思い返せば何もない人生で、世界はずっと灰色だった。青空を見上げても、それが美しいものだなんて思えたことは一度もなかった。撫子に遊んでもらった瞬間も、何故だか物足りないで、ずっと心が満たされることはなかった。それはもう、どうしようもないもので、やがてこの体をこの世界に止められなくなると知ってからも何も感じなかった。
何も、残せていないのだから。
多くの人の記憶に残った訳ではない。偉業を成した訳でもないのだから。
そんな偉大なことより以前に、当たり前に広がっていてもおかしくなかった日常を体験したことすらなかったのだから。日常を欲したことすらもなかったのだから。
仮に今、こんな血みどろの戦いをしていなければ何をしていたのだろうか。
何処かで美味しいスイーツでも食べていたのだろうか。面白い本を読んでいたのだろうか。太陽の下で遊んでいたのだろうか。何かに対して笑ったり、苦しくなって泣いたりしていたのだろうか。
誰かと一緒に、対等に、時間を過ごしていたのだろうか。
いや。どんな状況であれ、そんなことは許されないのだろうか。
灰色は黒にも白にも、ましてや彩り豊かに変化することは、決してないのだろうか。
あぁ、せめて最期くらいは、
綺麗な空を望んでみたいものだった。
湿った音がした。一瞬感じたのは冷たさで、直後に痛みが腕全体を襲う。
棗は既に裂けた手でもう一度、その一撃を受け止めたのだ。
「……ッ!?」
天狗が驚愕する。そんなことも構わず、棗は地面に両手をついて体を持ち上げた。体が壊れそうな程叫び声を上げ、吐血しながらもその拘束を破っていく。それは天狗や美鈴、天子からすれば極めて狂気的で、とても同じ意思あるものには思えない程。
だが、そこまでだった。
立ち上がっただけ、だった。
そこで限界がきて、棗は荒い息を上げながら空を仰ぐだけ。その目元には透明な雫が浮かぶ。
「……もう、終わりかぁ」
そのポツリとした呟き。それは切なくて、寂しげ。
「……やれやれ、わざわざ化けてまで接近したのに終わりはこんな呆気ないものかい。世話の焼ける奴じゃな」
戦闘は終わった。そう判断したのか天狗がそう呟く。そのまま軽く飛ぶと謎の煙に包まれ、その正体を露わにした。
「天狗じゃ、なかったのね」
「騙されたかの? 儂は佐渡の二ツ岩、マミゾウじゃ。まぁ……今名乗ったところでお前さんに果して意味はあるのかは分からんがの」
「分かっているみたいね。もう私が長くないって」
「分かるも何も、ワシはこう見えて化けの皮を見破るのが得意でな、一目で分かる故に仕方ない。たった今強引に力を入れた途端にお主の正体に亀裂が走りおったわ」
「そう、か……」
棗は特に表情を変えず、マミゾウは申し訳なさそうに顔を伏せ、そして美鈴は訳が分からずに口を開けたまま交互に二人を見遣る。天子は衣玖を抱いて立ち上がり、その状況を無表情で眺めていた。
「あの、これはどういった状況で……」
「……言わなかったから、わかんないよね。私達が使う力は私達を段々と世界から切り離す性質があるってことを」
「つまりどういうことなんですか」
「そのままの意味だって。それなのに、この体だけは世界に止まろうとして拒絶する。無理に力を使えばその分だけ切り離そうとされ、それを体が拒絶するからこうやって壊れるんだ……」
「何で……」
「これが理不尽って奴だよ。望んでも居ない力を埋め込まれ、闇に堕ちた自分たちに射す光さえも拒んだ者の末路。流石にもう拒絶するだけの力は無いから、切り離されるのを待つだけなんだけどね」
また棗は血を吐いた。よろめいた体を咄嗟に美鈴が支え、棗は小さく感謝を述べる。止め処なく溢れる血は美鈴の腕や服を赤く染め、それが棗の体が散っていく様を表している様だった。
「切り離される時ってね、なんか……粉みたいに、さらさらって、消えていくらしいんだ……」
「そう、ですか……」
「綺麗な、最期だと、いいなぁ……」
美鈴は衝動的にその華奢な体を抱き締めていた。先程まで戦っていた相手なのに、今抱き締める少女はただただ小さくて、雪の様に繊細だった。見せかけの鎧が溶けた今、その何よりも弱い本質が露わになっているのだ。
「大丈夫、ですよ……そんな、まだ……」
「そうよ。まだ決着がついた訳じゃないの。このまま勝ち逃げなんて許さないわよ」
天子が棗を睨み付ける。わがままな彼女の性格が、こうして前触れも無い終わりを許さないのだろう。そんな天子に棗は笑みを見せた。ただ僅かに頬を緩めるだけの力のない笑み。ボロボロの体ではそれが限界。そう理解できた時、天子もその唇を噛んだ。
「……こんなの都合が良いなんて、私が一番、分かっているんだ。殺し合った相手が、急に弱くなるとか、こんなの、物語なら誰も褒めてくれなくて……そんな稚拙な、ご都合主義で……」
「分かりました。分かりましたから、静かにしてください。大丈夫、まだ助かりますから……」
「……口を挟む様で悪いが、流石にもう手遅れみたいじゃ」
マミゾウが切なそうに棗の足元を指差す。
既にそれはさらさらと流れて消えていっていた。
「……ねぇ、お姉さん」
「何、ですか」
「そらって、きれいなんだね」
棗の声が震えていた。見上げれば雲間から陽が射しこみ、綺麗な鋭角の筋を宙に描いていた。
それは、まるで、道の様に。
「……ごめんね」
それが、精一杯の声だった。
不完全な物語。つぎはぎの人生は今、何かが決定的に満たした。
無茶をし続け、死を意識し、それでもなお最後にはただ一人の少女であったその華奢な少女。
棗は今、美鈴の腕の中で世界から消滅した。
これにて第七章は終了となります。
ありがとうございました!!