「ふようねえちゃん!!」
白蓮に殴ろ飛ばされた芙蓉はそんな声を聞いた。ぼやける視界の隅、駆け寄って来たのは家族の様な少女の姿。
糸杉エリカ。温もりも知らない、哀れな少女。真っ当な人生を歩むことができたなら、こんな現実を見なくても良かったであろう、哀れな少女だ。
エリカは直ぐ傍で屈み、芙蓉の頬に触れる。
「えり、か……」
少女の頬を撫でようと手を伸ばす。けれど、腕が上がらない。痛烈な二発目の打撃は彼女の体力を根こそぎ奪い取っていた。自分の内臓が真面な位置に収まっているのかも分からない。血を吐き出し、口元が真っ赤に汚れても、もう自力で拭うことすらできない。
そんな芙蓉の左手をエリカは両手で包んだ。言うまでもなく、その左手も真っ赤に濡れている。
「いやだ、いやだよ……ねぇ、ふようねえちゃん……!!」
「……だいじょう、ぶよ、えりか」
泣き出しそうなエリカに芙蓉は笑いかけた。
「死ぬわけじゃ、ないんだよぉ……もっと、遠い、場所に行くだけさぁ」
「いやだ!! えりかもいくもん!!」
「……それは、だめだねぇ」
痛いくらいに左手を握り締めるエリカ。芙蓉はそれでも笑うしかなかった。
黒い空。人里を模していた筈の瓦礫の山。その全てが、剥がれ落ちて行く。元の世界の曇天が、綺麗なままの建物が、漸く出てきていた名前も知らない里の住人が視界に入る。その人々は加奈子や神子、白蓮や鈴仙、その他の戦いに関与していた全ての者を取り囲むように集まる。
「……もう、時間がないや」
芙蓉は言った。エリカは嫌だ嫌だと叫ぶばかり。
加奈子達は何も言わなかった。
『おい!! あのお嬢ちゃん大丈夫なのか!?』
『医者だ医者!! 早く呼んでこい!!』
そして聞こえてくるのは里の人々の声。
芙蓉のことを言う、大多数の声。
それは非難ではない。誰もが凄惨な姿を心配している。
ただ、やることは医者を呼ぶばかりで、他に何かしようとする者は居なかった。
その方が、良かったのだろうか。
「やっと……認知して、もらえたんだねぇ……」
それでも良かったのだ。
初めて、この世界の輪の中に、入ることができたのだから。
「……皆さん!! 怪我人は彼女以外にも複数名居ます!! 何があったかの説明はいずれしますから、今は治療できる場所を提供してください!!」
「野次馬は控えて。心配ならそのように団結してください!!」
そんな時に、白蓮と神子が叫んだ。すると、初め民衆はどよめき、そしてわらわらと人が散らばり始める。内の部屋なら十分空いている、応急手当てが出来そうなものを持ってくる。そんなやり取りを交わしながら、三々五々に散っていく。
それはもう、芙蓉がただ輪の中に居るだけではなかった。
気が付けば、彼女を中心に、誰もが彼女のことを第一に考えていたのだ。
芙蓉は瞳だけを動かして白蓮と神子を見る。言葉こそ何も話さないけれど、ただ大丈夫だと目で語っていた。
それが、芙蓉の中の堰を決壊させる。
一粒溢れた雫が、星屑の様な雫が止めどなく瞳から零れていく。
もう感情を言葉にすることすらできなかった。何もかも失って、それでも生きてきて、そうして最後に見せてくれた、この世界の輪。それは彼女が異変を起こすより前に思っていた認知のされ方とは違う。
そんなやり方よりも、ずっとずっと、温かくて優しい方法。
「ふようねえちゃん……」
「……こんな世界なら、エリカも希望を持ってくれるのかなぁ……」
エリカは首を振る。
それも仕方がなかった。
エリカは今芙蓉が感じる感動も何も、まだ分かっていないのだ。
どれだけ必死になって、漸く辿り着いた今なのかを、分かっていないのだ。
「……エリカ、はね。エリカは、操るものが私や撫子達とは違うから……多分、一緒には、来れないの」
「いやだもん!! いっしょに、いっしょにいくもん!!」
「本当……我が儘、だなぁ……」
芙蓉は最後の力を振り絞った。
震えながらも右手を挙げて、エリカの頬を撫でた。
それはエリカに与えられる、最後の温もりだと芙蓉は悟る。
さようなら。その代わり。
「……自分を、押し殺しちゃあいけない。奥底でくすぶって、もがくくらいなら……逃げても、良い。心だけ、死んでしまわない、ようにね……」
エリカが左手を握る力が更に強くなる。
「なら……いまの、わたしのはなしを、きいてよ……なでしこねえちゃんとかなつめねえちゃんみたいに……どこかにいかないでよ……」
「……そうだよねぇ」
芙蓉は説得を諦めた。
どうせ放っておけば自分は消える。何かの手違いでエリカが付いて来ることは避けたいけれど、仮に来てしまってもまた四人に戻れるだけなのだ。
なるように、なれば良い。
「……あーらら、もう終わっちまったみたいだね。随分と遅くなったのが運の尽きかな?」
「呑気なこと抜かしてんじゃないわよ」
そんな時に聞こえてきた。聞いたことのない二つの声。
里の人の声とは明らかに違う声。カツンカツンと近付く足音が鮮明に聞こえてくる。
「霊夢……!?」
「あらら、仙人さん。死神のあたいを無視するたぁワザとかい? まぁ、今は良いんだが」
神子が声を上げた。何とか見えた赤髪の女性が皮肉のように返答する。それを無視して近付いてくる霊夢と呼ばれた少女。
温かみとも冷淡とも取れる光を瞳に浮かべ。お払い棒を片手に歩いて来る。
「だれ……!? ふようねえちゃんにわるいことするの……!?」
「……損得はそちらに委ねる。私は博麗霊夢。色々あるけど、端的に言うなら人間が妖怪になることを防ぐ者よ」
誰かに制止させられることもなく、霊夢は二人の傍に来た。妖怪だとか人間だとか、そういうことを理解していないエリカは直感的に敵であると判断する。
それは既に結界寸前だったエリカの心を崩すには十分だった。
芙蓉の左手を握る手を離し、叫びながら白い光球を生み出す。それを力任せに霊夢の胸へと叩き込んだ。
それなのに。
「……残念だけど、そっちの子には時間が無さそうじゃない。いつもならそのお遊びにも付き合うのだけど、今はそうする余裕が無いの」
全く、聞かなかった。
「あ、あぁ……」
「ごめんなさいね。さて……そこの寝てるの」
「寝てるの、とは心外、だなぁ……」
エリカの手首を右手で掴んだ霊夢はそのまま芙蓉に話し掛ける。
芙蓉は何となくだが何を言い出すのか分かっていた。その返答も決めた。
霊夢は一度深呼吸をすると芙蓉に切り出す。
「今にも消えそうだけど、貴方達はもう幻想郷に居られない。無論、それはここのバランスを崩しかねないからよ」
「だろうねぇ……」
「……だから、どうあっても貴方達二人には消えてもらう。それを私が執行するの」
「……そうかい」
霊夢は左手でお払い棒を振り上げた。
周囲がどよめく。エリカが泣き叫ぶ。
そこに慈悲は無い。ただ、同情と哀れみだけがある。
「……本当、最後の最後だけ、戦ってもない私が持っていくのは無礼だと思う。だけど許して欲しい」
「許すも何も、何でも良いさぁ。世界の輪に、入れたんだ。世界のルールに……裁かれるのは、当然だから、ねぇ……」
芙蓉は最後まで穏やかだった。
最後まで戦ってくれた、この世界の全てに感謝をして。
そしてこの世界に別れを告げよう。
「……さようなら。再び幸福が訪れることを……願っているわ」
はい、十章も終了です!!
次の章は最後になるのかな?