君と僕の物語   作:名無しの執筆者

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なたけためら


第五十五話 「想い」

 学園の戦士達は、思い思いに準備をしていた。

 亡き母と父に祈りを捧げる者。

 慣れ親しんだ銃器を手入れする者。

 故郷の家族に言葉を伝える者。

 かつての師に教えを請う者。

 迫り来る恐怖に抗う者。

 確固たる意思を示す者。

 そして、仲間を信じる者。

 淀んだ波に包まれた学園の中、その光は爛々と輝いていた。

 

「──で、何の用?」

 

 そしてその瞬きの一つである更識簪は、珍しい客人に、そんな冷たい言葉を贈った。寒空の下の整備室の中、たった二人である。

 

「いや……別にそんな用事があった訳じゃ……」

 

 もてなされる訳でも、励まされる訳でもない。

 簪の元を訪れた珍客──織斑一夏は入り口に立ったまま言葉を詰まらせた。

 〈打鉄 弐式〉を調整する手を止めた簪は、両手にはめていた厚手の手袋を隅の椅子に掛ける。油で汚れた頬を拭い、眼鏡を掛け、そして不安と焦燥に満ちた一夏の顔を見つめた。

 

「みんな、自分の出来る事をしてる。貴方は、何をしてるの? 専用機でも不調なの?」

「……いや、違う」

「そ。じゃあ、お昼ご飯でも食べてきたら? もう時間は昼過ぎだよ、織斑君」

「……」

 

 黙り込む少年。

 両手を払い、鼻を擦った少女。

 つん、と鼻腔をくすぐるオイルの匂い。

 少女の努力と時間の消費を物語る整備室の中で、二人の人間が互いの想いを隠しながら、静けさに身を包む。

 

「……言ってたよな」

 ぽつり、と口を開いた一夏。

「なに?」

 簪は眉尻を上げた。

「みんなの前で、「戦う」って……言ってたよな」

「……」

 

 ──……なに、この人?

 

 簪は彼の言葉に、何故か怒りを感じた。

 言葉の呟きが弱弱しかったからではない。

 彼に自信が無かったからではない。

 ただ──ただ、その逃げるような言い方に苛立った。

 

「なにそれ」

「……え」

「私が戦うって言ったから、「仕方ないから俺も戦おう」って思ったの? 私の言葉を理由にして、自分の戦う理由を勝手に決めたの?」

「ち、違うっ! 俺は更識さんに──」

「ふざけないでよ!!」

 

 広い空間に響き渡った絶叫。咆哮。

 簪の怒りは一夏をたじろがせた。

 

「もし貴方にその考えが無かったとしても、私は貴方のその態度が許せない! 重吾も怪我して、箒だってどこかに行っちゃったのに、貴方は何をそんなにビクビクしてるの!?」

「な、なんだよ急に……っ!」

 

 と。そこで簪はハッとした。

 気付けば、目の前にあるのは動揺する一夏の顔。

 口を押さえた簪は一歩下がり、喉元にあった言葉を飲み込んだ。そしてどうしようかと周囲を見渡し、再び彼に視線を戻した。

 

「ご、ごめんなさい……私、何言って……」

 

 本当に分からなかった。

 まるで自分が自分ではない気がした。

 髪を押さえつけた簪は、恐る恐る一夏を見遣る。その顔がどんな表情をしているのか、知るのが怖かったが、ゆっくりと確認した。

 

「……」

 

 彼は、暗い表情をしていた。

「あ……」と短く言葉を零した簪は、そんな彼に胸が痛くなった。言ってはいけないことだったんだと、後になって後悔した。

 

「ごめんなさい……」

 

 簪の呟きは掠れて消えた。

 怖くて一夏の顔が見られなかった。

 ただ、足元に伸びる一夏の影が、入り口に向かって引いていく光景だけが視界に映った。

 そして暫くして顔を上げた簪は、自分以外誰もいなくなった整備室の静けさに、後悔と苦しさを混ぜた吐息を吐きだした。

 ──なに、してるんだろう。

 椅子に座り込み、眼鏡を外した。体だけでなく、心も疲れ切った簪は、ぐったりと背中を椅子の背もたれに預けた。

 視界は霞んでいた。

 ゴシゴシと目元を擦ると、そこで初めて、自分が泣きべそをかいていることに気が付いた。

 

「私、泣いてたんだ……」

 

 酷い奴──そう、簪は自分を戒めた。

 相手の気持ちも考えず、言葉で押し込む。それは過去に簪を酷く怯えさせ、そして絶対にしないと自身で誓っていた行為だった。だからこそ、それをした自分を恥じていた。

 思い返す度に溜息が溢れた。

 彼の落ち込んだ顔が忘れられなかった。

 頭を抱えた簪は身を縮め、そしてまた吐息した。

 

「……調整、しなきゃ」

 

 いくら落ち込んでも、今はどうにもならない。

 簪は重い腰を上げ、椅子から立ち上がる。背もたれに掛けておいた作業手袋をはめ、工具を取りに行く。そして天井から垂れる鎖に繋げた愛機の元に戻り、眼鏡を掛けて鼻先を擦った。微かに薫った鉄の匂いに、少しだけ気分が落ち着く。

 そして簪が作業に取り掛かろうとしたその時、人の気配が空気を震わせた。

 振り返ると、そこには眼帯の少女が立っていた。

 

「……気落ちしているな」

 

 軽く手を上げた眼帯の少女──ラウラは微笑む。

 簪はそれに苦笑で返して、視線を落とした。

 

「やっぱり、わかる?」

「友達でなくてもな」

「……そっか」

 

 ──やっぱり、駄目だ。

 完全に集中力を無くした簪は、〈打鉄 弐式〉を待機状態に戻し、その指輪を指に嵌めた。散らばる工具やケーブルを壁に寄せて作業を止めた。

 横目でそれを見ていたラウラは、片手に持っていたジュースを傾け、コクコクと喉を鳴らした。

 工具を片付け、というよりも一箇所に集め終わった簪は、そんなラウラの元に歩み、細く溜息を吐いて膝を曲げた。床の辺りを漂う冷気。それが肌をくすぐる。

 

「そんな調子で大丈夫なのか?」

「うん。……多分ね」

「おいおい」

 

 苦笑したラウラ。

 彼女は飲んでいたジュースの蓋を閉じ、片手に持つ。

 じゃぽん──とジュースが容器の中でかき混ざる音が鳴った。

 

「……ここに来る時な……織斑一夏とすれ違ったのだ」

「……」

 

 ドキ、と心臓が跳ねる。

 

「あれは駄目だな。もう戦えんぞ」

「……元々、彼は代表候補生じゃないよ」

「ふむ……確かにそうだが……。少し、残念だな」

 

 残念、という言葉が、簪の頭に引っかかる。

 なぜ、と視線を向け、簪はラウラに問いかけた。

 

「だってあいつ、一生懸命だったろう?」

「え──」

 

 横を見る。

 そして交差した、ラウラの瞳。

 心の底を──見透かすような瞳。

 

「そ、そうかな?私は……別に……」

 

 いや、違う……私は、気付いてた──

 

「別に……あの人は……あの人、は──」

 

 答えまでの道のりは、容易かった。

 

「……なあ、簪」

「……」

「あいつも──お前の友達だろう?」

 

 ここに来た時の、彼の不安だった表情。

 誰にも相談出来なくて、一人だった頃の私。

 簪は答えるまでも無く、聞くまでも無く、言葉の正解を己の中で完結させる。

 頑張っていた。頑張ろうとしていた。

 踏み出そうとしていた。踏み出したかった。

 あとひと押し。背中を押す言葉。

 重吾を傷付けてしまった彼は、前に行こうとしていた。

 私とは違って、振り返ることはしなかった。ただ前に、前にと、それしか知らなかったのではなく、それが一番だと知っていたから進もうとしていた。

 最後の強さだったのだ。あれは。

 ここに来たその意思が、彼の振り絞った勇気だったのだ。

 しかし私は、それを無下にした。あの人には戦う意思が無いと勝手に判断したから、突き放した。

 ──ああ、彼の暗い顔が蘇る……。

「ごめん!」

 そう言ってからの簪の行動は早かった。

 整備室を飛び出し、転びそうな程の勢いで駆けた。

 ラウラはジュースを飲みながら見送った。ここにきて新しく出来た友人が、上手くいきますようにと祈りながら。

 

(ごめんなさい……! 織斑くん、ごめんね!)

 

 目の前が霞んだ。

 擦ると、涙だった。

 簪は唇を噛みながら走る。

 かつての自分と同じ、孤独な彼に謝る為に。走る、走る。

 廊下を何度も転びそうになる。

 壁に肩をぶつけた。

 それでも簪は、彼の姿を求めて走った。

 

 ◆

 

 織斑一夏は夕日が映える丘のベンチに座り、黄昏ていた。

 ぼうと風景を見渡し、赤い景色の写真を目に焼き付けていた。

 

「──なーにしてるのかしら?」

 

 と、そんは時、不意に一夏に誰かが話しかけた。

 肩越しに顔を向けた一夏は、傍に立っていたナターシャ・ファイルスに少しだけ驚き、それから軽く会釈した。「……ども」

 

「あらら、何かあったのかしら」

 

 ナターシャは一夏の隣に座る。

 一夏は鼻をくすぐった甘い香りに口を曲げた。

 

「いえ……別に何も無いです」

 

 意地を張る子ども──ナターシャの目に映る一夏は、そんな風に見えた。くすり、と笑みが溢れる。ナターシャは優しげに視線を流し、「何かあった」少年の横顔を見つめた。

 そんなナターシャの意味ありげな視線に気付いていた一夏だったが、あえて視線を合わせる事はしなかった。彼女との距離の近さも原因ではあったが、本当のところはもっと別である。

 黄昏る少年。

 年相応ではない生意気なその気取りに、ナターシャは可愛げすら覚えた。しかしそれと同時に、時折見せる少年の「死」の雰囲気に疑問を感じ、頭の中の記録を探った。そしてそのうちにある一つの事を思い出し、口角を下げた。

 

「……ねえ、学校楽しい?」

「……え?」

「たくさん大変な事が起きてるけど、楽しいかな?」

 

 一夏は眉を顰めた。命のやり取りが起き続ける学園生活を楽しめる訳がなかったからだ。

 

「楽しい訳ないですよ……こんなの」

「うん。その通りだわ」

 

 うん、と頷いたナターシャ。

 彼女はうん──と、当たり前だと頷いた。

 一夏は目を見張った。大人だが、彼女が一体どういう考えをしているのか心配になったからだった。この夕日に染まる丘で一夏は疑問に駆られた。

 

「じゃあ、楽しい学校生活を送りたい?」

 

 また、当たり前の事──

 

「はい」

 

 だから、一夏の答えは「はい」。

 

「強くなりたい?」

「はい」

「守りたい?」

「はい」

「どんなことをしても?」

「はい」

 

 強く、強く。

 ナターシャの問いかけが続く。

 一夏の返答も続く。

 繰り返す度に強くなる互いの口調。高まっていく音楽のように、赤暮れの太陽がナターシャと一夏の横顔を染め上げた。

 

「……あの、これって何か意味があるんですか?」

「うん?」

「同じような質問ばかりですよ……」

 

 と、一夏が問いかける。なぜ?と。

 するとナターシャが苦笑した。なんでだろうね、と。

 鳩が豆鉄砲を食らったようにポカンとした一夏は、あまりにも予想外なナターシャの返答に固まった。

 その鼻先を人差し指で押したナターシャは、とても妖艶に、それでいて可憐に微笑んだ。夕暮れに照らされる彼女の笑みは、酷く酔ってしまいそうな魅惑を漂わせていた。

 数度のまばたきをし、一夏は喉を鳴らした。そしてナターシャに頭に手を置かれ、優しく撫でられる。次々にくる突拍子もない彼女の行いに、一夏は頭が真っ白になっていた。けれど少しだけ、彼女から伝わる温もりに安らぎを感じていた。

 しん、と空間が静まり返る。けれどそれは優しい静けさ。

 ナターシャの寵愛が一夏を包み込んでいた。存在しない母を想像してしまうほどの温かさが少年の心を満たしていた。それはなんて、優しい時間なのだろう。嫌な事も後悔も、その優しさの中に溶け込んでしまう──

 

「──あ」

 

 暫くの間、時を忘れていた一夏はようやく息を吸い込んだ。

 微笑み続けるナターシャは、そんな一夏を親愛と共に見守る。優しく、優しく。

 ナターシャは魅力的な女性だ。そんな異性から見つめられてしまえば、純朴な一夏は目を逸らしてしまう。しかしそれすらが可愛らしかった。ナターシャにとっては。

 ふと、そんな時、一夏は思い出した。

 ──あれ、俺……前にもこんな事が……。

 思い出そうとする一夏。奥底に眠る記憶を掘り返す一夏。きっとそれは小さな頃の記憶だからと眉を寄せ、顰め、記憶を脳裏に浮かばせる一夏。

 だがその記憶の映像は壊れたようにノイズが掛かっていた。朝日を遮る霜のように深く、深く、覆いかぶさっていた。払うことの出来ない鍵によって、思い出せなかった。

 不自然の苛立ちと、苦しさを感じる一夏。

 胸に手を当て、拠り所を求めるようにナターシャの暖かさをより感じようとする。

 それに気付いたナターシャは、少しだけ悲しそうな表情をしてから、それからまた優しい手付きで一夏の頭を撫でた。

 

 それは恐ろしい程、優しい時間──だから、

 

「……ナターシャさん、俺──」

 

 ◆

 

 廊下の曲がり角を曲がったその時、視界に人の影が映った。

 このままではぶつかってしまう距離と勢いだった。

 無理矢理に足首を捻って方向を変えた更識簪は、その無理の所為でよくに受け身も取れずに背中から派手に転んでしまう。

 息切れも相まってとてつもない疲労感と羞恥心に覆われた簪は、真っ赤に顔を染めて歯を食い縛る。

 

「か、簪⁉︎ すまない、見ていなかった!」

 

 気付けば、簪が避けた人物は篠ノ之箒だった。ここ数日行方が知れなかった彼女は、倒れる簪に手を差し伸ばした。

 思わぬ人物にポカンとした簪だったが、箒が伸ばす手に気付き、それを借りて立ち上がる。が、やはり足首を無理に曲げた事により痛めてしまったらしく、鈍い痛みが簪の足を襲った。

 膝から力が抜けてしまい、簪が崩れる。

 それをタイミングよく支えた箒は、簪が浮かべる苦悶の表情に辺りを見渡し、保健室を目指そうと頷いた。

 

「歩けるか?」

「……な、なんとか」

「よし。肩を貸すからゆっくりだぞ」

 

 箒の行こうとする先を理解したのか、簪は足並みを揃えて歩く。

 

「珍しい事もある。簪がそんなにも焦るなんて」

「……ちょっとね」

 

 織斑一夏の事──これが何故か言ってはいけない事だと思った簪は、内容を伏せて返事だけを返した。

 

「ふふっ。織斑先生でも怒らせたか?」

 

 くすり、と笑う箒。

 簪はそれを見て、少しだけ気持ちが軽くなった。

 

「箒は凄いね。強い人って感じがする」

 

 口から出た本音。その吐露に内心自分で驚く簪だったが、無かったことにしようとしないのは、本当の思いだったからである。

 言われた箒は、少し恥ずかしげに息を漏らしながら、素直にそれを受け取った。「ありがとう」と。

 互いの間に流れたのは沈黙だった。

 頰を朱色に染めた少女達は、そして静かに廊下を進んだ。

 

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 無事に保健室で手当てをしてもらった簪は、箒と共に購買近くのテラスに腰掛けていた。テーブルにあるお菓子は購買から買ったもの。いかにも少女が好みそうな甘いお菓子が並んでいた。

 

「ありがとね、箒」

「いいさ。またいつでも手を貸すぞ」

 

 スティック状の菓子を小動物のように食べる簪と箒。

 その姿、なんとも愛らしいこと。両者の姉が見れば、萌えること間違いなしである。

 

「……いい風が吹くな」

「うん。……ちょっと寒いけどね」

 

 少しはにかみ、簪が腕をさする。

 季節は春だが、まだ冬の名残りは残っていた。

 

「ふう……。うむ、やはり好きだな、こういった時間は」

 

 幸せそうに頷く箒。

 

「のどかなの……好き?」

「年寄りくさいから恥ずかしいんだがな……ああ、好きだ」

「……ふーん」

 

 のどか──という言葉が引っかかった簪。

 箒はそんな簪の様子には気が付かず、風を感じる。

 二人の間に生まれたのは、不思議なすれ違いだった。

 箒が今、感じているのは風の心地良さ。

 しかし簪が感じるものは、その心地良さを生む平穏の違和感。

 似つかわしく、そして真逆の感じ方。もっと易しく言えば、余裕があるかないかだった。相互の違いは。

 浸るものが平和であるかどうかで、変わっていたのだ。

 片は、殺人で営む家系。

 方は、殺人に狂わされた家系。

 似てはいない。これは根本が違うものだ。

「する」と「される」──こんなにも違っていいのか。

 戦争と同じだ。

 彼女は戦争を炊き上げた。

 彼女は戦争で汚された。

 違う、ああ──違うとも。それは、全く違うのだ。

 奪った。奪われた。

 自由、未来、平和──尊厳、屈辱、羞恥と傷。

 感じる風が穏やかなのは、奪われたことがないから。

 平穏を疑うのは、奪われたことがあるから。

 では、奪われた者は愛を知らないのか?

 ──違う。

 では、奪った者は孤独を知らないのか?

 ──違う。

 

 ああ、違うとも。

 

 なら、もう一度である。

 片は──「した」のだ。

 片は──「された」のだ。

 何気無い日常を奪われたのだ。

 仕事だといって人を殺める家なのだ。

 

「簪……私は今、とても幸せだ」

「──そっか……」

 

 しかし、だとしたらそれは、どちらが「加」であり「被」であり、簪か箒なのだろうか。どちらが加害者であり、被害者であり──そして「本当」なのだろうか。

 答えを出そうとしても、その糸口さえ解らない二人には、その究明は無意味なものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 ひとつ、ふたつ──みっつ。

 と。数えるのは、もう飽きた。

 重吾は溜息を吐いた。様々な感情と共に。

 何も無い、カラッポな気持ちが胸を満たしている。

 穴が空いた其処を埋めるのは、人だ。暖かさをくれる人だ。

「──よっーつ」

 掠れた声で重吾は呟いた。

 彼は、何度もこれを繰り返していた。

 幾度もの発声は喉を傷付け、そして心も摩擦させていた。

 虚空を見上げる重吾の瞳は、仄暗い井戸のよう。

「……もう、数える場所が無いや」

 時間の流れも麻痺するほどの無。

 人が生きられない環境だと、彼は無意識に思った。

 食には困らない。牢屋の隙間から数回に分けて与えられる。

 睡眠も充分に取れる。ふかふかのベッドがある。

 排泄も、清潔も、人が人として生きられる環境はある──あるのだが、「他者」という決定的なものだけが欠けている。彼にとって不可欠であるそれは、目覚めたその時から奪われていた。だから彼の瞳は濁り、睡眠すらまともに取れていない。欠けたそれを求める程、心が磨り減っていくばかりで。

 

『これじゃあ、守れないね』

 

 冷え切った冷気を吸い込み、咳き込む。

 軋む体を起こして壁にもたれ、乾いた食事を掴んだ。

「……いただきます」

 口に入れた食べ物の味など感じない。

 重吾は生きる動作をした。

 それはなんて、機械的な事だろう。

 ただ、彼の瞳から流れる涙を除いて──。

 

「……みんな……寂しいよぉ」

 

 途切れ途切れの声。

 しかしそれは、この静けさだからこそよく響く。

 四角となる壁に隠れた織斑千冬が苦しげに口を歪める程、彼の心からの言葉は空間に染み渡った。

 




続く
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