そして、黒い沼の広がる中にその敵は一人取り残された。
「…………」
一言すらも発さずに一面の黒を氷に変えて、その上に降り立った。否、一言も発さないというのは間違いで、発せないというのが正しいのかもしれない。
意識はあるが体が既に自分のものではない。無慈悲なる攻撃を、考えもしなかった行動を最も大切な者へと差し向け、小さな心を踏み躙った。
難しいことは分からなくても、それが彼女にとっては悪だということだけは理解できた。
(どうしたら良いか……分かんないよ……)
その嘆きが世界に放たれることはなく、自分を騙る何かが黙ったまま押し殺す。
お前に存在の権利は無い。そう世界から決めつけられている様な、絶望的な孤独感に支配されていた。
助けての思いも世界には届かない。
一心不乱に逃げて、無我夢中で遠ざかって、大妖精は気付いたら森の入口に立っていた。
何故ここまで無事に辿り着けたのかも分からないけれど、とにかく蜘蛛の糸に掴まって生き残った。安堵しても良いのか、落ち着いて良いのか分からない。けれど、どうしようもない敵から取り敢えずは逃げ延びた。
でも、その先に何がある?
残ったものは一体何だ?
どうせ直ぐに見付かる。間も無く極大の地獄がやって来る。自分達ではどうにも出来ない悪魔がやって来る。そうしたら終わる。それ以上も以下も無い。ただ、終わる。
なら、やることは一つしかない。
妖夢を離した大妖精は震える声で言った。
「逃げましょう……攻撃される心配の無い位遠くに……出来るだけ、見付からない所まで……」
結局、その口から出てくるのはどうしようもない人任せ。自分達が逃げ切ったのなら、他の誰かがあの敵と戦うことは避けられない。その戦うことになった者も、理不尽な現実に嘆き、そして敗北していく。そこまで分かり切っているのに、尚も自分のことを惜しみ自分を優先させた。
自分はどれだけ下劣な存在なのか。考えれば考える程、思い込めば思いこむ程精神が削られていく。
これも、友を切り捨てた自分への罰と思えば幾分楽になるのだろうか。
なけなしの精神力で何とか立つ力を保っていた大妖精。その耳に、聞きたくない答えが聞こえてきた。
「逃げろ、ですか……それはちょっと出来ない相談ですね」
「…………え?」
ここで、分かりました、と言われたらどれだけ楽だっただろう。
自分の醜い言葉を、低俗な意見を、ほんの片鱗だけでも賛同してもらえたらどれだけ楽になれただろう。
なのに、目の前の存在は、まだ何一つ折れていなかった。己の刀を鞘に戻し、無理やりに圧迫された下半身を確かめる様に解している。
軽い息を吐きながら、妖夢は大妖精に問いかける。
「別に、私は全ての者が戦場に向かうべきだとは微塵も思っていないので、逃げることを非難しませんし、むしろ尊重します」
屈伸を終え、スッと立った妖夢は続ける。
「でも、それは貴女の本心ですか?」
そこまで言われて、問われて、心の中で何かが声を上げた。今までずっと何かに抑制され、忘れ去られていた弱い何かが、精一杯の声を上げていた。
「そんな訳ないじゃないですか……」
胸の中からその声は、小さくそして力強く硬い殻を破ろうともがく。暴れる。
言いたいなら言ってしまえ。そんな高い言葉は最初から持ち合わせていないのだから。
「そんな訳無いじゃないですか!! 逃げたいなんて、最初から思ってる訳無いじゃないですか!! 戦いたくは無いけど、逃げて終わる話じゃないって、痛い程理解してるに決まってる。だったら、どれだけ泥臭くても、逃げるって選択肢だけは残らないって、それだけは理解してるに決まってるじゃないですか……ッ!!」
自分がどれだけいい加減で、矛盾していて、醜いかなんてよく分っている。
それでも、小さな体から、その叫びは世界に飛び出て行った。
「逃げたいとも思わない……だからと言って、戦いたくもない……もう、分かんないですよ……だって、あの敵は……私の……友達なんですから……」
世界はそれを、自己の正当化と呼ぶだろうか。その思いをそんな結論で固めてしまうのだろうか。
それでも良かった。
それが、大妖精の出した、ちっぽけな本心なのだから。
「……よく、言えましたね」
「ふぇ……?」
目元に涙すら浮かぶ小さな頭を優しく撫でながら妖夢は続ける。
「貴女は、出来るか出来ないかではない大切なことを知っていますか?」
「するか、しないか、ですよね……?」
「いいえ。今この瞬間に限って言うのであればそれは……やりたいか、やりたくないかです」
大妖精の頭から手が離れる。微かに残る温かさは、震える心を少しずつ溶かしていく。真白の紙に色が広がり、それが絵となるように、心が開いていく。
「主人公っていうのは、やりたくないことはやらないんです。自分のやりたい、信じることを貫いてこそ輝いているから。だから迷いも雑念も無い」
「でも、私には今……」
「やりたいことは何も無い、ですか?そんなことは絶対ありません」
まだ気温は低い。初夏であるはずなのに、森の奥からは冷たい風が吹く。二人のスカートを揺らし、外へ外へと流れていく。
「だって、彼女は貴女の友達なんでしょう?」
地面を蹴る音がしたと思ったら、目の前に居た少女が戦地へと走り去っていた。
果たして、自分にも大地を蹴る力はあるのだろうか。
「私は……」
それでも、いい加減この風に抗っても良いはずだ。