紅茶は既に冷めたが、また新しいのを淹れたら大丈夫だろう。幸い茶葉は沢山あるから、好きなだけ飲ませてあげられる。いやいや遠慮はいらないとも。時間たっぷり、その味を楽しむといい──
「……で? なんなのかしら、これは」
楯無が見下ろす視線の先には二人の男女。
片方は妹の更識簪。
もう片方は井伊月重吾。
なぜこんな状況があるのか? それは少し前の時間に遡る。……あ、いや、だからといって説明するのは面倒くさいから省いちゃうんだけどね。てへ。
「もう……ビックリするじゃない」
細く息を吐いた楯無は仕方なしと微笑んだ。
それにふわりとした空気が流れ、幾分か雰囲気が和らぐ。互いに顔を見合わせた簪と重吾は胸を撫で下ろしていた。
しかし、それで許すつもりは毛頭なかった。最後まで食えない女──それが更識楯無なのである。
「じゃあお詫びとして簪ちゃん!」
「な、なに……?」
「私に悪いと思っているなら、可愛い感じで語尾に「にゃん」って付けて喋って欲しいなあ〜」
「え? じょ、冗談……でしょ?」
「……あはっ♪」
満面の笑みで笑ってやると、それがマジだと理解したのか、簪が今まで見たことのないような顔をして、口をパクパクとさせる。隣にいる重吾はそんな簪の姿を見て、ガタガタと小刻みに震えていた。
「はい。それじゃあ井伊月くんはね〜……」
ペロリと舌を舐めた楯無は、次の獲物にターゲットを向けた。
その標的に捉えられた重吾は、勢いよくこちらに顔を向け、お慈悲をと言わんばかりの視線を向けてくる。それに少しだけお腹の辺りがキュンと熱くなった。
あらやだ、いけないいけない。私ったら楽しんでる。
楯無はいつの間にか先ほどの悩みを忘れ、このひと時に楽しみを感じていた。まるで他愛ない会話をしているかのような気分の良さを感じていた。
「井伊月くんは、私に膝枕をされること♪」
「……え? ひ、膝枕⁉︎ してして!」
……なんて調子のいい子だこと。
先ほどから一変してテンションの上がった重吾の姿に思わず苦笑してしまう。隣に座ってきた重吾のソワソワとした様子にニヤニヤとしてしまう。
「ほら、いらっしゃい」
ポンポン、と膝を叩く。
「お邪魔しま〜す!」
はち切れんばかりの喜び方だ。ああもう。可愛い。
飛びつくように膝に頭を乗せてきた重吾の頭を、優しく撫でてやる。少しくすぐったげにする彼に、少しばかりの優しさを与えてあげる。
何故だろうか、不思議と気恥ずかしさは無かった。むしろ、彼に尽くしてあげたい──そんな献身的な気持ちが溢れていた。しかもそれは悪くなくて、心地良いと感じる。その……なんていうか悪くないのだ。彼に尽くすことが。
「こんなこと、滅多にしてあげないんだからね?」
「うへへ〜え」
「……えっちな顔……にゃん」
うんうん。簪ちゃんはちゃんと約束を守ってるわね。可愛いたったらありゃしないわ。
顔を真っ赤にして、忠実に語尾を「にゃん」と付ける簪。なんとも変態的なプレイである。勿論自覚している。けれどやめられないな、これは。
スリスリと頭を擦り付けてくる重吾の頭を撫でつつ、簪の可愛いらしい姿を見つめる。それは冷たい環境の中で育った楯無にとっては異常でしかなかったが、そんな可笑しな光景は新鮮で新しくもある。つまり最高の娯楽であり、最高の暇潰し。面白可笑しいそんな日常が、私こと更識楯無にとっての最高の幸せなのだ。
「……そうだ。あのね、会長」
と。そんな時、重吾が口を開いた。
「ん〜?」
少しうつらうつらとしていた楯無は、こちらを見つめる重吾に微睡んだ視線を向ける。彼はどこか真剣な顔をしていた。
「……もしかして、昨日のこと?」
楯無は思い出した。病室で重吾と別れたあの昨日の出来事を思い出した。そして思わず顔を顰めてしまった。
「ごめんなさいね。あれは私が悪かったのよ」
ゆっくりと重吾の頭を撫でつつ、想いを込めた謝罪を呟いた。
けれど重吾はそれを拒否した。「違うんです」
「あの時、会長は僕を心配してくれてた。けどなんだかあの時の僕は変で……会長のこと……冷たく……」
「……そっか」
重吾は後悔していたのだ。昨日のことを。だから簪と共に自分の部屋を訪れたのだろう。急な来訪の理由がわかった。
「ほんとに優しいんだから」
楯無はそれに思わず嬉しいと感じてしまった。悲しんでいたのは自分だけじゃなかったんだと思い、心の中で安堵した。だから彼に対しての返答は決まっていた。
「……──いいよ、大丈夫」
ああ……そっか。やっぱり私、この子のことが好きなんだ。
呟いた言葉が、なんと暖かいこと。
彼の頭を撫でているだけで愛しさが溢れてくる。
これが恋と言わずに何と言うのだろう。誰か教えて欲しい。私は彼に尽くしたい。守りたい。これが、いけないことなのかどうかを──
「大丈夫。私が守る。貴方と一緒に戦うから」
自然と出た言葉だったが、本心でもあった。
もう重吾の傷付く姿は見たく。私達を守るように洗脳されているのがどうした。だったら私が彼を守ってその意味を無くしてやる。ざまあみろだ。
少しだけ重吾の頭を抱いた楯無は、静かにその決意を固めた。仮初めだった覚悟を頑なにした。
「簪ちゃんも、絶対に守るからね」
「……にゃん」
「ぷっ……くくっ、もう……可愛いんだからぁ♪」
そうだ。大切なのは重吾だけではない。目の前にいる簪もその一人だ。家族なんて括りは関係無い。大切だから守るのだ。絶対に失ってたまるものか。
グイと簪を引き寄せ、重吾共々に抱き締めた。溢れんばかりの感情を表現し、強く強く抱き寄せた。
苦しそうな声をあげる二人だったが、その顔は幸せに綻んでいた。ありあまる楯無の抱擁に幸せを感じていた。
「僕もみんなを守りますからね!」
「わ、私も頑張る……!」
「そっか……そっか……──うん、ありがと」
何かを隠すように上を見上げる。熱くなった目頭から湧く涙が零れないように、静かに声を押し殺す。
重吾の優しさ、簪の覚悟。
それがどれほど嬉しいものであるのかは、楯無本人しか知り得ないこと。けれど身の内から溢れてくる感情は、どうしようもない、防ぎようのない涙として流れていった。
「ありがとね……ありがとね……っ」
ええ、そうね。本当に幸せ者だわ──
感じる熱は幸福から。
流れる涙は安堵から。
内側と外側からくる波はあまりにも優し過ぎて、気を抜けば熱に犯されてしまいそうになる。けれどもそれは決して苦しくない熱で、私は身を任せたいと思うのだ。
──だからこそ怖いと感じる。
──だからこそ守りたいと思う。
女の本能故か、有り余る愛がこの身はあった。たった二人の男女には注ぎ切れない量の「気持ち」が、我が身の内柄を埋め尽くしていた。
守る。ええ……守ってみせる。私はきっと、この幸せを忘れないから──
「今日という日に感謝を……。私は……貴女達を決して見捨てたりしないから……」
──かちり。
そしてどこかで、スイッチの鳴る音が聞こえた。
続く