東方覚深記   作:大豆御飯

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第九章四話 この世界は

 どれだけ走っただろうか。何処を曲がったか、何処を直進したか、路地裏に何度入ったか、何度こけたかももう覚えていない。息が続く限り兎に角走り続けた。誰も居ない、気配すらもしない不気味極まりないその逃げ道の果て、警戒しながら歩く衣玖とマミゾウを見付けた。それはもう、藁にも縋るような思いで美鈴は二人へと駆け寄る。

 

「おぉ、無事じゃったか。良かった良かった」

「お二人も、無事で、本当に……本当に……」

「……何か、あった様ですね」

「あ、あぁ……」

「まぁ、先ずは休め。ちょっとでも体力を回復した方がええじゃろう。ここはまだ芙蓉とやらの世界じゃろうて。どうせ戦うことになる」

 

 二人はまず美鈴を道端に誘導して座らせた。全身から噴き出す汗。早く天子のことを伝えなければと思っているのに、声が思う様に出ない。束の間かもしれない安堵に包まれた体は冗談の様に震え、涎までもが溢れてくる。

 衣玖とマミゾウは周囲に何も来ていないか見張り、特に何か声を掛けようとはしなかった。掛けられなかった、の方が正しいかもしれない。

 代わりに衣玖はマミゾウに小さな声で話し掛けた。

 

「あの様子ですと、総領娘様にも何かあったのかもしれません」

「そうでないにしろ、芙蓉とやらに接触したのは間違いないじゃろうて」

「……分かってはいたことですが」

「あぁ。そう易々と相手にできる輩ではなさそうじゃ」

 

 マミゾウは忌々しそうに呟く。

 

「……根本的に、ここは儂らの知らぬ世界。何がどのように脅威なのかはまるで分からん。分かるのはあの芙蓉とか言う奴が明確な脅威と言うだけじゃ」

「では……私達は、彼女よりもこの世界からの脱出を試みる方がより現実的なのでしょうか」

「それもないぞ。どうせこの世界の出口など芙蓉しか知らん。そもそも儂等はこの世界この世界と知った様に言っていながら、本質ではここが元の世界と違うことすら理解出来ておらんからの」

 

 マミゾウは道端の石を拾い上げる。それを衣玖に手渡し、フッと鼻で笑う。受け取った衣玖は手にした瞬間顔を顰めた。それは重い訳でも軽い訳でもなく、今までに持ったこともない質感をしている。それが具体的にどのようなものであるかを説明する材料が頭の中に入っていないのだ。

 

「そういうことじゃ。理解不能だと理解した上で動くしかあるまい。まして、妖怪とは言えここまでの恐怖が植え付けられた。ちょっとではないが不自然じゃ」

「精神に作用する効果もあるのかもしれない、と」

「推測じゃがな」

 

 衣玖は石を投げ捨てたが、その石が音を鳴らすことは無かった。

 マミゾウはチラと美鈴を見る。幾分は落ち着いたようだが、まだ暫くは動けそうにもない。

 

「……大丈夫かえ」

「はい……何とか、落ち着いてきました……」

「そうか。いつ芙蓉とやらが来るかは分からんからの。いつでも動ける様にはしておけ」

 

 手持ち無沙汰なのか、マミゾウは袖からキセルを出して弄ぶ。しかし衣玖から見ても美鈴から見ても、その表情には余裕が無かった。誰かの掌の上で踊らされている状況が、いつでも握り潰されるであろうこの状況が、純粋に彼女等を追い詰める。

 そんな中、美鈴が絞り出すように声を出した。

 

「あの、衣玖さん」

「なんでしょうか?」

「……こんな状況で言うのも、野暮かもしれませんが、天子さんから伝言が」

「……皆まで言わずとも分かっています。どうせ総領娘様のことですから『ごめん』か『よろしく』のどちらかでしょう?」

「……よく、お分かりで」

 

 衣玖は笑った。

 

「長い付き合いですからね。大丈夫です。そう言って行方を眩ませた時、必ず彼女は直ぐに戻って来ましたから」

「……でも」

「私が大丈夫だと言うから大丈夫ですよ。まして、天人なのですから」

 

 衣玖が涙を堪えていたことを、誰も指摘しなかった。

 指摘できなかった、そう言う方が正しいのかもしれない。言ってしまうと天子はもう戻って来ないと認めることの様な気がしてしまうからだ。

 いっそこのまま何事も無く終わってくれるのなら、どれだけ幸せなのだろうか。それが終末ではなく、何事も無く元の世界に戻ることができるのならば、どれだけ望んでいるだろうか。

 

「……この世界でも、私は雷を打ち出せるのでしょうか」

「どうじゃろうか。高望みは止しておく方が賢明じゃとは思うがの」

「そう、ですよね……」

「何か企んでおるのか」

「……どうにも、私は固執してしまう性質があるようです。と言えば、分かっていただけるでしょうか」

 

 だけど、そんなこと来るはずがない。そう分かっているから、もう一度芙蓉と接触するしかない。彼女を倒すことが正解なのかも分からないけれど、少なくとも何もしないよりは良いだろう。

 かと言って動く勇気があるか、そう言われればあるとは言えない。彼女の力は既に見せつけられているのだから。抗ったところでどこまで戦えるかは分からない。

 けれど、衣玖は妙に清々しい顔をしていた。

 しれが何を意味するか、マミゾウは一瞬で悟る。

 

「少し、見回りに行ってきます」

「……それで良いのかのう」

「良し悪しはもうきっと、壊れてしまいました。別れを知らぬ遊女の、最初で最後の涙の雫を、どうか見なかったことにしてください」

「衣玖さん……?」

 

 二、三歩進んで道の中央に出た衣玖は振り返った。

 ふんわりと浮かべた笑み、その頬を雫が伝う。

 

「大丈夫です。お二人が逃げるに足る道は、この私が見付けましょう」

 

 その一言だけを残して、衣玖は曲がり角に消えていった。

 

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