ーーどの面下げて、やってきたーー
乾いた洗濯物を取り込みながら、篠ノ之箒は考え込んでいた。
幼馴染である織斑一夏は、どうやったら救えるのだろう。彼の心を満たしてあげるには、いったい何を捧げればいい? と。
そんなことを考えて一時間程だろうか。気付けばずっと、庭の縁側でぼうと空を見ていた。
「……」
小鳥のさえずりが聞こえる。
太陽は雲に隠されても、その陽射しを忘れない。
箒は眩しい青空に心地良くなり、小さく欠伸をした。けれどその際に口元に当てた手に存在する、小さいながらも深い傷を見た途端、嫌な気持ちに胸が包まれた。
朝、一夏もこの傷痕を見て、嫌な気持ちになったのだな。
周囲に誰もいないことを確認した箒は、着ていた衣服を少しだけ脱ぎ、そして自分の体を見下ろした。
刃物の斬れ跡。弾痕の塞ぎ穴。胸の周囲に残された、陵辱という名の暴力の証。
見れば数え切れないほど、自分の体は汚れていた。
風呂に入る度に思い出すあの記憶は、一夏の心をどんどんと苦しめているに違いない。
「一夏は……こんな私を好きでいてくれるだろうか」
女として辱められ、人として尊厳を失い、そして何もかもを奪い取られた。残ったものといえば、この体にある傷痕だけ。女として誇らしく育ってくれたこの胸だって、一夏には嫌な過去を思い出させる要因になってしまう。
いっそ、私が死んでしまえば……ーーー。
と、そこで箒は駄目だと思った。
一夏と会えなくなるのは悲しい。私は、一夏がそばにいるからこうして毎日を過ごせているのだ。
こうやって強く気持ちを持っていられるようになるまで、どれくらいの時間が必要だっただろう。母には迷惑をかけた。それに何より、一夏を酷く傷付けてきてしまった。思い返せば思い返すほど、自分は酷い人間だ。
「一夏……私は救われているんだ。……とっくにな」
あとはもう、彼が救われれば、何も言うことは無い。
と。そこで耳に何かが伝わってきた。
うん? 誰かがベルを鳴らしているのか。
どうやら来客らしい。箒は立ち上がり、すぐさま家の中に戻って玄関に向かった。服装が少しだらしなかったが、お客様を長く待たせるものではない。箒は玄関にある鏡を覗き込み、ぱっぱと髪の乱れを手早く直してから、そして玄関を開けた。
「やあ、箒ちゃん! 久し振り!」
馴れ馴れしく自分を呼んだその人物は、玄関から家の中に入って私を抱き締めてきた。私はそれにどうしようかと思ったが、とりあえずこれを言わなければならないと口を開いた。
「おかえりなさいーーー"姉さん"」
私の姉、篠ノ之束はーーー当たり前のように、
「ただいま!」
私の耳元でそう言った。
◆◆
「ありがとう、箒ちゃん」
「はい」
久方ぶりに帰ってきた姉さんは、何食わぬ顔で居間に座った。呼びに行った一夏と母さんは、姉さんの向かい側に座って、それぞれ違う表情で姉さんを見ている。
私は別段普通に姉さんに接してはいるが、内心では少しだけ動揺していた。ただ一夏と母さんに比べたらマシなだけで、姉さんの存在に違和感を感じている。それだけ束姉さんは、家にいなかったのだ。
「……あの、姉さん」
「ん? なにかな?」
「その男の人はいったい……」
そう、それだ。ずっと気になっていた。きっと一夏や母さんだってそうだ。姉さんの隣で朗らかな笑みを浮かべている男の人が、気になっているに違いない。
「重吾のこと?」
重吾ーーーと彼は言うらしい。
箒は怪訝に顔を顰め、彼の顔を見つめた。
赤茶色の髪は姉さんと全く一緒だ。少し垂れている眼なんて、まんま一緒である。歳は自分に近いのだろうか? あまり年上だとは感じない雰囲気だ。というよりも、何だか幼い気がする。
と。そこで彼と目があった。
箒は思わずビックリしたが、彼からあまり気迫というものが感じられなかった為、暫くのあいだ見つめ合ってしまう。彼の瞳はやっぱり姉さんに似ていて、どこか純粋だった。
「重吾はね、私の子どもなんだ」
「な!? こ、子どもですって!?」
今まで黙り込んでいた母さんが、姉さんの言葉に驚愕する。
もちろん自分だって驚いた。言葉が出てこないだけで、上手く反応を返すことができない。
「苗字は違うけどね? 血は確かに繋がっている親子だよ。ほら見て? 目なんて私にそっくりでしょ?」
「確かにそうですけど……いや、そうじゃありません!」
かなり動揺しているらしく、珍しく母さんが慌てていた。対して母さんの隣に座っている一夏は、何故だが姉さんの子どもという彼をジッと見つめていた。彼も、そんな一夏を見ていた。
「お前……この人の子どもなのか?」
と、一夏が問うと。
「うん、そうだよ!」
彼は元気に笑顔で返した。
ーーーあ、笑った顔が姉さんそっくりだ……。
「そうか……可哀想にな」
吐き捨てるように言った一夏の言葉で、この空間に静けさが浸った。姉さんも何だか少しだけ落ち込んでいるように見える。
「僕、井伊月重吾って言うんだ! 今度、IS学園に入学するからよろしくね、織斑くん!」
「……なに言ってんだ」
「友達になろうよって言ってるんだぁ」
重吾という彼は、一夏に向かって手を差し出した。友好の証と取るべき右手を、満面の笑みで伸ばした。
「意味がわからん」
しかし一夏はそれに触れず、腕を組む。
重吾は渋い顔をして、くしゃと右手を握り締めた。
姉さんはそんな重吾を撫で、口を開く。
「仲良くしてやってくれないかい?」
「……」
「うん。まあおいおい友達ね。ね?」
我が子の顔を覗き込む束。
「……頑張るよ」
重吾は落ち込んだ様子で小さく呟く。
なんだろうか? 彼は本当に自分達と同じ年代の子なんだろうか? 小さな疑問だったが、それは箒の中で喉に刺さった魚の骨のようなものだった。
「……あの」
あまりにも長く沈黙が続いていたから、何か話題を出そうと思った。しかしよく考えてみると、出せる話題なんて熟した老夫婦のようなものばかりである。あまり「流行」というものに手を出していないから、複雑という何というか、情けないことこのうえない。
うんうん唸っていると、どこからか視線を感じた。
感じた方向を見てみると、重吾と目が合った。見ていたのは井伊月重吾であった。彼はなにがそんなに気になるのか、こちらから全く目を離さない。
片手を上げて見ると、そっちに今度は目が移った。うん? 中々面白いかもしれん。あれだな、ペットショップの子犬に似ているな。うむ。
箒が少し楽しいと感じながら重吾の視線で遊んでいると、
「箒、一夏くん。少し向こうに行っててください。……重吾くんも一緒に」
母さんが強張った声でそう言ってきた。
それに箒は一夏に目を向けた。が、一夏はこちらを一切見ず、それを即座に拒んだ。「嫌です」
母さんは何かを言おうとしたのか、口を開きかけ、そしてやめた。きっとどんなことを言ったとしても、一夏が言うことを聞いてくれないと諦めたんだろう。
ならばーーー
「井伊月重吾とやら。私たちは席を外そう」
「いいの?」
「きっとすぐに終わるさ」
「……ん。わかった、お姉ちゃん」
そうか。姉さんの子どもだから、重吾は篠ノ之の血縁者になるのか。お姉ちゃん……。うむ、嫌な気はしないな。
そして箒は立ち上がった重吾の背を押し、後を引く姉さん達の話し合いを聞かぬまま、部屋を立ち去ったのだった。
「箒お姉ちゃんと呼んでもいいんだぞ? 重吾や」
「箒お姉ちゃんの喋り方おばあちゃんみたい!」
「そうかそうか、大人びているか」
「うん。「ぐらまらす」ってやつだね!」
「ほう、最近はそんな流行語があるんだな。ふーむ、「ぐらまらす」か……いい響きだ」
「箒お姉ちゃんは「ぐらまらす」ーっ!」
「あっはは、褒め上手な奴め」
続く