母なる星の周囲を、それは回り続けている。重力という名の、母の手が届くギリギリに留まり続けている、人工天体。
宇宙ステーション『ルヴァ』。国際宇宙開発機構に属する宇宙ステーションである。その名はイギリスの詩人、ウィリアム・ブレイクの叙事詩『ミルトン』にて東の宇宙を意味する言葉である。
そして現在、国際社会に於いて世界の東側と認識される東アジア上空の位置で『ルヴァ』は浮かび続けている。
「もうそろそろ時間だっけ?うちの期待の新星は」
ロシア籍の駐留要員、キリル・ヴァクレンコは外部のカメラを操作しながら周囲の様子をモニタニングしていた。ロシア人らしい白い肌とブロンドの髪をオールバックにした、二十台半ばのコスモノートである。
「地上からは予定通りと返答が来ている。尤もISを使用したミッションは殆ど行われた例がない。油断は出来んさ」
応えたのはキリルの隣で地上との通信作業を続けている三十台ほどの白人男性、ダレン・コーデリックだった。
米空軍からNASAに出向し、そこから更に機構に出向してきたという面倒な経歴の人物である。
「中尉は心配性だな。IS使ってんだぜ?昔テレビでモンド・グロッソ見たけど、あんなモン使えば出来ないことなんざなさそうだ」
ダレンを、軍での階級である中尉と呼ぶキリル。ロシアでもそうだが、軍から出向と言う形で宇宙開発に参加している人間は、軍での階級で呼称されることが多い。
「ISの能力は否定しない。先のミッションでの活躍もな。だがそれでもISは若すぎる技術だ。更に言えば、ここは宇宙だ。何が起きるか分かったものじゃない」
どんな物事にも想定外のトラブルとは着いてくるものなのだ。旧ソ連のソユーズ計画、アメリカのアポロ計画など、その何れも想定外の犠牲を出してきた。或いは宇宙に出るに対し、人類はまだまだ未熟すぎるのかも知れない。
「そんなこと言ってたらなんも出来なくなりますよ?気楽に行きましょうよ」
全く緊張感のない受け答え。そんな中、入ってくる通信があった。
「はい、こちら中央管理室、何の御用で?DD」
DDと呼ばれた人物、本名をデイビット・ダンカン。『ルヴァ』の船外作業を担当するメカニックである。
『こちら、準備OKだ。いつでも出れるぞ』
モニターに映る、三十代半ばに見えるヒスパニック系の男性。DDは重鈍な宇宙服に身を包み、ステーションの出入り用ブロック内で通信を送っていた。
「了解、地球から美少女のデリバリー、時間までもうすぐだ。期待して待ってろ」
『……ヴァクレンコ、余計なお世話かも知れないが、聞いておくぞ?お前まさかIS操縦者と会えるって考えてないだろうな』
妙に浮き足立ったキリルの様子に、デイビットは尋ねる。
「あ?それがどうしたよ」
『あのな、このステーションのハッチのサイズじゃISは入ってこれないぞ』
デイビットの発した、至極尤もな事実はキリルを絶望の淵に叩き込んだ。キリルにとって不幸なことに、今現在『ルヴァ』にいる人間は全て男である。平均的なイタリア人男性並に女好きであるキリルにとって、そんな環境内で半年も居るという事はこの上ない苦痛であった。そんな理由もあって、キリルは久方振りに生の女の子に会えると喜んでいたのだが……
「知りたくなかった。そんな残酷な事実は知りたくなかった」
まるで大切な何かを失ったかのような、静かな慟哭だった。両手で顔を覆い、天を向いて悲しみを顕わにしている。
「馬鹿なことをしているな。もうじき予定時刻だぞ」
この場の空気を不愉快に感じている、真面目すぎるくらいに真面目なダレンは注意を促す。もっとも、この流れも何時ものことでもあるのが、彼にとっては頭の痛い事実であった。だが、この場で最もだらしない態度のキリルでさえ、プロフェッショナルである。必要な時の意識の切り替えは早い。何しろ呼吸一つでさえ無料ではない場所なのだ。この場にいられる者が、優秀でない筈がない。
「ん、レーダーに感あり、……データ照合、『バロール』と『隕鉄』と確認」
気の抜けた態度から、劇的な変化を果たし『出来る男』に変化を果たすキリル。ダレンとしてはキリルの能力に文句はないので、普段からこんな態度なら言うことはないのだが。
キリルからの報告を受けて、ダレンは時間を確認する。合流予定時間にはまだ十数分以上の余裕がある。
「こちら『ルヴァ』管制。ケネディ宇宙センター、宇宙開発機構、応答願う」
地上との通信で現状を報告するダレン。計画の予定時間を、繰り上げて次のフェイズに移行することになった。
「時間の繰上げが決まった、ダンカン。すぐに出番だ」
公私をはっきりと分けているということか、先ほどのDDと言う愛称でなく、姓で呼ぶキリル。
『了解、お前の代わりにお嬢さん方と踊ってくる』
帰ってきたのは経験に裏付けされた、自信の篭った声だった。
バーニアを使わず、殆ど慣性で移動する一組の物体。巨大なコンテナとそれに付随する二つの、人に近しい影。淡い緑を中心としたカラーリングの『バロール』、そしてモノクロカラーの装甲の『隕鉄』。ロシアから打ち上げられたコンテナと合流を果たした、機構の二機だった。
コンテナは『バロール』の背部バーニアの下部パーツから延びるワイヤーに繋がれ、『隕鉄』がこれを後ろからフォローする形になっている。
『ミランダ・ウルバーニ、了解。作戦時間を繰り上げます』
地上からの通信に応え、ミランダはエニアに確認の通信を送る。任務の為にオープンチャンネルで行われた通信である。当然エニアにも伝わっていた。
『バロール』から伸びるワイヤー、その先端の華奢な二つ指式アームユニットが開放される。ワイヤーはコンテナを上手く拘束するように巻きついており、アームユニットで固定されていた。それが開放された事によりコンテナは所在無さ気に真空中を漂い始める。
そのコンテナのサイズは、クレーンで船に積み込むような大型の物と比べても更に巨大だった。
そこを『隕鉄』を纏ったエニアがコンテナに近付いていく。そして、人間のものと比べて二回り以上大きい指で、コンテナに接続されている端末を操作していく。
バシュッ、と空気が抜けるような音と共にコンテナがバラけていく。
無論、真空空間である宇宙で本当に音が伝わる事はない。ISが感知した光学情報に、フォルダリングされている音声データから適当なものを選択して操縦者に伝えるのである。
先ほど開放されたワイヤーアームも、シュルシュルという音と共にバックバックに巻き戻されるように収まっていく。
『コンテナの解除に成功、予定通り接続作業に移行します』
コンテナの中から現れたのは巨大な柱に、真上から串刺しにされたカップケーキのような形状の物体だった。
軟素材による外壁を持った膨張式居住用モジュール。それも回転による擬似重力発生機能を備えた物である。
有人火星探査計画『プロジェクト・ジャーニー』に際し、必要とされ、日本で開発されていたモジュールである。
『ミランダ・ウルバーニよりルヴァ、モジュールの解放に成功、接続作業に移行できます』
コンテナの破片を地球の引力圏へと落ちるように蹴飛ばしながらの報告。
機構に所属するIS操縦者、若年ではあるが大気圏外でのIS操縦経験を持った人間は、公式にはミランダだけである。よって彼女が、たった二機のIS作業班の現場責任者的な立場になっている。
『了解。予定通り、作業を続行してください』
キリルの真面目なナビゲートに従い、IS作業班は次の作業にはいる為、モジュールを移動させていく。重力の影響をほぼ受けない衛星軌道であることと、リミッターのないISの理不尽なまでのパワーは、数トンもあるモジュールを素早く運んでいく。その作業にコンテナ運搬に活躍したワイヤーアームが再度その力を発揮してみせた。
モジュールを所定の位置まで移動させれば、次はいよいよ接続作業である。
『ルヴァよりIS作業班へ。こちらから作業員が向かった。合流次第、こちらの作業員の指示に従い、作業を始めてください』
若干の時間を置いて現れたのは白い宇宙服の作業員、『ルヴァ』の外部作業担当であるDDだった。
ISと比べると小柄ではあるが、挙動は重鈍。巨大なバックパックに取り付けられた小型バーニアを頼った機動力は自由度が少ない。
過去、米露を初めとした多くの国家が共同開発した、歴史的に有名な宇宙ステーションである『ISS』。その時代に使用されていたものと比べ、大分進歩した技術で造られた宇宙服であっても、ISと比べれば男が使えないという点以外では全てに於いて比べられないほど劣っている。
無論、この宇宙服に使われている技術も本来は全て最先端技術と呼ばれて然るべきものなのだが。
ISと比べ巨大と言ってもいい居住モジュールを両手とバーニアを駆使して相対速度と位置を調整していく。
バックパックから伸びたコンソールで、片手を使って姿勢制御しなければいけない宇宙服ではあり得ない細かな挙動と、更には並みの重機では問題にならないほどのパワーは、すぐさま作業を消化していく。
モジュールと本隊の差込口を噛み合わせ、外からの回すタイプのレバー操作で両者をドッキングさせる。元々はシャトルからのロボットアームでの作業を前提としていた為、レバーは大きく、そして重い。
だがそれが幸いして、人間のモノよりサイズのでかいISの手でも扱い易い。質量も、ISのパワーの前では問題になりえない程度のモノである。
「成る程、こりゃとんでもないな」
その作業風景を眺め、DDは感嘆を禁じ得なかった。
元々『バロール』が完成するまでは、スペースシャトルのロボットアームでモジュールのドッキング作業を終え、管制室のシステムチェック、その後打ち上げの衝撃などで不具合があればそこから漸く宇宙服の出番である。管制からの情報で問題の原因を推理し、外部から各種工具を用いて配線などを弄っていくなどをするのである。
ISが投入されても大凡の手順は変わりないが、その速度が段違いだった。
ISの手はシャトルのロボットアームより遥かに高い精度で作業をこなす。本来ならシャトルの位置調整を含め、高い集中力を要する作業を十数分以上続けることになるが、『バロール』と『隕鉄』は数分もかけずに終わらせる。
システムチェックもISコアと(ハッキングに近い形で)無線方式でリンクする事で高速チェック。
外部からの作業も、判断こそベテランアストロノーツであるDDだが、その作業速度は彼の比ではない。ISの高度な姿勢制御能力と、作業は地上の作業班が、という役割分担がなされているのが大きいのだろうと、DDは当たりをつけた。
(一昔前に軍人の失業問題がどうとかあったけどよ)
もしISの主な用途が軍事ではなく、『バロール』などのように宇宙開発に使われていたら、きっと失業していたのは自分たちの方だろう。
作業速度、安全性、コストパフォーマンス。
宇宙開発に使う装備としてはこれ以上の物はないだろう。この上なく素晴らしく、だからこそその欠点が必要以上に目に付く。
女性にしか使えない。
あれ程の装備を、自分は絶対に扱えないのだ。
確かに女性にしか使えないとされるISを動かした少年がニュースにもなったり、ある意味で世の男たちに希望を与えた。それでも自分はその少年のような例外ではなかった。
(ま、考えても仕方ないか)
嫉妬や羨望の念はあるが、どうしようもない事柄である。誰が悪いという訳でもないこの問題、割り切れる程度には、彼も大人だった。幸いと言って良いのか悩むが、ISの主流は兵器である。自分たちの職が奪われる事もないと判断できれば無用な敵愾心も生まれない。
ふと、次の作業の為に位置を変えようとしていたミランダの動きが止まる。いぶかしんだDDが通信を寄越す。
『何かあったか、ウルバーニ』
もしISの方にトラブルがあればどうにも出来ない。彼の声には若干の緊張があった。
『あ、いえ……視界に動くものが見えた気がしたんですが』
『動く物?デブリが近付いているのか?』
どこか自信なさ気に紡がれた言葉。
『いえ、多分見間違いだと思います。センサーにも感はありませんでしたし』
そう、視界に人のような形をした黒い影が通り過ぎていったなど、それもISの各種センサーに全く反応なしでなんてあり得ない。ミランダはそう判断し、作業に戻っていった。
『今日の内にモジュールを回す所まで進めるんですよね。早く進めないと』
それにしても『バロール』の動きは時々アザラシやジュゴンっぽい感じだな、とDDは心中呟いた。
もし彼らが、この日IS学園で行われているイベントを知っていたら、或いは何かが変わっていたのかも知れない。