ぐちゃ。
粘質な音がした。ゆっくりと上げられた触手にはべっとりと鮮血がこびり付く。言葉を発さない異形は真っ赤に染まった妹紅を見下ろしていた。
その乱打を妹紅が防ぐ術など無く、ただただ殴られ続けた。
「あ、ぎゅ……ぐぁ……」
声にもならない様な呻き声が肉塊同然の少女から漏れる。時折ピクンと動くのは何かしらの意思によるものか、それともただの痙攣か。そんな妹紅に異形は情けを掛けることもせず、いつでもその体を叩き潰すことができる様に見下ろしていた。
「がっ、く……」
そんな妹紅が僅かに腕を上げた。天に向けるには程遠く、唯ほんの少しだけ動いた程度。
その瞬間、また触手が振り下ろされた。ぐちゃ、ばきっ、と異音が響いた。
また新たな鮮血が飛び散り、妹紅の腕が力無く地面に落ちる。
「……は、はは」
その直後だった。呻き声を上げるだけだった妹紅が突然声を上げたのは。
「くふっ……ダメだ、笑ったらダメだ……いや、どうにも堪えられない。くっ、ふふ……」
今までのことが全て演技だと言わんばかりに妹紅は起き上がる。また新たに振り下ろされた触手を両手で受け止め、血に塗れた顔で不敵に笑う。
「何をしたかは知らないけれど、アンタの最大の脅威は心臓への直接攻撃。単純な物理攻撃ならあのバカの方がよっぽど怖いね」
ゆったりと立ち上がる。全身からバキバキと異音を上げ、狂った様な瞳を光らせる。
ボンッ!! と彼女の背中から火が噴き出し、それが一対の翼のような形をとる。
その体はどれだけ傷付いているのか。骨はもう全身至る所が折れていてもおかしくない。それなのに、妹紅はそれを全て無視して立ち上がって笑っている。それはまるで化け物か何かの様で、とても人だとは思えない。
「ちょっと油断したけれど……これからが本番よ!!」
爆音。音が響いたその瞬間には妹紅と異形が肉薄していた。
その触手では上手く攻撃できない異形の懐。その絶対の距離から妹紅は炎を纏わせた足を一気に突き出した。異形にそれを防ぐ手段は無い。
その白い体躯がバキバキと悲鳴を上げる。妹紅の足に衝撃が走り、更にその着弾点から巨大な火柱が噴き上がる。
不死『凱風快晴飛翔蹴』
異形の巨大な体躯を包み込んだ火柱はその触手さえもいくつか焼き焦がし、耐え難い灼熱に異形は暴れて悶え苦しんだ。
「……ここまでやってもこれだけ動くあたり、相当な化け物だよね」
「ぐ、ごぁ!?」
再び襲ってきた、心臓を握り潰される感覚。言葉にすらならない苦しみに悶え、膝を着いた妹紅を目掛け、異形は炎の中から飛び上がってきた。
しまった。
そう思った時にはもう遅い。
妹紅の上に圧倒的な重みが情け容赦なく落下してくる。それが先の触手の乱打以上に妹紅の体をズタズタに壊してしまうのは想像するまでもない。
轟音が冥界に轟いた。
絶叫は、聞こえてすら来なかった。
ぐちゅ、ゴキッ、と何かを潰す様な音が後に続いて響いてくる。その体躯の下の惨劇を望んでみようと思う者はまず居ないだろう。未だその体の一部が燃えている異形が体を退かした時、そこには血塗れになり両足すらも変な方向に曲がってしまった妹紅が両目を見開いて倒れていた。
(ゆ、だん、した……)
それでも死ねないのは、寧ろとても残酷なこと。全身を貫く限度を超えた激痛は時間と共に妹紅を追い込んでいく。多すぎる出血は思考力すらも阻害し、本能的に逃げようともほとんど動かない手で体を引き摺って逃げる以外の選択肢が無かった。
そして、折れてしまったその足に異形は細い触手を絡めた。そこからまた更に一本、そして一本と妹紅の体を絡め取り、ゆっくりと引き込む。それから何をされるのか、考えるだけでもおぞましい未来に妹紅は心の底から恐怖した。
「い、いやだ……!!」
今までの人生を生き地獄だなんて思っていたけれど、今この瞬間だけはその全てが生温いものに思える。踏ん張るだけの腕力も残っていない。感触が気持ち悪いとか、そんなごく普通なことはもう浮かんですら来なくなってしまった。
「だ、れか……助け、て……」
けれど、冥界には今、妹紅と異形しか居ない。たかだか実体のない幽霊には何とかできる相手でもない。その目元に涙さえ浮かべ、必死に助けを求めても届く相手など居ない。
理解したくないそんな現実が、じわじわと頭の中に入り込んできた。
「あ、あぁ……」
死なないことは負けないこと。千年近く生きてきたからこその傲慢が、今ここで牙をむいてきた。
全て終わりだ。ここからが、きっと本当の生き地獄だ。
真面に何も考えられない頭がそう悟った。
刹那、目の前の空間に奇妙な筋が走り、桜色の服を着た何者かが現れるまでは。