東方覚深記   作:大豆御飯

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第一章五話 変わり変わらぬもの

 トン、と軽やかな音が聞こえた。

 無気力なまま沼の底へと沈むはずだった自分の耳に音が聞こえたと認識するまで数秒。そして、その音が着地音だと理解するのに数秒。さらに、その音の主が自分を抱えていると気付くのに数秒掛かった。

 冷めきった外気の中にある、決して寒くはない人肌。しかし、常人のそれよりは少し冷たい。大妖精の記憶の片隅に、あるものが浮かんできた。

 白玉楼に住む庭師は己の半分が幽霊であるために、常人よりも少し冷たいということが。

 

「あ……あなた、は……?」

 

 微かに絞り出した声で、せめてもの質問をした。

 

「私は魂魄妖夢。ただの庭師です」

 

 薄目を開ける大妖精に目線を合せ微笑み、安心させる様に抱える両手に少し力を入れる。それが、心を擦り減らせていた大妖精にはどれだけ優しいものであったか。自然と瞳から雫が零れる。

 

「何がどれだけ出来るのか、私自身にも分かりませんが……それでも何かを変えてみせましょう。だから……動ける範囲で構いません。どうか、協力してください……!」

 

 こんな自分でもまだ頼られる。まだ必要としている人が居る。

 先の決意は何処へ行ったのか、忘れた自分ではないはずだ。

 ならば、ズタズタの心でもう一度飛び出せ。そう、何かが駆り立てている。

 だけど。それでも。大妖精の心を強く抑制する『恐怖』は、その思いを上からズタズタに引き裂いていった。

 

「……無理、ですよ。どうせ、負けちゃうんですから……理不尽な暴力に、屈するしか手段は無いんですから」

 

 微動だにせず二人を見つめる敵と、真っ直ぐ自分を見つめている妖夢。その答えがどれだけ妖夢を裏切るものか分かっていながら、それでも前に進めない貧弱な自分。

 何が正解で、何が救いで、何が幸福かも分からなくなった大妖精に、妖夢はただ一言だけ告げた。

 

「なら、絶対に私の体を離さないでください。少々派手に動きますから」

 

 言うと、大妖精を支えていた右手を白楼剣の柄に添える。左手一本で大妖精を抱えながら、腰を低く落とした。つまり、臨戦態勢へと移ったのだ。

 

「魂魄家に伝わる家宝『白楼剣』はあらゆる迷いを断ち切る。例え心消えていたとしても、その胸に刻まれている迷いは見て取れる……ならば、私が解放してあげますよ。お二人にとっては赤の他人である、この私がね」

 

 宣戦布告。

 直後の動作は極めて単純。足場の切り株が粉砕しかねない力で強く蹴り出し、一直線に敵へと突撃する。それに対する敵も、あくまで冷静に対処した。

 神速の抜刀術と、鋭利なる氷槍が至近距離で交差する。

 極限の緊張が二人の間の僅かな空間を突き抜けた。

 

「いきますよ」

 

 冷徹な声を響かせた妖夢は、白楼剣と交差する氷槍を大きく弾いた。耳に突き刺さる様な音が響くと同時、無防備な敵の胸の中央にその刃を突き出す。空気を切り裂き、真っ直ぐに胸を捉える一閃は、しかし迅速に生み出された氷の盾に阻まれる。

 刃が中途半端に氷の盾に刺さったことで、今度は妖夢が無防備になる。とっさにその盾に足を掛けて引き抜こうとするが、その一瞬のタイムラグを完璧に狙われた。

 鈍い音と衝撃が側頭部から突き抜け、世界が歪んだ。

 ほんの刹那の間意識が飛んだ。

 

「が、うッ……!?」

 

 思わず出ていたその声が自分のものだと気付いた妖夢は、素早く理解を追い付かせようとする。

 気付いた。自分が今漆黒の沼に落ちかけていることよりも、大妖精が左手から離れていることに。

 

「しまっ……」

 

 目を見開いた妖夢の続く言葉は、着水に遮られる。弾ける様な音がするより早く、妖夢の下半身が黒に沈む。その瞬間を見逃す敵でもなく、沼を一斉に凍結した。

 水よりも膨張した氷は、埋まった体を容赦無く圧迫する。

 激痛どころの話ではなかった。骨が湾曲し、骨盤が歪んだ。

 森の中に少女の絶叫が虚しく響いた。

 僅かに与えられた慈悲なのか、氷は冷気を奪われ、またも漆黒の沼へと姿を変える。しかし、痛みに囚われた体は満足に動かない。何とか浮き出たところで、何を出来る力が無かった。

 ピシッと、亀裂が走る様な音がした。それが耳に入り、顔を上げた時には氷槍が胸の左側を正確に定めていた。

 

「あ、あ……」

 

 明確な死を自覚した。したところで許容は出来ない、が現実は流れていく。

 横合いから何者かが腰に抱き着き、勢いを殺さずに遠くへと飛び去ろうとする。その小さな影は呟いた。

 

「逃げましょう。安全な所まで……!」

 

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