脳裏に浮かぶのは、あの忌々しいはずの天邪鬼の下卑た笑み。
耳に残るのは、ニヒリズムを滲ませたいかにも楽しそうな笑い声。
彼女と聞いて思い浮かべるのは、大抵、喜怒哀楽で言う楽の顔であった。
少名針妙丸は、頂の陽に近くなるにつれ深みを増す青の天井に親近感など覚えない。身近にそびえる建造物ですら、恐ろしさ溢れる摩天楼に見えて仕方ないのだ。
幾ら只人と違い空を飛べる能力を有するとはいえ、心理的距離は宇宙のそれと変わらない。
等と考えられていたのはきっと、異変続きで忙しかった毎日から解放され、思案にふける時間が舞戻ってきたからだろう。
燃え尽き症候群とでもいえばいいのだろうか。今回の異変、月の都の面々がついに幻想郷侵略か?! という一大事が勃発し、霊夢や魔理沙をはじめとする幻想郷の一員らが師走のように駆け巡り、また、針妙丸も身体通り微力ながら助力していたのだ。後に引く脱力感に苛まれるのも無理はないはずである。
本来ならば、この度に新しく顔を知った新手の天邪鬼(地上のそれと違い月の御人は正真正銘の神らしいが)についていろいろと思索すべきところなのだろうが、針妙丸は畳に寝そべりながら、何気なしにあの天邪鬼の幻影を中空に浮かべ、首を振ってそれを払うと、博麗神社から覗ける青空を何の感慨も無く観察し直した。
ここのところ、例のお尋ね者……鬼人正邪のことをゆくりなく想い起す機会が増えたような気を針妙丸は感じていた。
無論、アマノザコ、そして天津神である稀神サグメという、月の民の出現が原因になっているのだろう。しかし、幻想郷全体に天邪鬼鬼人正邪捕縛のお触れを出し、彼女の動向にやきもきしていたあの時期よりも、確実に彼女の今を知りたくなっているというのは、一体どう云う了見だろうか。
ひもじい生活を送っている彼女のことだ。どこかで行き倒れてはいないだろうか、誰かに捕えられ、悔い改める道を用意すらされず非道いことをされてはいないか。ふらりと私の前に現れ、オカルトボールなどという猪口才ものに惑わされた惨めな自分を笑ってはくれないだろうか……。いやはや、これではまさに、彼女を恋い慕っているようではないか……。
そんなはずはない、あるわけない。あの屑になど……。針妙丸は勢いよく首を横に振ると、煩悩にけじめをつける決意のための嘆息を一つ。
針妙丸の心の一部、思考の一部分を切り取られ、あの天邪鬼に持ち去られてしまったのは、これはもう言い逃れのできない事実だ。なにせ、小人の姫としてそつなく、弱者として、被虐者として、プライドの欠片も持つことも許されず飼い殺しにされる運命だったのを、彼女一人が変えたのだ。針妙丸の世界を変革させた、それどころか別世界に連れ出したのだ。そして、その先の世界を手にすべく、共に奔走した。苦しみを分かち合、進歩を共有した。
針妙丸の生の一歩を踏み出させたのは間違いなく鬼人正邪である。
例え、志半ばで起こした異変が解決され、その直後に見捨てられ、自分が計画を遂行するためのただの道具に過ぎなかったのだと思い知らされても、事実は変わらない。
彼女を悪逆非道、一世一代の非人格者と罵り割り切ることも、自分の過去をきっぱりと忘れ、彼女に擦り付けることもできた。だが、針妙丸はそれをしなかった。したくなかった。
少名針妙丸が一生の幕を閉じるまで、鬼人正邪は一人の小人を救った英雄である。
まあ、とんだ最低屑野郎だというのは否定しない、というのも針妙丸の考えだが。
ぐるぐるぐるぐる、針妙丸の頭が渦を巻く。この問答を繰り返すのは何度目になるだろうか。自分が捨てられたのを自覚し、自分自身の整理をつけ、受け入れた時から数えて、何百、いや、何千となろうか。
痛みを少しずつ訴えかけてくるようになった頭蓋と、今すぐ吐き出してしまいたい胸のしこりに居心地が悪くなり、針妙丸は着物がはだけるのも気にせず畳の上を右往左往、二転三転。
急に動き出したせいで痛む脇腹に悶えながら、針妙丸は乱れた髪を手櫛で整える。ひょんなことで露わになりそうだった乳房を隠すように襟を直すと、緩慢な動きで身を起こし、空を訴え始めた腹の答え合わせをすべく時計を確認する。
夕食にするには早すぎて、間食にするには少し遅めといったところか。そもそも、針妙丸が一室でだらしなく待っていたのは、お茶を淹れに行った霊夢を待つ時間を潰す当てがなかったからだ。そのことを思い出すと、針妙丸は妙な胸騒ぎがふつふつと沸き起こり、抑えきれなくなってくるのを感じた。
はて、いつもこんなにも遅かっただろうか、もしかしたら突然の来客でもあったのだろうか、いやしかしこの神社に参拝客など……どうにか日常の辻褄と合わせようとするが、いつも神社に顔を出す人外(一部普通を自称する人間や現人神がいるがそれはさておき)であればなんだかんだ言いつつもここまで通すのが霊夢である。
となれば、急用ができて、それを伝えずに外出してしまったか、面倒事に応対しているか、その二択に絞られる。
針妙丸みたく小さき身ではないし、幻想郷随一の力量を持つ彼女のこと、心配は微塵しかないのだが、その微塵がどうしても怖い。
すぐにでも霊夢の元へ駆けつけたい針妙丸だったが、霊夢が今どこにいるのかもわからず、無暗に歩き回れば家庭内迷子にもなりかねないこの状況、そわそわとしながらひたすら同居人の帰還を待つしかない。
神社内の動きを気にして、針妙丸が身じろぎをやめ耳を澄ませた丁度その時だった。微細な振動と、廊下を歩く足音が針妙丸のいる部屋に近づいてくるのを感知した。
一体どうしてこんな時間まで、率直に訊こうと思ったのだが、奇妙なことに、振動と足音は一人のものではないらしい。更に言ってしまえば、片方は聞き慣れた霊夢のものだが、片方は全くの新しい、針妙丸が神社に居候することとなったその日以降、神社に上がったことのない輩のものだった。
「ここよ」
聞き慣れた霊夢の声が、少しばかり気だるげな声が襖越しに届いた。
針妙丸は若干体をこわばらせながら、突然の来客との対面を待った。
音も無く襖を開き、針妙丸に姿を見せたのは、畏怖さえ感じさせる美しさを持った少女だった。銀白の髪は月の明かり(ルナティック)のような輝きを誇り、少量が後ろで結われている。京紫の長袖ものに、月のような模様があしらわれた乳白色の上着、特段目を引いたのは、あの鬼人正邪を彷彿とさせる矢印の意匠を持ったスカート。まさしく、この世に在らざる者。未来永劫、下賤なものが辿りつくことのない天津の民。見下しているのでも、嘲笑しているのでもない、飾り物の作りを観察、値踏みするような、そんな冷たさを感じさせる紅い瞳に見つめられて、肺がひっくり返ったのではという錯覚を引き起こしてしまう。
稀神サグメ。針妙丸も霊夢から話ぐらいは聞いている。曰く、今回幻想郷に手を出すよう指示をした張本人であり、月の都に住む高尚な神であり、鬼人正邪と同じく『アマノザコ、天探女』を源流に持つ者だと。異変後に神社に顔を出したことがあるとも……。
サグメは霊夢に「早く入れ」と急かされるも、意に介そうともせず暫し針妙丸を眺めて、「好きにしなさい……」と呆れた様子で霊夢が去って行くまで、頑固として動かなかった。
針妙丸も、サグメが優雅な雰囲気を醸し出しながら針妙丸の前で正座するまで、一切の身動きが取れずにいた。
格の違い。それを見せつけられたのもある。敵対するつもりは毛頭ないのだが、生物の本能として、強者に対して無理に抗おうとしないよう、体に頭が働き掛けることがあるというが、まさしく今がそれだ。
サグメとて諍いを起こしに来たのではないのだろう。身構えた針妙丸を見ても不機嫌そうな態度も見せない。それが強者の余裕というならば、話は別だが。
霊夢を見るに、この絶対的強者が自分に用があってきたのだと針妙丸も把握できた。しかし、なぜ、この御仁が自分なんぞを尋ねてきたのか、その一点がたまらなく謎だ。接点などほとんどないはずである。サグメが作ったというオカルトボールの争奪戦に加わっただけで、彼女の耳に入るような存在ではないはずである。
稀神サグメの得体の知れなさと、謎に満ちた彼女の行動が、ちっぽけな針妙丸の不安を一気に加速させた。
「……落ち着き給え」
サグメはそんな針妙丸の葛藤を見透かしてか、凛とした声色で目の前の構える小人を宥めた。なんと透き通った、そして力強い声だろう、針妙丸はそう感じた。
「私は既に幻想郷への敵対行動を取りやめているし、目的があるにせよ、こうして神社の中まで案内させてもらっているのだから、警戒は無用よ」
サグメは穏やかな口調でそう続けると、左手を口元に置いた。まるで口から出る言葉を抑えるような仕草だ。
そうは言われたものの、針妙丸の生存本能が鳴らす警鐘がおさまるはずはなかった。それでも、サグメの機嫌を損ねてどうなるかわからなくなるよりは、と蛇に睨まれた蛙の心地を理解しつつ、針妙丸はぎこちない動きでサグメに倣い腰を下ろした。
「まあ、警戒するのも無理はないだろう。先の騒乱……諸君らがオカルトボールと呼んでいるものを巡る争いの原因を作ったのももちろん私だし、貴方もそれに加わっていたのだから」
針妙丸は何も答えない。
「そして、その元凶が何の前触れもなく目の前に現れた……『君に用がある』……とね」
「やんごとなき身分のお方が、この矮小な小人に何の用があっていらっしゃったのでしょうか」
「かしこまらなくていい……と言っても無駄なのでしょうね。貴方がかつて強者に対して反旗を翻した……その正義心からくる皮肉なのだから」
「なっ……!」
だから、とサグメが言い終るか否か、針妙丸は思わず立ち上がりかけるのを必死でこらえた。が、その衝撃までは隠すこと能わず、唖然とした表情をサグメに投げかける。
そんな針妙丸の様子を見てか、サグメは今まで淡々としていた口調から一変、愉快そうな感情を目尻と口の端から漏らした。
なぜそんなことを知っているのか。針妙丸は冷汗が背中を伝うのをはっきりと自覚した。サグメが幻想郷に関与し始めたのはオカルトボールの時からではなかったのか。月の都遷都計画が始動してからではなかったのか。それ以前から彼女が幻想郷に目をつけていたのだとすれば、それは一体なぜなのか。一体何を目標に……。
「今貴方は『一体いつから、何を思って幻想郷のことを気にかけていたのか』という疑問で頭がいっぱいになっていることでしょう」
名探偵を気取っているかのごとく、口を覆っていた左手の人差し指を針妙丸に向け、見透かした態度を露わにして語り掛けるサグメ。
読心すらもできるのか、と針妙丸は息を呑んだ。そう思わせてしまうほど頭の回転が速い、あるいは話術の優れたサグメに、恐怖は募るばかりだった。恐らく、サグメの真意を聞くころには、自分は心から彼女の屈服し、恐怖に支配されてしまうのだろう。そんな予感すらした。強者への完全屈服、そんな愚挙は許さないと針妙丸は意気込むが、サグメは、その底知れ無さを武器に、小さきものを射殺さんとしていた。
もったいぶる様に深い一呼吸を挟み、わずかばかり眇めたサグメが、
「貴方たちが小槌を地上に持ち出し、振るった時からよ」
薄笑いを浮かべた、そう針妙丸は錯覚した。
心臓を握られた錯覚。場の空気も、流れも、全て掻っ攫われてしまった。
なぜ、そんなことが月の民に関わりがあるのか、月の民が気にする必要があるのか。なぜ私たちが……。
酸素を欲する金魚のように、口を開閉する。
「私はね、貴方から、君の共犯者、鬼人正邪の居所を訊きだしたいのよ」
続くサグメの一言は、針妙丸の度肝を抜くには余りに強力すぎて、心を呼び戻すのには十分すぎた。
絶世の容姿を持つ、穢れなき神。
彼女が、更に口の端を上げたように見えた。
「なんで、その名前を……」
辛うじて針妙丸が告げることができたのは、たったそれだけだった。
下賤な民の名前をあなたが知っているのか、そう続けたいのに、口から出るのはカラカラと乾いた情けない音だけ。針妙丸は自分の着物の裾を握りしめ、己の意志の無力さを呪った。
ふと浮かべた笑みが幻影だったかのように、サグメは冷徹な眼をさらに強めると、
「貴方が知る必要はない。これは私と彼女の問題なのだ」
そう吐き捨てた。
ふざけるな。針妙丸の理性は激怒した。並々ならぬ雰囲気に呑まれ、表に出すまいと下唇を噛み、抑え込みたい感情の矛先を、一寸も違わずサグメに向けていた。
関係がないはずはない。小槌を振るった時から正邪を監視していたというのなら、無論、針妙丸との関わりもすべてお見通しなのだろう。一寸法師に始まり、逆さ城の建立に終わった小人の諸行無常の逸話も耳に入っているのだろう。
それなのに何故、爪弾きにするのだろうか。まるで最初からサグメと正邪の間に割って入れるようなものなど存在しないとでも言いたげに。正邪は私のものだと言わんばかりに。
サグメの表情が、かつて小人の居住地を荒らしまわり、幾人かの命と尊厳を弄んだ鬼の者と重なった。
「……わからないわよ、あなたの言ってる事……全部わからないわ!」
しまった、と後悔する頃には、そのままの想いをぶつけてしまっていた。
が、まるで針妙丸の激昂すら予期していたかのように澄ました溜め息をつくサグメを目の当たりにして、いよいよ針妙丸の胸中に渦巻いていた不満を堰き止める結界が崩落した。
当人が、なぜこんなに声を荒げているかわからないほどに。
「正邪のことを聞きに来たのに、その相手に目的も知らせない……挙句の果てに私を部外者だと除け者にしようとする! 一体どこまで私をコケにすればいいのかしら?!」
「おっと、君は自分が馬鹿にされていると感じて憤っているのか、驚いたな」
「いや、そんなことはこの際どうだっていい! 私と正邪は、あなたの言う通り共犯者よ。正邪はどう言うか知らないけど、少なくとも、私は、私を知る者は共犯者だと理解しているわ。
だけど、正邪は私の何もかもを変えてくれた。正邪も、たとい私を利用する為だけに連れ出したのだとしても、私といる間は、不便な体を持つ小人の手足の代わりとなって動いてくれた! あなたのように傍観者を決め込んでいて今更関係者面をする卑怯者とは違う! 教えてよ! 私には知る権利がある! 何をもってあなたは正邪を求めるの?」
針妙丸は勢いに任せて立ち上がり、サグメに食って掛からんとする苛烈さを拳にのせ、腹の底から叫んだ。
ありったけの言葉を紡いだ後、針妙丸は肩で息を切らしながら、怨嗟のこもった視線をサグメに集中させた。視線に威力があったなら、人一人の気を容易く刈れるだろう剣幕だ。
サグメは口を隠していた左手を頬に移し、嘲るような視線を一転、針妙丸を、正確に言えば、針妙丸の奥深く、彼女の真意を精査するものに変えていた。
静寂を突き破ったがなり声の直後である。騒ぎを聞きつけた霊夢がやるせなさを全開に戻ってきてもおかしくはないが、こうなることを予期していたのだろうか、針妙丸らに近づく気配は全くなかった。
サグメと針妙丸との間の緊張感が緩む兆候は欠片もないまま。幾秒、幾分、もしかしたら、半刻は経過したのかもしれない。
未来永劫、この地獄のような睨み合いが続くのではないか。針妙丸は激しい炎に焦がれる心中と違って、驚くほど冷静さを取り戻していた頭の中でそう呟いた。
啖呵は切ってしまった。もう後戻りはできない。その点に関しては、後悔も何もない。後はなるようになるだけだと針妙丸も腹を括れてはいたのだが、どうにも自分の中で自己主張激しく胸に引っかかってくるものの存在が、虚勢の意地を困難にさせていた。
それは、透き通った湖に墨の濁りが落とされていくのを見て見ぬふりをする時に痛む良心のような、厄介極まりない存在だった。
「……自分でも、わかっているんでしょう?」
針妙丸の瞳の奥を覗き込んでいたサグメが揺らぎを感じ取ってか、相手の心を掬っていくが如く声色で囁く。
「いや、わかってはいるのね……それを感じて……自身の抱える矛盾を……」
サグメの様子に、針妙丸と対面してから続いていた底知れぬオーラのようなものも、不変的上位に立つ者の余裕もなかった。針妙丸にはサグメの変容を気付くことはできなかったが、間違いなく、つけていた月の民という仮面をかなぐり捨てて、『稀神サグメ』の物腰に変わっていた。
サグメは憐れむように針妙丸を撫でんと細やかな指を近づけるも、静かに握り込んだ。
「お前はなぜ正邪を庇う……幻想郷全てに彼女の顔と名を知らしめ、彼女を悪と示し、彼女を自分の前に引っ立てようとしたのに」
針妙丸の膝を支えていた力がふと失われ、小人は糸を断ち切られた操り人形のようにへたり込んだ。どうしてサグメを前に無様な姿を晒しているのか、自分が壁とならなければ誰が正邪を守るのか、彼女が自分の足にいくら言い聞かせても、返答はない。
「お前は正邪を捕え、どうしたかったんだ? いったい何の目的で、正邪の邪魔をしようと企てたんだ? ……お前は正邪のことを、心の底から憎んでいたのでは……?」
針妙丸に投げられた疑問を、サグメはそのまま投げ返した。
致命的だった。
言うことを聞かない足を置き去りに、身体だけでも前のめりになって力を込める準備までしたのに、肝心の反論は喉まで出かかっても、開けられた口からは空気すら漏れず、すぐさま閉じられてしまった。
「違う」というべきか「そうだ」というべきか。
たったそれだけのことのはずなのに。なぜ、体に残る全エネルギーを消費して人が脳と呼ぶ部位を全力で回転させても、或いは、自分そのものに問いかけても、どちらが正しいのか判別つかないのか。
本当に正邪が嫌いなのであれば、すぐにでも心当たりある隠れ場所を教え、難なく捕えた後、帰り際でもいいから馬鹿な天邪鬼の顔を最後に拝ませてほしいとお願いすればいいはずだ。事情を説明されるまでも無く、どうぞどうぞ、あんな屑のことなぞ気にかけてなんかおりませぬ故、お好きになさってください、とまで言える自信がある。
が、針妙丸はサグメに「お前に詳しいことは話せないが正邪を引き渡せ」と要求されても断った。それどころか、正邪を連れていくのであれば私を倒してからにしろと言わんばかりの態度を振る舞ったのだ。
殆ど無意識に、反射的に、正邪のために身体が動いていたのだ。
正邪は……彼女は一体何者なのか。あの下品な笑みと、愉快そうでいて心底世界を憎んでいる声色と、世界の奥深くまで射抜くような視線の源は。彼女はどうしてそこまで天邪鬼でいられるのか、生まれて死ぬまで、彼女の歩く道は……。
矛盾の塊とも取れるかの弱小妖怪に、どうしていつまでも自分の心は掻き乱されたままなのだろうか。もう自分は一人ではないというのに。霊夢や魔理沙、咲夜といった異変に関わったものたちの他にも、三人を通じて様々な人妖と巡り合った。ただ傲慢不遜な強者だけではない、享楽に身を投じ、忘れ去られたものたちの運命を受け入れながらも幻想続く限り正を謳歌しようとする者の姿を、針妙丸は知った。もう、鬼人正邪に執着する必要はないに等しいのに。
『正邪は私の何なのか』
その単純難解な問いが、針妙丸の時を止めてしまった。
「……ここにいても有用な情報は望めないな」
針妙丸の視界からはサグメも、神社の一室も、何もかもが失われていた。
愕然とする小人から関心を失くしたのか、サグメは顔を背けると体の健や筋肉が一つずつ伸びていくのを味わうように立ち上がると、最後に針妙丸の方を一瞥して、戸の縁に手をかけた。
「私の能力も聞いている様子だが……この厄介極まりない能力を自覚しているにもかかわらず、今日私は随分と流暢に喋っていたと貴方も思ったことだろう。……私もこの力とは長い付き合いだからね、折り合いの付け方はよく知っているのよ」
自慢するわけでもなく、状況をただ淡々と説明するようにサグメは言う。垣間見せた私心は雲に隠れ、下の者を煽り見る、月の民特有の余裕が再び現れていた。
「いやはや、自分の発言を一字一句考えてからでないと口に出せないなんて難儀なものだなぁ、全く。もっとも、今の貴方に聞こえているかどうか怪しいものだけども。……それでは失礼するわ」
聞く者が聞けば身震いする恐ろしい事実を何でもないことのように言ってのけて、サグメは悠々自適に神社を去って行く。
彼女が言うには、この一室でのやり取りは台本通りだったと。針妙丸の驚愕も、憤怒も、疑念も、徹頭徹尾、何もかもが自分の手の内にあったと。
針妙丸から情報を訊きだせないことも、こうして針妙丸が『本当の気持ち』を巡って一人ぐるぐると落ちていくのも、彼女は知っていたのだ。
何たる策略家だろうか。やはり、「天探女」は伊達ではないということだろう。
針妙丸は、サグメの去り際の台詞を辛うじて聞き取っていた。思考の中枢が正邪で占められる中、頭のほんの片隅で、格の違い、どう足掻いても克服することのできない壁という物の強度を理解すると、二つの凶刃の間に生まれる空間に、意識は飲み込まれていった。
「こら正邪や」
闇の中で想起したのは、逆さ城の天守閣。肌寒い小風が着物の袖を揺らす空中。針妙丸が城主となるはずだった、夢の残滓が舞台。
「そろそろ返してくれないかい? 残りの小槌の魔力を」
弾幕ごっこをするには十分すぎるほどの殺意がこもった、強大な魔力をその身にまとった針妙丸は、眼下に浮遊する小鬼を見下しながら諭すように語り掛けた。募りに募った思いをぶちまけてしまいそうで、内心冷や汗を流す。
「え? 何を言ってるんですか? これからですよ、本当の下剋上は」
まるで忠臣ぶって恭しく頭を下げる正邪を見て、何を今更、と思わなくもなかった。それでも、昔と違わず元気そうに天邪鬼を発揮している姿を見て、針妙丸は思わず安堵で力を抜きそうになったが、彼女が後ろ手に隠している小槌のレプリカを見て、闘志を奮い直した。
話は、正邪を捕えてから、あの夢の続きを再開するのは、それからだ。
「うーん、残念だけど……もう下剋上は無理だよ。我々は戦いに敗れたんだ」
「大丈夫ですよ、これだけの反則的な魔力があれば、いつだって幻想郷の妖怪を支配下に置けますよ」
正邪の口ぶりは針妙丸を地の底から引きずり出した時と同じ。両の手で優しく抱き上げるような甘美な響きだった。
しかし、針妙丸とていつまでも地団太を踏んでいるわけではない。
「いいんだ。いいんだ、もう。一緒に降伏しよう。幻想郷の妖怪達は敵対したりしない」
「お言葉ですが……」
完成度の高い作り笑顔を張り付けていた正邪の声が暗くなる。同じくして、彼女の目は赤と白のメッシュの混じった髪の後ろに行ってしまう。
風が凪いだ。
「やなこった! 誰が降伏なんかするもんか」
息をするように嘘を吐く二枚舌を見せつけるように突き出し、人を小馬鹿にしたように細まる目。正邪はありったけの侮蔑を込めて、針妙丸の最後通牒を足蹴にした。
腹は立たなかった。むしろ、それ以外の反応をされても困ったと、針妙丸は口の端を緩めた。
それでこそ鬼人正邪。それでこそ、小人の過去を一蹴し姫を地上に攫っていった子鬼だ。
「ま、あんたならそういうと思ったけどね」
被っていたお椀を一度目深く被り、零れてしまった笑みを伏せた。
正邪は既にレプリカと血に飢えた陰陽玉を握り、いつでも反則弾幕に対応できるよう構えを完成させている。
不思議な高揚感が体を軽くしてくれるのを針妙丸は実感した。はて、自分は正邪を非難するために捕縛令を出したのではなかったか……そんな疑問も、輝針剣を一振りするとすぐに消えた。
「ならばその魔力返してもらおうか!ちなみに反対するならば……本気で捕らえるようにみんなに伝えておいたよ。命あっての物種じゃないかねぇ」
「どんな奴に命を狙われようとも、こんな素晴らしい力、返す理由がないな」
レプリカ小槌を握りしめた方の腕を突き出し、正邪はピンっと中指を突き立てた。
ああ、これだ、これが正邪だ……。針妙丸も呼応するように小槌を天高く振り上げる。
「我が名は正邪、生まれ持ってのアマノジャクだ!」
天上天下唯我独尊。この日、鬼人正邪が、幻想郷全てに喧嘩を売った日。
針妙丸の願いが潰えた日でもあった。
ああ、どうしてこの夢なのだろう。いつまで私はこの夢を繰り返さねばならないのだろう……。
針妙丸は畳を静かに濡らした。
完結まで、然程長くはないと思います