朝。
小鳥のさえずりよりも早くに目が覚めた。
日の登っていない朝は芯を凍てつかせるほど冷たく、息を吐けば白く濁った。
──更識楯無は考えた。
思い出すは深夜の出来事。
井伊月重吾が苦しみから解放された途端に見せた、まるでスイッチでも切り替わるかのような豹変を思い出していた。
足先の凍えに足指を巻き込み、身を縮める。
彼のことが解らない。楯無は眉を顰めた。
恐ろしいとまではいかないが、怖いとは思った。
苦しんでいたあの姿を、「彼」に重ねてしまった所為もある。だがそれを考慮したとしても、あの様子と雰囲気は五感をなぞり上げ、不愉快にさせた。もう──見たくはない。
彼のことは、正直好きだ。
なにせ面影がある──。
それを理由にしたくはないが、どうしても横切ってしまう程、彼は「彼」によく似ている。赤茶色の髪、優しげな目元。
私は恋といったものを知らない人間だ。
告白──その経験は幾度かある。しかしそのどれもに釈然と、そして心に「がつん」とくるものは無かった。だから、全ての好意の贈り物は受け取りはしなかった。……いいや、違う。受け取れなかったのだ。
どうせ私の事を知れば、皆、逃げていく──。
その考えがあったから、きっと私は臆病だった。
「……井伊月さん……それとも井伊月君かしら……」
視線を伏せる。
彼の事を考えると、胸の内側が強く振動した。
──これは……恋なのか?
──それとも……恐れか?
一緒くたは決して無い。
それぞれ別と理解している。
……だが、そうだとしても、更識楯無の中ではそれが混濁としているのだ。不明なのだ。それが恋からの違和感なのか、それとも恐怖からの違和感なのか──彼女は上手く判別出来ていないのだ。
でも、恐怖ではなくて欲しいとは思う……。
私は胸に手を当て、音を聞いた。
とくん、とくん──と。
変わらず、絶えず、動く我が身の心臓。
もしそれが機械であったなら、この強い想い──きっと故障させる原因になってしまうに違いない。
微笑み、そして楯無は吐息した。
白い息が、空で溶けていった。
◆
「…………朝だ」
カーテンの隙間から溢れる朝日で理解する。
冷んやりとした冷気が、意識を覚醒させた。
──……遠くにある物が近くに見える。
酔ったような、酷く吐き気のする気分。
足裏を床に這わせて、ゆっくりと冷たさを味わうと、それは綺麗さっぱりに消えて無くなった。
(……ご飯)
ボサボサの髪を直さず、顔と歯だけを洗って部屋を出る。制服はどうしようか。……ま、いいか。
部屋の外はより寒く、思わず身を縮めた。
まだ早い時間帯の所為か、自分以外の生徒はどこにも見当たらない。居るのは窓辺に座る小鳥達だけである。
……可愛いなぁ。
井伊月重吾は微笑み、歩き始めた。
空腹を訴える肉体は、昨日の簪の手伝いで少しの痛みを有していた。筋肉痛である。激しくはないが、肩を回したりすると違和感があって、ちょっぴり気になった。
「イテテ……ん? 楯無さんがいるゾ?」
向こうに見えた更識楯無の姿。
思わず口元がにやけてしまい、ドキドキとする。
咄嗟に駆け出した。寒さは我慢である。我慢我慢。
「──…………あ」
と。その時、不意に昨日の出来事を思い出した。彼女の困惑に満ちた顔を思い出した。そして自分に対して向けていた恐怖の瞳を、あまりにも鮮明に思い出してしまった。
自ずと、足が止まった。
力が抜けていくように、鳴りを潜めた。
そして逃げるように背を向けて、再び走り出し、元々の目的であった食堂へ向かう。何故だか胸が苦しくて、僕は泣き出しそうになった。
◆
思い付きで早起きをしてみたが、中々良いものだ。
小鳥の歌声に、鮮やかな太陽の光。
地球の宝物を一身に受け止めるこの心地良さは、一週間に一度は経験しても良いかもしれない。
「さーて。飯だ飯〜」
織斑一夏は綺麗に身支度した体を伸ばし、首を鳴らした。コキコキと鳴る首の関節もどこか調子が良い気がする。
昨日憶えた学園の通路を歩き、暫くして食堂へと辿り着けた。早起きのおかげで、まだ人も少ない。副担任の山田麻耶先生がかなり混むと言っていたから、少し不安だったが、これなら気兼ね無く食事が出来そうだ。
「箒も誘えば良かったなぁ……」
と。そこでマズイと思った。
辺りをすぐさま見渡し、誰もいないことを確認する。
良かった。誰もいない……。
別に聞かれても、何でもないよで返せば済む話なのだが、これが本人に聞かれてしまえば詰みだ。理由は言えない。いや、別に言ってもいいのだが、いや、駄目か。うん? いや、駄目でもないか? あれ? どっちが正解?
何だか訳がわからなくなってきたので、これ以上、先には進まないようにする。
気を切り替えるように息を吸い込み、そして食堂へと足を踏み入れた。厨房の方では既に料理人の方達が朝食の準備を始めていて、「ご注文はいつでもどうぞ」といった感じである。これは期待出来そうだ。
食券を購入し、早速注文をする。
「すみません。お願いします」受け取り口から顔を覗かせ、そう言うと、奥から割烹着を着たおばあさんが出てくる。それにますます期待が高まった。
「はいはい。和食セットね。ちょっと待ってねぇ」
柔和なおばあさんの笑みに、こちらまで笑顔になる。おばあちゃんっ子という訳ではないが、ああいう人を元気にさせる笑顔は好きだったりする。たとえば重吾とか──。
(……そういやあいつ、どこいんだろ?)
と。ぼうとしていたら、いつの間にか目の前に和食の定食が置かれていた。しかも量が多い。
目を丸くし、おばあさんを見る。するとおばあさんは「若いんだから沢山食べな」と言って奥の厨房に戻っていった。
「おばあさん……」
心の中で感謝し、朝食をありがたく受け取る。
ホカホカと湯気を立てる料理達が、なんと旨そうなことか。
(さーて。どこで食べっかな〜)
どうせなら眺めがいいとこが良いな〜。
窓際の席を見遣ると、すみの一角の席から見える景色がとても綺麗だった。窓が大きく所為もあるのだろう。その席に注がれる日光はとても心地良さそうで、窓から一望出来る海もここ踊らされる。
スタスタと歩み、その席に位置を決める。
ああ、幸せだ……。
織斑一夏は、心の底からそう思った。
「さーて、じゃあ早速!」
──いっただーきまーす!
そう言い、食事を始めようとした瞬間、
「は、はぁ!? サイレン!?」
高々に耳煩いサイレンが騒ぎ出し、静けさに包まれていた学園の全てを覚醒へ誘った。
続く