っていた。
私はあまり手を付けなかったが、この子には何か違って感じるのだろう。確かにあの角ばった形は積み木やブロック玩具に似ているし、子どもにとっては別の物に見えるのだろうか?
湯を掬って顔にかけ、ふうと息を吐く。
男の子は私の胸の感触が面白いのか、頭を前後させて「あはは♪」と楽しそうに笑っていた。やはり子どもとは大人と感性が違うな、と私は思った。
「マシュマロみたい〜」
「それは良かった」
頭を撫でつつそう言い、暫く男の子の好きにさせる。しかし次第に元気の無くなってきたその様子を見て、私はそろそろ風呂から上がろうと考えた。
◆
「…………ほら……お休みしろ」
眠たげに目元を擦る男の子。
優しい照明が光源の部屋で、私達はベッドに入った。
男の子は枕に頭を乗せ、こちらを見てくる。
それに意図を理解し、そばに寄り添った。すると満足したように頬を緩ませ、男の子は安心したように目を閉じる。
静かに上下する胸に手を置き、優しいリズムと強さでその胸をポンポンと叩いてやる。
男の子はスヤスヤと寝息を立て、すぐに眠りに落ちた。
不思議とその寝顔を見つめてしまい、私は自身に対しての嘲笑を込めて苦笑した。
(おやすみ……)
パチン──と光源のランプを消す。
そして瞼を閉じ、男の子の手を握った。
「むにゃ」と可愛いらしい寝言を呟く少年。
落ち着いて寝付けるように、時たま頭を撫でてやる。
この年頃の少年はどんな時でも甘えてくるのだ。それを、「この仕事」を引き受けてからよく知ることができた。
サラサラの頭髪を梳き、優しく胸に抱き寄せる。
男の子は本当の母親に接するかのように、私の胸に顔を埋めて、握り締める手を握り返してくる。違うというのに、甘えられても困るものだ。しかしそれを受け入れ、心地良いと感じてしまう私も──きっと大概なのだろう。
穏やかに眠る少年の額にキスをして、本格的な眠りに入る。
布団に包まれる温もりではなく、人の体温を感じながら落ちていく眠りの中が、言いようの無い幸福感を与えてくれた。
思えば、この感覚にも慣れたものである。
ずっと一人で過ごしてきた人生の中に、突然放り込まれた「幼な子」という存在。それに日常を掻き乱された訳でも無く、毎日の一部となっていることを不思議だと感じなくなっている。それは私が単純な証拠なのか、それとも肯定感に自身が満ちている所為なのか──。
「……いつまでも……二人で──」
いや、それはないな──私は、静かに吐息した。それと同時に無性に寂しさに襲われ、眉尻を寄せた。
払拭するように男の子を抱き締める。
けれど胸の内に溢れた冷たさは、中々逃げ去ってくれない。走り回ってグルグルと、心の端を凍えさせていく。
…………寒い……ああ、寒いな……。
縋り付く。
感じる体温は、確かに温かい。
この小さな命が、どうか凍えてしまわないように。
「守ってあげる……だから、眠りなさい──重吾」
二度目のキスは、少し長く。
──チュ。
微笑んだのはどちらか。私? それともこの子?
熱いのは「安心」と、冷たいのは「寂しさ」から。
独りきりのベッドとは違うのだ。ここには今、別の命が存在している。小さくも強い鼓動を宿した、もうひとつの命が──。
もう言い訳はしない。
この安らぎ、この幸せを、
────私は幸福だと認めよう。
仕事だと割り切れば、軽くあしらっていた。
けれど純粋な瞳、その感性が、淀んだ私を毒していった。
名前──この子は井伊月 重吾っていうの。
ウサギの女はそう言って立ち去った。子ウサギだけを残して。
「よろしくおねがいします」
その小さな口から零れ出たとは思えない"異質"な言葉。
きっと私をその時から、この子に心を奪われていたのかもしれない。