そろそろ夜が来るな。
窓の外を見上げ、織斑千冬は思った。
気が付けば、周りは書類の山だらけ。時間を忘れ、作業に没頭してしまっていたようだ。酷い肩の痛みと目の疲れを感じる。
職員室の隅にあるコーヒーメーカーから珈琲を注ぎ、眠気覚ましも兼ねて飲む。ふう、と息を吐き、そして千冬は棚に腰掛けて職員室を見渡した。
「……」
珈琲を飲みながら、静かな職員室を見つめる。人のいない職員室は不思議な雰囲気で満ちていた。
窓の外が次第に暗がりを持ち始めていた。
珈琲を静かに飲みながら、景色の変化を肴に休憩のひと時を味わう。落ち着く。
暫くぼうとして、それから珈琲を飲み干した。
棚から降りてカップを洗い、再び自分の机に戻った。
まだ終わりの見えない書類の山から一枚取って、記載された文字の羅列を読み取る。すると判子が必要な部分があり、机の引き出しを開けた。中にしまってある判子のケースを探す。
「──……そういえば、そうだったな」
目当ての判子を見つけた時、一緒にもう1つの物も見つかる。それはマグカップ。かつて井伊月重吾にココアを与えた際に使ったマグカップだ。
少し懐かしく感じ、マグカップを机の引き出しから出した。
机の上に乗せ、彼の顔を思い出す。
──そういえばあいつは、ココアが好きだと言っていたな。
思い出だ。今では、遠い日の。
そして自分の戒めの記憶でもある。
立ち上がり、また机から離れた。マグカップを持ってだ。
先ほど珈琲を飲んだ場所で湯を沸かし、棚からココアの粉を取り出した。それを持ってきたマグカップと自分が用意したマグカップに入れ、湧いた湯をその両方に注いだ。甘い香りが上がる。
出来上がったそれを自分の机に持って行き、並べて置く。そして書類の山を少し整えてから、改めてマグカップを向かい合うようにして置いた。あの日を思い出しながら、微笑みながら。
「……ふっ。私は馬鹿か」
しかしそこで、何をやっているのだとおかしくなる。一人しかいないのに、何故二つもココアを用意したんだと──おかしくなって泣きたくなる。
気持ちを紛らわすようにココアを飲む。
しかし猫舌が飲むのを邪魔した。途端にブレーキがかかる。
本当に情けない。
マグカップを机に置き、項垂れたその時、職員室の扉が開いた。廊下の光が中に差し込まれ、入り口に立つ人物の影が伸びてくる。
顔を上げ、入り口を見遣った。
逆光の所為で顔はわからない。いつの間にか、完全に日が落ちていたようだ。職員室の灯りを点けよう。
「あぁ、どうした、楯無──」
入り口に立つ少女の名前を言った。
影が揺れる。
マグカップを机の端に置いて、職員室の明かりを点けた。それによって暗がりも影も消える。
入り口に立つ少女は、少しだけ迷うように視線を彷徨わせた後、ゆっくりとそこから離れた。並べられた机の列を進み、こちらまで歩んでくる。
少しだけそれに緊張し、視線を下げた。
マグカップを無意識に奥へやり、彼女から隠す。
「こんばんわ……」
浮かない様子と静かな声の沈み。
楯無は落ち込んでいるようだった。
あまり他人事では無いと思って、そんな彼女を見て胸が痛くなる。針で刺されたような痛みを感じる。
キュッと口元を引き締め、そんな彼女と対峙した。
「あまり遅くまで頑張るなよ、楯無」
精一杯の言葉である。
喉が一気に乾いた。緊張する。
彼女にかける言葉の一つ一つに気を付けなければいけない。その義務と当然がある。
静まり返る職員室が、なんと居心地の悪いこと。
今ここには、互いに「事情」を抱えた女が二人もいるのだ。反発し合うどこらか、なまら大人である分、相手を気遣ってしまう。言葉の発言を譲ってしまう。
ココアはもう冷めただろうか。
思わず──本当に思わず、隅にやっていたマグカップを持ち上げた。きっとあまりの静けさに、思考が壊れたのだろう。
「……ココア……あの人も、ココアの匂いがしました」
「……」
「もう、忘れましたけどね。私は……」
「私は」──ああ、泣きそうになる。
「あいつはココアが好きだと言っていた」
「……」
「お前には、何も言えてなかった。……すまない」
謝罪。
彼女には、もうこれ以上黙っていられない。
ここで、あの日のことを語ろうと思う。
「楯無──私は────」
続く