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井伊月重吾、五歳の誕生日。
私は──「世界」を視せたいと思った。
「ほら、海だよ」
「うわ~、すごーい!」
ざざん、ざざざん。
流れる、流れる。
冷たさと温かさ。
海の飛沫の冷んやりとした感覚にはしゃぐ我が子を、私こと篠ノ之束は遠くから見つめる。それと同時に時の流れの速さを痛感した。あの子はもう、五歳になるのだ……。
楽しげに笑う重吾に近寄り、その背後から抱き上げる。驚いた声を上げてから、重吾は私の顔を見上げてニコリと笑った。生まれた時から何も変わらない、何色にも染まっていない純粋な笑みだ。
柔らかなその頬を揉む。むにゅむにゅ、と。
「きゃー!」とくすぐったそうに身を捩る重吾は、足元をバタつかせて海水を巻き上げた。
「おかーさん! 海って楽しいねー!」
太陽の光。我が子の笑み。
私はそれに微笑みで返し、重吾を抱えて後ろに倒れた。背中と海面が接地し、太陽の光を受けた水飛沫が空へと上がる。
冷ややかな感覚と、光の温かさ。
満足気に笑う我が子の体温を感じながら、私は引いては戻る波の感触に心地良さを見出していた。その時だった。
「おかーさん、あそこに変なのがいるよー?」
息子が空を指差したのだ。雲の真横だ。
嫌な予感がした。顔を顰めて目を凝らした。するとそこには一筋の亀裂──では無く、飛行機が通った後のような軌跡があった。しかしもそれは私にとって、とても慣れ親しんだ軌跡だった。
「いけない……!」
嫌な予感が的中した。甘かった。
私はすぐさま浜辺へ上がり、重吾を隠した。が、標的を見つけた鷹の如く、その軌跡を残した存在が穏やかだった海に嵐を起こして降下してきた。
目に映ったのは巨大な鎧。何ものをも跳ね返す鋼の塊。
睨み付けた私は、我が子を背中に隠した。
『篠ノ之束の……子どもか……ふふふっ』
違うと言えば良かったのかもしれない。可能性に賭けていたならば、そこで運命は変わっていたのかもしれない。けれどその時の私はあまりにも毒気が抜かれていた。重吾との違いを否定する考えなど微塵も浮かばなかったのだ。
髪色、眼の色。そのどちらもが似ていた。鎧の敵にとってはそれが判断材料だったのだ。いや、私が重吾を背中に隠した時点で既に断定していたに違いない。奴の目が、途端に変わったことが証拠だ。
鎧の塊はきっとこう言うのだろう。「子どもを殺されたくなかったら言う事に従え」──と。
『子どもを殺されたくなかったら従え、篠ノ之束よ』
ほら、言った──。
有名人とは違うが、私は世界に認知されている。それがどんな風にかと言えば、悪かったり良かったり、はたまた革命者だったりと様々だ。
転覆させたという言い方は大袈裟かもしれないが、私は一人の人間としは大きく枠を外れた大事態を引き起こした。それの成果でもあり残痕でもあるのが、この目の前に存在する鋼の歩兵──「インフィニット・ストラトス」である。
悪より悪に、善より善に。
何事も綯い交ぜに、滅茶苦茶に。
過去の私が創り出してしまった贋作だ。最高傑作であることは自負しているが、中身は空っぽの玩具。ただひたすらに面白味を求めて様々な物を注ぎ込んだ。結果にして、最悪な兵器と成ったのは口の中が苦くなるので考えたくない。
この世に生を受けてから、沢山のものをイメージしては形として残してきた。武器、兵器、ロボット。興味があった物には全て手を出した。その過程の中で何も変化が無かったのは、私がまだ人として不完全だったからに違いない。だからこそ最後に手を出した人間という「興味」──それにこれほどまでの成果を産み出すことが出来たのだ。だから、
「お前、少しでもこの子に触れてみろ──殺すぞ」
我が子だけは、私が絶対に守ってみせる。
/4
静けさを纏った暗闇の世界。
スヤスヤと寝息を立てる重吾を背中に背負い、私はとある家の扉を叩いた。
「──誰だ」
「依頼した者だよ。開けておくれ」
古びた家の窓に灯りが吐き、しばらくして目の前の扉が開いた。ギィと軋む音が鳴り、一人の女性が姿を表す。
「あんた……篠ノ之束か」
少し驚いた様子を見せる女性。
私は特に気にせず、背中の重吾を起こした。眠たげな声を上げて、重吾は私の背中に顔を押し付けてくる。
「ごめんね、重吾。ちょっと起きて」
「んむぅ……」
のそのそと背中から降りた重吾は、大きく口を開けて欠伸を漏らした。ゴシゴシと目元を擦り、スカートの裾を握る。
「依頼したいのはこの子だよ、"マリア・ベルリン"。君のその手腕を信じて、半年間の間だけ面倒を頼みたい。もちろん、報酬は当然のこと弾ませよう」
「……確かに依頼通りの内容だけど……お守りっていうのはどういう理由なのか、ハッキリしてもらいたいな」
「ご想像にお任せするよ……と、言いたいところだけど、そうだね、ふむ。君の意見は最もだ。けど、余計な事でもある。篠ノ之束が依頼を頼みに来た──というだけで、それはそれは納得出来る理由だと思うんだけどな、私は。だって要は、私じゃどうにも出来ない事態に陥っているってことなんだから」
「……」
「まあ、なんというか、なんていうか、『よろしく頼む』ってことじゃあ駄目かい? 傭兵さん」
仕事柄、きっとこの女は「保険」というものを側に置いて置きたいのだろう。だからこそ重吾を預かって大丈夫だという保証を確信として求めているに違いない。睨みつけられるのも今は我慢しよう。
「分からないな。私が思うに、篠ノ之束には「IS」がある筈だけど? それで守るっていう考えは無いのか?」
「……やれやれ、痛いところを突くんだね。分かった。負けたよ。君に保険って奴を与えてあげる。大サービスだ」
言って私は、重吾の頭を撫でた。そして、
「この子が、『私の息子』だからさ」
篠ノ之束を従えることの出来る最大の「要因」の存在を、惜しげも無く隠す事もせず、口に出した。
「……これは……そうか、うん。ああ、私が知る限り最高の保険材料だな、この子どもは。きっとどんな危機的状況であったとしても、この子どもを差し出すだけで、見逃してもらえる可能性……いや、それどころかお釣りが返ってくるかもしれないということか……なるほど」
「もし血の繋がりを疑うならこれを渡しておくよ」
私はポケットに入れておいた針を指に刺し、滲んだ新鮮な血液を特殊な容器の中に一滴垂らす。そしてそれをマリア・ベルリンに投げ渡した。
「それでDNA鑑定でもしておくれ。あ、くれぐれもその子の血を採取したりする時は、その子が痛がらないような最新の注射針を使ってくれよ? こんな私でも、その子が泣いたりするのは嫌なんだ。お願いさ」
「……依頼を引き受けるのは良しだ。この子どもを守るというのも了承した。けど、それでもまだ何か引っかかる。篠ノ之束博士。お前が不安に感じる程の何かとは何だ? この子どもを他所に逃がしておくほどの被害が出ることなのか?」
「……うーん。君って優秀だね。伊達に幼少期を子ども兵として過ごしてない。うんうん」
「……」
「まあでも、それを教えるのはナシだ。何しろ依頼とは範囲が違う。私が頼むのはその子のお守りだけさ。だから、あまり踏み込んでくるなよ? マリア・ベルリン」
「…………そうか。すまなかった」
頷き、マリア・ベルリンの視線が重吾に移る。
私は膝を曲げ、重吾に視線を合わせた。
「さ、お母さんの話しを聞いてくれるかい?」
「うん」
どこか不安そうな重吾の表情。
輪郭をなぞるように手のひらで優しく撫で、私は我が子を一度だけ抱き締めた。ミルクのような甘い香りが鼻を掠める。
この子と共に生きて五年──考えていること、感じていること、それらがある程度判るようになった。確信としてでは無い。まるで可笑しな話だが、私がするにはとてつもなく素っ頓狂な話だが、この子のことは理屈ナシで"よく解っている"つもりなのだ。
「おかーさん?」不安そうな声だ。
私はハッとしたように微笑んだ。隠せたか? この焦燥を。
「おかーさんね? これからちょっとお仕事しなきゃいけないんだ。だからお家に帰れないの。ご飯も作れないから、しばらくは一緒に居られないんだ」
「……この人と居るの?」
「うん。流石は私の息子だ。そのとーり!」
「……」
「……うん。ま、そうだよね」
寂しいよね──。
暗い影を落とす重吾と額を合わせ、目を閉じる。
「ごめんね、重吾。少しだけ……我慢して」
「……や。おかーさんといる」
「んむぅ……困ったなぁ……」
「…………やっぱり我慢する」
甘えたい、寂しい、けど、困らせたく無い。
様々な感情の入り混じり。決して五歳の童子が感じていいものでは無く、あまりにも深く、湖の奥底のような深みである。
「……じゃあ、またね」
あえてそれ以上は何も言わず、軽く頬にキスをして離れた。どこか名残惜しいような表情を見せる息子のことも、あえてそれ以上見ることはせず、視線を逸らした。目頭がジンと熱く感じた。
「よろしく頼むよ。また、半月後に来るから」
言って、その場を立ち去ろうとしたその時、
「待て」
と。マリア・ベルリンが止めた。
「お前……誰か殺ったな?」
ふわりと流れた夜の風。
「──……あは」
その風に運ばれてきたのか、血の香りが私の鼻をくすぐった。
続く