隠し通す事が出来ない。
──それは違う。
もう、抱え込むのが辛かったんだ。
夜は更け、外は暗がりで満ちている。
もう、起きている人間も少ない筈だ。
明かりが灯るのは職員室の一角。
そこに楯無と私はいる。
互いの間にあるのは違和感だった。仲違いをしていた訳ではなかったが、向かい合う私達の間には壁とはまた違った気まずさがあった。
「──私はな、」
けれど、進まなくてはいけない。
もう、立ち止まることは耐え切れない。
あの日、あの場所で見たもの。
井伊月重吾という男。
そして彼に関わる人間達。
それを、ここで、彼女に話すのだ。全て。
「あの日……あいつはいなくなった」
空気の重々しさは、語るまでもない。
吐露する言葉も、また鉛のように重かった。
「残ったものは……血だ。──井伊月のな」
ざわ、と彼女の雰囲気が変わる。
怒り、そして動揺だろう。
これは彼女に黙っていたこと。そして騙していたことだから。
「全部、嘘だ。……悲しませたくなったのだ、お前を。──いや、違う。私が認めたくなかったんだ……」
好きだった。彼が。
恋愛感情という尊いものではなく、人間として。
夢に出るほど、それは大きい。
楽しい記憶。一緒に飲んだココア。
微笑ましい夢を見たその日は、思わず微笑む。けれどすぐに思い出す。地面に撒き散らされた、赤い血の絨毯を。
息を呑み、目眩に似た感覚に額を抑える。
自分から曝け出そうとするトラウマは、吐き気のように酷く気分を悪くしてきた。
「お前に隠していたのは、井伊月の生存だ」
「っ! 生きているんですか⁉︎」
「……ああ、"生きていた"」
楯無から伝わる、それは悲しみの気配。
彼女を見るのが怖くなり、視線を逸らす。
込み上げ続ける吐き気と戦いながら、彼女から伝わる感情にも精神が磨り減っていくのが解った。
けれど尚も、言葉を続けた。
「楯無……井伊月はな、黒兎だったんだ」
何を馬鹿な事を言っているの?──彼女の、悲しみと動揺で歪んだ顔は、さらに心を削った。
「酷い……馬鹿にしてるんですね、先生。……ふざけないでください……っ!」
「……」
「何か言って──っ⁉︎」
彼女の顔が、途端青ざめた。
口元を押さえ、涙を零す。
ああ──すまない、すまない──私は酷い奴だ。
彼女の視線の先には、一枚の写真がある。
それは、どこにでもある普通の写真だ。
所有者は自分。撮ったのも自分。加工も複合も何もしていない、撮ったその時から何も変わっていない写真だ。
──そして、井伊月重吾の遺影でもある。
写真の表面に写るのは、血まみれの井伊月。
あの日、「黒兎討伐」作戦が実行されたあの日に織斑千冬が殺した「黒兎」──「井伊月重吾」の死に様だ。
何度見ても、胸が抉られる。
これは、慣れるものではない。
だから、今の楯無は、計り知れない悲しみで死んでしまいそうに違いないと私は思う。
「嘘……噓、嫌です。なんでこんなもの見せるんです……っ。ありえないでしょう!」
「……楯無」
「嘘ばっかり! なんで、いやぁ……こ、こんなの、偽物だ。死んだとか、井伊月さん……い、生きてるもの! あの人はきっとどこかで生きてる! 嘘だっ!!」
「聞け」
「井伊月くんだって、あれ? いや、でも……誰が……だ、誰が井伊月くんを殺したの? 彼は、何もしてないのに……いや、いや、嫌ですよ……嘘だって言ってくださいよ、先生……っ」
「楯無っ!」
「嫌だっ!!」
半狂乱に泣き叫ぶ彼女の両肩を掴む。強く、強く。
そして彼女の瞳を見つめ、顔を合わせる。
楯無の、涙で潤んだ瞳に自分の顔が映った。それで判った。今、自分も彼女と同じように泣いていた。
「もう、泣かないでくれ……やめてくれ……お願いだ。でなければ私はもう──耐えきることが出来ない……っ」
声が震える。
涙が止まらない。
体の底からせり上がってくる寒さが、手を震わせる。
「……だって……だって……それじゃあ……井伊月さんが本当に黒兎だって言うんなら……──先生が、あの人を殺したんじゃないんですか」
そうだ。そうだとも。殺したのは私だ。
だが、仕方がない事だったんだ。知らなかったんだ。
「……もう、やめてくれっ」
言い訳。言い訳ばかり。
言葉を紡ぎ続ける。彼女には謝らなければならないから。
けれど、胸中にある言葉は言い訳だった。
自分は知らなかった。知っていたらやめていた。
まるで子ども言い訳ばかりだ。
「ふっ、ううっ……ああっ……!」
嗚咽だけが、職員室を満たした。
悲しみの波が広がって──広がり続けて、
「そうだ、殺したんだ。あれは、井伊月じゃない……世界の敵だったんだよ」
「違う、あの人をそんなじゃないです……!」
「そうだったんだ!」
「違う!」
「じゃあ、なぜお前を襲ったんだ!」
その追及により、言葉を詰まらせる楯無。
「あいつは、国を落としたんだ。死人だって出た……。お前も見た筈だろう、ロシアを……!」
「で、でも……私を襲ったのは白兎……──」
「だが、奴がしたことは変わらないのだ!」
その瞬間、一気に楯無の顔が引き攣る。
私は、本当に絶望した人間というものを、初めて見た。
楯無から離れ、項垂れる。
重力に従って落ちる涙を拭き取る。
彼女は、黙り込んで、そして何かを堪えていた。
上を見上げているのは、涙を流さない為か。
拳を握り締めているのは、怒りに震えているからか。
呆然とする彼女は、ただ虚空を見つめる。
そんな澄んだ夜の静けさの中、丘の木の上で、つがいの小鳥が身を寄せ合っていた。
続く