東方覚深記   作:大豆御飯

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第七章九話A 儚くて

 それは、撫子には捉えられない程高速かつ静かな一閃。

 

「……あ、え?」

 

 そこで撫子は気の抜けた疑問の声を上げた。

 

 まだ、首が繋がっている。まだ呼吸をしている。まだ生きている。

 

 必殺の一撃は撫子の首筋にピタリと当たっているものの、その肌には一切切れ込みを入れずに止まっているのだ。

 

「ど、どうして……?」

 

 撫子は思わず妖夢に問い掛ける。

 妖夢は、笑って答えた。

 

「もう、いいでしょう。お人好しと言われれば否定はしませんし、偽善と言われればそれを受け止めましょう。それでも、今の私には貴方を斬れるだけの刃がありません」

「え、え……?」

 

 撫子は聞いた。

 トス、と刀が地面に刺さる音を。そして、気付いた時にはもう妖夢は両手に何も握っていなかった。

 ただ、何処までも温かくて、何処か懐かしさを覚える様な笑顔を浮かべている。

 

 妖夢は、撫子を抱き締めた。

 

 その手に血が付こうと構わず、躊躇を忘れて抱き締めた。

 それは、少しだけ冷たく温かい、そんな体温だった。

 

「……もうじき、貴方は消えるのでしょう」

「そう、だけど……」

「不器用なのはどうか許してもらいたい。こんなことしかできないのは、自分でも恥ずかしい。だけど私は、貴方に誰かの尊さを伝えたい」

 

 抱き締められた。たった、それだけなのに、胸の奥から熱い何かが込み上げてくる。

 

 妖夢は撫子の全てを理解しているなんて思っていない。つい先程まで命のやり取りをした相手に対し、こんな行動をするなんて馬鹿げていること、誰よりも自分がよく分っている。

 撫子は妖夢の行動の意味をよく掴めていない。だけど、これがごくありふれている程度のもので、だからこそ何よりも尊いものだということは何となく理解できた。

 

 妖夢は初めて、誰かを本気で抱き締めた。

 撫子は生まれて初めて、誰かに本気で抱き締められた。

 

 撫子がふと前を見ると、鈴仙と萃香が微笑んでいた。

 撫子の知らない、温かい笑顔だ。

 

「なん、で……!?」

 

 ずっと心に満ちていた暗い雲が、ゆっくりと晴れていく様な気がした。

 

 抜け出して、助けを求めれば気付く人だっていたのに、それを諦めてもがいて逃げて、気が付けば世界を敵に回していた。

 それでも、自分は抱き締められた。

 

「涙を流したいのなら、全てこの胸で受けましょう。笑いたいというのなら、共に心から笑いましょう。お腹が空いたのなら、共に団子でもいただき、喉が渇いたのならば美味しいお茶でもいただきましょう。愛が欲しいというのなら……最期の時まで寄り添いましょう。これは、私なりの正義です」

 

 正義は悪を断つものだと、ずっと信じ込んできた。

 それは、間違いではないけれど、正解でもなかったのだ。

 

 その正解なんて無い、ただ誰もが持つ意思なのだから。

 

 今、やっとわかった。

 最後の最後に、ようやくわかった。

 わかることができて、本当に、良かった。

 

 そして、今この瞬間が、幸せという時間なのだろうか。

 

 ずっと、ずっと、闇ばかりを見ていた。狭い世界で、支配された世界で、何処を向いても広がる闇を追って歩いてきた。

 そんな世界しかないのだと、ずっと信じ込んできた。

 皆見るのは闇ばかりで、その中でも光を見付けようともがくのがこの世界の常識なのだと。

 

 だけど、闇の底に叩き落しても落としきれなかった少女達は、そもそも闇なんて見ていなかったのだ。

 見ていたのは、言うまでもない光だった。

 

 知りもしなかった、手を伸ばしても届かない世界に、導いてくれたのだ。

 

 初めて込み上げてきた、嬉しさの涙。

 堪えることなんで出来ない、莫大な感情の雫が堰を切って溢れ出る。

 そんな撫子を、妖夢は優しく抱き締め、その頭をふわりと撫でる。

 

 それでも、その瞬間は唐突だった。

 さらさらと、撫子が爪先から風に流される様に、粒子となって消えていくのが分かった。

 

 ぽろぽろと流れる涙を拭い、妖夢と目を合わせた撫子。その表情に恐怖は無く、そしてその闇も無い。

 年相応で大人し気な少女の、精一杯の笑顔が、そこにはあった。

 

「もう、終わりみたいね」

「……抗えない、のですね」

「道を踏み外した末路よ。だけど……不安は無いもの」

 

 寂しげな妖夢の頬に、撫子はそっと手を触れる。

 柔らかい、その素肌の感触。こうして感じるのは、いつ以来になるだろうか。

 

「……最後に会い見えたのが、貴方達で本当に良かった」

「……どうしても、最期なのですか?」

「えぇ。私の体はもう、ボロボロに朽ち果ててしまったわ」

 

 気が付けばもう足が消えている。

 それはとても残酷で、綺麗とさえ思える最後の姿。

 

 それを全て受け入れ、撫子は前を向いた。

 

「もし……次に、会う時があるのなら……その時は、私を食事に誘ってくれるかしら?」

「えぇ……絶対です、約束します」

「そう、約束、ね……」

 

 消える。

 世界から、消えていく。

 

 あぁ、この世界は、どこまで美しいのだろうか。

 

 透き通った空に手を伸ばしても、もう届かない。

 

 もう、妖夢の頬に触れる手も、消えてしまったのだから。

 

「……じゃあ、ありがとう、ね」

 

 その言葉の残響が消えるより早く、妖夢の両手はその温かみを感じなくなった。

 腕の中で、撫子は消えてしまったのだ。

 

「……約束、守ってください、よ……!!」

 

 この涙は何なのだろうか。

 自分でもよく分からない涙を流す妖夢はそのまま地面にへたり込み、大声を上げて泣いた。

 

 それは夏の初めの、何てことの無い時間の中の、

 何てことの無い一期一会。

 

 私は今、幸せでしょうか。

 




貴方の思う正義とは、いったい何でしょうか。
貴方の思う幸せとは、いったい何でしょうか。

それを知っているのなら、胸を張って生きましょう。
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