──日は沈んだ。
──ここからは、夜が来る。
◇◇
生徒が自室に帰り、消灯時間が訪れた。
静まった廊下は仄かな外灯が照らしている。
風が窓をカタカタと揺らす。
人の気配というものが無い。そう、夜だ──
かたり、と"廊下の隅"の花瓶が傾いた。
小さな音だが、巨大な音。
静けさが支配する世界が、夜の妖艶さを演出する。
「ふざけるなよ」
しかしその静寂を破った声があった。
黒のスーツに身を包んだ女性。織斑千冬である。
「……」
「黙るな。答えろ」
千冬は目の前の束を睨み付けた。
「別に……話してただけだよ」
それが問題なのだ──。
千冬は奥歯を噛み締めた。
「更識には関わるな。いいな?」
「……」
答えない彼女の恣意は分かる。しかしそれは正しいことでは無く、遠い回り道のような考えだ。必ずしも正しいという訳では無い。
「……それだけだ。悪かったな」
きっと束は聞き入れていないだろう。
千冬は口惜しさを感じながらも、しかしここは引こうと考えた。変に事を荒立てれば、彼女が何をするかわからなかったからだ。不安要素なのだ。今の彼女は。
細く息を吐いて腕を組む。
消沈したように俯く束を、ジロリと見つめた。
あまり見ない友のそんな様子は、千冬に一抹の不安を抱かせた。
「いいじゃないか……話すくらい」
「……何度言えばわかる? 近くな、と言ったんだ」
「……うるさい」
小さく漏らしたその言葉を無視する。
こめかみの辺りに違和感を感じたが、反応しない。
千冬は「それだけだ」と、立ち去ろうとする。
しかしまだ何かあるかのように、束が口を開いた。
「そういえばさ……会議、どうだったんだい?」
会議……とは──?
「……ああ。……お前の名前を出したら即案だったよ」
きっと政府の会議のことだ。数刻前の。
今回の事件の対応策として、警備の強化を篠ノ之束本人に依頼したと告白したら、すぐに可決されたのだ。思い出すだけで怒りが込み上げてしまう。
「ふーん……そっか」
なんだ。言いたいことでもあるのか?
「言っておくが、今更引き受けを拒否──なんてことは許可しないぞ。お前は確かにその口で、「罪滅ぼしをしたい」と約束したんだからな」
そうだ。束は確かに宣言した。覚えている。ほんの数刻前の出来事だから確実だ。
何の考えがあってのことかは知らないが、そう提案したきたのならば、こちらとしては利用したい。ただでさえここは重要な区域なのだ。守る必要がある。
「違うよ。私はさ、面倒くさいことしたなーって……そう思っているんだよ。ね、ちーちゃん」
なぜか、妙な言い回しをする。
こいつは──何を考えている?
少し警戒心が産まれた。千冬はそれを灯したまま、束の両目を見据えた。そのどこか寒気のする瞳を、逸らさぬように追いかけた。
「別に、この学園には重吾がいるんだ。私が来て守る必要なんて無いんだよ。だから面倒くさいんだ。来た意味が無いから」
「……重吾が……守る、だと?」
なんだ? 頭の底に違和感が……──いや、これは、
「そう、守る。だって──」
何故か、その次の言葉が判った。
だから聞き届けないようにした。
しかし、それはスルリと入り込む。
束の放った言葉は、千冬の耳に滑り込み、全身の血液を沸騰させた。そして激情させた。
──千冬は、殺意を抱いてしまった。
「貴様ぁ……ッ!!」
篠ノ之束。彼女の発した言葉。
それは「彼」を知る者にとってあまりにも酷く、そして許せない言葉だった──
◇◇
──同刻。廊下の影。
そこでは束の言葉を聞き、千冬とほぼ同時に怒り、そして静かに嗚咽を漏らす更識楯無が存在した。
「嘘……嘘よ……ぐっ、うぅあ……っ」
堪える涙が声となって溢れていた。
泣き崩れる楯無は、先ほど廊下の影から聞いた篠ノ之束の言葉を思い出し、
『そう、だって──重吾の事をそう"洗脳"したから。……自分を犠牲にしてでも、大切なものを守るっていう風に──』
「井伊月……くん」
「彼」ではなく、重吾のことを強く想った。
そして心の隅で、あることを決意したのだった。
続く