戦いながら、天子は段々と己の体の異変に気付き始めた。
自分が有利に戦いを運んでいる筈なのだ。それでも、意識しなければ口が開いて涎が垂れ、聞こえてくる筈の声が聞こえ、そして見える景色の色が不自然に変わる。
「な、んなのよ……」
緋想の剣を握る手にも上手く力が入らない。こんな状況でも彼女が倒れこんだりせず、メディスンを単騎で撃破できたのは、やはり彼女が天人だからだろう。
「余裕だと思っていたけど……かなり厄介ね……」
既に倒れて動かなくなったメディスンを前に、同行が不自然に開いた天子は肩で息をする。その呼吸さえも満足にできるわけではなく、掠れる様な変な音が混ざる。
しかし、まだ安心できる訳ではない。
背後からはまだ叫び声や悲鳴、何かが壊れる様な音が頻繁に聞こえてくるのだ。
できるのなら振り向きたくない。もう十分戦ったのだから、さっさと帰って休みたい。
けれど、敵を排除しない限りはこの体では逃げられない。
ならば、倒すしかないのだ。
ゆっくりと振り返る。
見えてしまった。
衣玖と美鈴を蹂躙する、緑の髪の妖怪と、それをほぼ完璧な形で補佐する黒髪の少女を。
「……は、ははは」
天子は乾いた笑い声を上げた。
これが絶望か。他のどの呑気な天人も知らない、究極の暗闇なのか。
「ははは、は、はは」
不自然に、胸が高鳴ってきた。何故か心が躍り始めた。
求めていた何かがここにある。知ることもなかった死への恐怖。痛みへの恐怖。
闘争への快楽的感情。
彼女はその笑いを高笑いに変えた。
堪えようとも腹の底から込み上げてくる笑いは止まることを知らず、不気味に肩を震わせる。
そして、
彼女を引き留めていた糸が、ぷつりと千切れた。
紅く染まる思考。飢えを越えた激しい渇望。
かつて感じたこともない絶望の渦を狂気的に受け止めた天子は緋想の剣を握り、地面を強く蹴って二人の標的へと突撃していく。
スペルカードも、そんな技も要らない。そんな陳腐な枠に囚われる位なら、ただ本能に身を委ねる方が楽しいに決まっている。
勝つ負けるではない。今の天子を満たすのは、快楽の追求一色だ。
「ガァァァアァアアッ!!」
雄叫びを上げ、天子は幽香に斬りかかる。
幽香は一瞬だけ天使を見て、踏みつけていた衣玖の腕を掴むと強引に振り回した。
ゴキリ。
衣玖の体を受け止めた天子の左手首から嫌な音がする。
天子は更に笑った。
これが、戦いの痛みか。
命の取引の副産物か。
痛みを感じ、自覚する程に笑みが狂気に染まる。
緋想の剣を握り締め、ゼロ距離の幽香の頭をその柄で、全力で殴りつける。
躊躇は無い。前屈みになった幽香の頭部を目掛けて、全力で膝蹴りを入れる。
何かが砕ける様な感覚。
跳ね上げられた頭に釣られ、幽香は衣玖を離してしまい、大きく後ろに吹き飛ばされた。
「総領、娘様……」
「大丈夫? には見えないか」
「い、いえ……ご心配、なさらず……」
体の芯が砕けた様な衣玖はよろよろと立ち上がる。服はもう擦り切れ、斬り裂かれてボロボロで、下の柔肌から鮮血が溢れ出ている。
それすらも、今の天子にとっては狂気を加速させる。
そして、その直ぐ近くでは消耗した美鈴が棗の攻撃を必死になって回避し、受け流していた。
幽香が立ち上がるにはまだ時間がある。
天子の笑みは更に歪んでいく。
「総領娘様……」
「何よ」
「……少し、お休みになってください」
「何でよ!!」
「今の総領娘様は何かが外れてしまっている。こうして見ているだけで痛々しい」
「何処がよ!! 私は真っ当よ!! 一々訳の分からないことを言って邪魔しないで!!」
「吐血で服を真っ赤に染めながら言う言葉ですか!?」
「……えっ?」
真剣な表情で言われ、天子は呆然として視線を下げた。
吐き気がする程真っ赤に染まった、白かったはずの自分の服。
口元を手の甲で拭うと、べっとりと生温い赤い液体が擦り付けられる。
瞬間、体が言うことを聞かなくなった。目眩がして足は震え、鼓動のテンポすらも分らなくなった。
とても耐えられた状態ではない。よろめき、衣玖に凭れ掛かる様に倒れた天子は両目を見開いて衣玖の顔を見た。
「い、く……?」
「大丈夫です。ですから、もう少しだけ辛抱してください。私と彼女で終わらせます。総領娘様の御陰で、あの花の妖怪もかなりのダメージを受けたようですから」
美鈴がついに棗に反撃した。振り抜かれた肘が棗の腹部に直撃し、棗が鈍い声を漏らす。
「衣玖さんッ!!」
「……そう言う訳です。終わったら天界へと戻りましょう。それまでの辛抱です」
美鈴が衣玖を呼び、衣玖は微笑みで返して体に電気を纏った。
「総領娘様が作ってくださったこのチャンス、逃しはしません」
天子を落ち着かせるように見せた微笑み。それは直ぐに消えたが、それでも鮮明に天子の目に映った。
それとほぼ同時に幽香も立ち上がる。
幽香だけではない。棗も立ち上がり、目の前の美鈴を見据える。
「化け物じみた耐久ね……」
「もうすぐ終わりだけどね」
双方ボロボロで、それでも真正面から向き合う。
冷静になれた天子の目には、今度はそれがどうしようもなく暗いものだと理解できた。
そうだ、こんなもの楽しめる筈がない。命の駆け引きを楽しむことが、世界も知らない自分にできる筈がない。
「ま、待って、衣玖……」
「……何でしょう」
衣玖は滑らかに、まるで待っていたかのように答えた。
「私も……まだ、まだ戦えるから」
「……では、背中はお任せを」
衣玖はまた微笑んだ。そのまま片手を天子に差し出し、手を引いて立ち上がらせる。抑制したのだろうか、その手からは感電しなかった。
人数は勝った。希望はまだ捨てていない。
美鈴が構え、衣玖が紫電を纏い、天子が軽く剣を振った。
棗もまた構え、幽香はただ三人を見下げる。
その時だった。
視界の端に、見えた。
こちらに歩いてくる、眼鏡を掛けた白狼天狗の姿が。