彼女が正邪を○したい理由   作:エビの衣風巻

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序2

 結局、目を覚ましたのは夕餉の時分を少し過ぎたあたりで、霊夢が起こしに来てくれなかったならば、針妙丸は翌朝まで空腹で過ごさなければならなくなっていたことだろう。

 あまり食事も喉を通らなさそうな気配もあったが、霊夢が針妙丸の体調が優れないのを見計らって量を少なくしてくれたので、何とか完食することはできた。いつも気だるげだが、なんだかんだで面倒見がいい霊夢のことが、針妙丸は大好きだった。

 食事の最中、針妙丸は霊夢に「サグメに何かされたのか」と聞かれたが、特に何もなかった、と答えた。身元引受人である霊夢に天邪鬼関連でこれ以上負担をかけさせたくないというのが建前で、実のところ、今回のそれは正邪に対しての気持ちの整理がまだついていないから引き起こされた事件だという針妙丸の見解から、これは自分の問題、自分が解決しなければならないからというのが本音だった。

 霊夢はこれに対してほとんど言及しなかったが、その分、針妙丸は余計な心配をかけさせてしまったかな、と思置いた。

 湯船に浸かり一日分の汚れを落とすと、いそいそと布団を敷き始めた霊夢をよそに縁側に向かい、夜天に白々しく浮かぶ月を見上げようとした。

 今夜は満月。降り注ぐ光は爛々と夜の闇を遮り、針妙丸の頬を撫でる。温かさの欠片もない風がそよいで、知らず知らずのうちに肩をすくめてしまう。

 月は変わらない。正邪と連れられ地上に這い出してきてから、初めて見た月はどれほど欠けていたか。ふとした拍子に正邪のことを思い出してしまうのを鑑みると、もしかしたら今日と同じ望月だったのかもしれない。

 あの裏側には、幻想の中で恐るべき発展を遂げた科学都市があるという。そこには、霊夢を軽々と上回る実力者がいるとも。圧倒的な霊夢の力をその身に受けたことのある針妙丸からすると、到底信じられない話ではあったが、サグメとの邂逅を経た今では、あながち嘘でもないのだろう、と思ってしまう。

 改めてサグメと正邪の接点を考えようと頭を捻ってみても、天邪鬼であることしか思いつかなかったが、はて、あの天邪鬼から自身の過去について詳しく話を聞いたことはあっただろうか、針妙丸は思い返した。

 自分を説得するために練りに練ったのであろう大層な演説は覚えている。弱者の歴史から始まり、針妙丸の現在に当て嵌め、勇気を奮い立たせる。元来小人の在り方に疑問を抱いていた針妙丸には効果は覿面だった。

 が、その時も、正邪と寝食を一時期共にするようになってからも、彼女から彼女自身のことを聞いた覚えはない。会話の話題に窮して尋ねてみても、「下剋上に関係は無いでしょう」とか「私の過去なぞ姫の抱える小人の屈辱的な歴史に比べたら些細な事ですよ」などとのらりくらりと躱され……。

「わざと、答えない様にしていた……?」

 考えたくもない可能性。考えたくもない、というのは傲慢なんだろうが。

 もし、鬼人正邪が意図的に自分の過去を隠していたのだとしたら。本当は壮絶な体験をしていて、その中にサグメや、それに関わるものたちとの邂逅があったのだとしたら。

 ああ、よくよく考えればおかしな話だ。

 幻想郷の転覆、という途方もない計画を企てる輩が、世界の全てを敵に回しても構わないと豪語できるほどの輩が、一寸法師の子孫である小人の姫に劣るような動機を持たないはずがないではないか……。

 針妙丸は柱に寄りかかり、静かに目を伏せる。

 急に圧し掛かってきた脱力感に身を任せ、針妙丸はズルズルとへたり込んだ。

「私は正邪のことをよく知らない……」

 サグメに大言壮語を吹っ掛けておきながら、自分はこのザマだ。針妙丸は柱に静かに頭を打ち付ける。

 彼女からの信頼なんて最初から勝ち得てなんかいなかったのに、それどころか、思慮さえ欠如していた

 一人相撲より酷い有り様だ、針妙丸は思う。

 きっとこうしていつまでも正邪のことを引き摺って生きていくのだろう、それも未熟だった自分への罰なんだろう。正邪が今の自分を見たら、さぞや喜ぶのだろう……。

 気づけば、霊夢は布団にもぐり言葉も無しに明かりも消して寝息を立ててしまっていた。思惟に没頭していた針妙丸への配慮だとわかってはいるが、何とも微妙な表情になってしまうのを針妙丸は我慢できなかった。

 月明かりが入り込む社務室を見渡して、針妙丸は湿った空気を肺から追い出そうと大きく息を一つ。自分にあてがわれた小さな家に戻るのも面倒になってきて、針妙丸は風邪を引く可能性を無視してこのまま寝てしまうべく瞳を閉じ

 

 

 

 流れ星を見た気がした。

 

 もし本物ならばロマンチックだが、そうそう巡り合えるものでもない。

 針妙丸は、眠気を訴える意識の作りだした幻覚だと確かめるために薄目を開けた。

 

 流星群が、確かにあった。

 

 睡眠欲を身体から追いやり、恐るべき勢いで跳ね起きる。

 よく見ると、あれは星ではない。断続的に、規則的な指向性を持った光の欠片がある一点から散らばっていく。あれが流れ星であると、一度や二度ほどしか目の当たりにしていない針妙丸には到底思えなかった。

 強いて言うならば、

「誰かが弾幕ごっこをしている……?」

 特段不思議な事ではない。幻想郷を支配する妖怪たちの本領は人の寝静まった闇夜である。夜の浅い満月に活発になるのはそうそうないことだが、それでも、我の強い人外たちはいつも何処かで問題を起こし、弾幕ごっこで美しさを競い合う。

 元気な事だと、針妙丸は若干ぼんやりしている頭をふらふらと左右に振り、これならば特注の籠にたどり着けるかもしれないと踵を返そうとした目尻に、見覚えのある弾幕がよぎった気がした。

 見覚えのある、より、思い入れのある、の方が正しいか。

「正邪……?!」

 目を凝らして視界の限界に挑戦してみると、なるほど、特徴的な矢印のような弾が丸い弾幕の中心に向かって放たれているのがギリギリ視認できた。

 弾幕の主が正邪であるという確証を得られるレベルではなかったが、募りに募らせていた針妙丸の足を動かすのには十分だった。

 静かに畳を蹴ると、わずかな浮力を使って針妙丸の寝床である籠の前まで一気に詰め寄った。そして、それを縛っていた紐を少々苦心しながら解くと、括りつけてあった小槌に手を当て、

「小槌よっ!」

 短く、静かにそう叫んだ。

 むず痒さが針妙丸の身体に走り、後を追って鋭い痛みが電気のように走り抜けるのを感じて、一つ瞬きをすると世界は一変した。

 あまりに大きすぎた家具や柱が、今となっては使いづらい程度にまで縮んていた。自分の身の丈とほぼ同じだった小槌も握れるまでにリサイズされている。

 摩訶不思議、奇想天外。不思議の国のアリスがケーキを食したのと同じく、針妙丸の方が伸びたのだ。

 小槌が回収していた魔力を身体改造に回したのだった。本来、小人の真のサイズに戻るために溜めこんでいたものだったが、出し惜しみをするという選択肢は針妙丸の中にはない。

 使わなければならない時に使わないで、何が『打ち出の小槌』だ。何が願いをかなえる魔法の道具だ。確かめなければならない。助けなければならない。正邪は今、危機に瀕しているのだ。

 可能性は確信に変わり、早う、早う、と針妙丸の心を急かす。

「いでよ!」

 軽く一振りすると、針妙丸がすっぽり入ってしまうぐらいの寸法のお椀が蓋つきで顕現した。オカルトボール争奪戦の際にも使用した、針妙丸御用達の防具である。

 針妙丸は蓋をあけ滑り込むように中に入ると、弾丸の如く初速でお椀を発進させた。

 目標は魔法の森近く、香霖堂付近の森。目立った脅威はないが、人や妖怪の出入りは多い。要は、誰かの目につきやすいということだ。

 神社とそう離れていないのが幸いし、三分もしないうちに戦闘空域の外円部に到着することができた。その時になってようやく、針妙丸は弾幕ごっこを繰り広げている両者の姿をしっかりと目に焼き付けた。

「くそっ、手元に反則アイテムさえありゃあこんな糞みたいな弾幕!」

 最初に目が行くのは鬼人正邪。赤と白のメッシュと、子鬼の象徴白い角。矢印の意匠が多めな奇抜な服装。黙ってりゃいい面してるのに、とよく言われる面には苦悶の表情が。

 思わず彼女の名前が出かかるが、針妙丸は上手く喉のあたりで止めた。彼女の服はあちこちが擦り切れ、腕や脚、顔にも目立つ切り傷がくっきりと刻まれ、破れた服の隙間からは青痣が見え隠れしていた。弾幕ごっこで、こんな怪我の有り様になるなど針妙丸は聞いていない。おあそびではない、明確な殺意を向けられている証拠だ。

 正邪に卑怯な戦いを挑んでいるのは、

「十全な準備をさせないのも兵法の内ってね!」

「月の兎のリサーチ能力を舐めないでもらえるかな!」

 先日、幻想郷を『浄化』するという名目の下各地で暴れまわっていた月の兎たち、清蘭と鈴瑚だ。

 青いドレスに身を包んだ清蘭は正邪と正反対に悠々自適に弾幕を放ち、南瓜みたいな印象を受ける服装の鈴瑚は小脇に風呂敷を抱え、清蘭よりやや離れた位置から二人の様子を見物していた。

「私は今日団子をいっぱい持ってきてるからね、負けても大丈夫よ、清蘭」

「あらら、見てよ、誰がこんな地上の底辺妖怪に負けるの?」

「まあ、ね……んっ……」

「……いつも思うんだけど、人と喋りながら団子を食べるのはよくないと思うの」

 あろうことか、決闘相手から目を離して会話する始末。正邪の息は切れ々々で、清蘭の忌むべき行為を指摘する気力も、それを気にする余力も残されてはいないようだった。

 前回、彼女たちを幻想郷によこしたのは稀神サグメ、今日、正邪をつけ狙っていると公言したのも稀神サグメ。正邪をこうして追い詰めているのは月の兎の隊。どうして月の兎がこんなところにいるのか、考えるまでもなかった。

「小槌の魔力も無けりゃ天邪鬼も大したことないなぁ」

「月の兎みたいな奴隷共に言われたくはないな!」

「その奴隷に負けそうな今の気持ちを簡潔にどうぞ! ほらほら、能力使ってみなよ、ひっくり返せるんでしょ、なんでも」

「うるさい……!」

 正邪の刺すような視線が清蘭を射抜こうとしたが、清蘭はとてもいい作り笑顔で一蹴。「地上の流儀に則ってお相手してるだけだから、お前なんていつでも捕縛できるんだぞ」と言わんばかりに手をひらひらと躍らせる。それを向けられた正邪も、憎悪の炎を燃やす。

「あなたは下剋上とか幻想郷転覆とかいう戯言をあたかも我是として言いふらしてるみたいだけどさ、あなたが地上で激しく動き回れたのは小槌のおかげ、反則アイテムのおかげ、自分自身の力なんて一つもないじゃない! よくそんなことで天下を狙おうと思ったね! ま、幻想郷を手中に収めたとしても月の御方々がいるからね、赤子の首を捻るより簡単に殺されるでしょうけど」

「御託はいいんだよ! さっさと全力でかかってこい、月のゴミ屑どもに媚び諂って尻尾を振ってお溢しをもらうためだけに生きてるゾンビさんよぉ!」

 清蘭は明らかに手を抜いている。しかし、現在発動しているスペルは通常の弾幕ごっこに使われるものとは一線を画しているのが見て取れる。ルール無用、十日限りの追走劇の劇中に頻出した、反則弾幕というやつだった。

 サグメがリークしたのだろう。針妙丸の腸が煮えてきたのかにわかに熱を持ち始めた。お椀を握る力が強くなるも、何より大切なのは正邪だ。怒りに飲み込まれてはいけない。震えながら深呼吸を挟み、戦局を見極めることに徹した。

 清蘭が波状的に繰り広げる弾幕を、最小限の動きで躱していく正邪。その合間を縫ってアローショットをぶつけようとするも、清蘭は踊るかのように一回転して避けると、杵を振るって次なる攻撃を仕掛ける。

 はじめ、正邪の動きは体力の消費を極限まで抑え、反撃の機会を多く得ようとしてのものと思われていたのだが、脇腹や脹脛に三発ほど掠らせた後、被弾箇所を摩るような動きをみせると、もう満足に体が動かないだけなのだと針妙丸は察した。

 針妙丸は正邪と清蘭たちを交互に見、小さく舌打ちをした。戦力差は歴然。正邪に助力をしても、今の自分たちに、万全を期してきた月の兎たちに勝てる見込みは一体どれだけあるだろうか。

 対抗することよりもまず、正邪がこれ以上負傷を重ねないうちに二人で戦線を離脱した方が得策だ。しかしそれも、身動きの取れそうもない正邪を抱えながらの行動になる。成功率はとてつもなく低い。

「まずいな……」

 最善の策を練らんとぼやいたその時、鈴瑚が針妙丸の方を向いた。

「ん?」

「気づかれた……?!」

 鈴瑚の実力は、異変の時に実際に見たこともある。そん所そこらの下っ端とは訳が違うこともその時知った。手に持っている団子がただ腹を満たすためのものでもないことも。

 針妙丸は慌てて身を翻そうとした瞬間、短く致命的な悲鳴に肩を掴まれた。

 振り返ると、運悪く頭蓋の横に弾を喰らった正邪がその場に踏みとどまる事能わず、真っ逆さまに落ちていくのを目の当たりにした。血の滴を空に残した、紫ら実力者と渡り合ってきた雄姿とは限りなく離れた光景。

 時間が数十倍ほどに引き伸ばされたようだった。

 ゆっくりと進んでいく世界の中で、針妙丸は必死にもがいた。鈴瑚に接近を悟られてしまった。もう隠密行動をする必要はない。清蘭がトドメと言わんばかりに弾幕を放つ最中、針妙丸はその隙間にお椀を滑らせ、召喚した釣り竿の糸に正邪を絡めた。

「何っ?!」

 清蘭が目を見開き、杵を振り上げて二人に接近してくるのを視界の端に捕えつつ、針妙丸は

「正邪にはもう指一本触れさせない!」

 そう言い放つと、正邪の体に負担がかからないよう極力加減をしながら加速し、あっという間に戦域を離脱する。

 後には勝利目前で獲物を掻っ攫われ棒立ちになった清蘭と、興味深そうに針妙丸の後姿を眺める鈴瑚だけが残された。

 

 満月の夜に相応しい静寂がよみがえる。

「まあそう落ち込まないで」

 団子を二つほど頬張りながら鈴瑚が清蘭の肩を叩いた。

「できればあそこで捕えておきたかった……」

「まあまあ、あの人も予想してた事さ。配られたマニュアルにも書いてあったでしょ? ほら、これあげる」

 団子を差し出された清蘭は微妙そうな表情でそれを見つめると、小腹の空きに気付いたのか「ありがと」と言って口に入れた。

「二人のことは放っておこう。これにて私たちの仕事は終わり。それでいいじゃない」

 神妙な面持ちで爪を噛む清蘭。

 鈴瑚は一仕事終わったと言わんばかりに背伸びをすると、小さく欠伸を漏らした。

 今回の任務は、針妙丸の陽動である。できれば正邪の捕縛もとのことだったが、それほど執着はしていないようだった。真意の程は聞かされていなかったが、久々に幸楽に身を投じた月の民特有の浮かれ具合に、辟易とした記憶を掘り起こしながら、幻想郷の浄化よりかはマシな仕事だったと団子をまた一口。

「そうだけどさ、これで戦果あげたら待遇アップも望めたかも知れないんだよ?」

「……辞めるのがなかなか難しいとなれば金輪際、私は団子が貰えたらそれで十分だしなぁ……」

「団子二百年分とかも夢じゃなかったのに」

「なんで逃したの!? この意気地なし!」

「えぇ……」

 

 

 

 

「正邪、しっかりして」

 月の追手の捜索範囲から十分離れたところを見定め、針妙丸は正邪に意識があるか問いかけた。

 逃亡のために無理な軌道をとったのが心配だったのだが、幾度か返答をしようとする意志は確認できたので針妙丸は小さく頷くと、安全が確実に保証でき、尚且つ安静にできる場所まで一直線に駆けた。

「あの場所までもう少し、もう少しの辛抱だから……」

 自分に言い聞かせるように針妙丸がもう少し、もう少し、と繰り返すうちに、正邪は喉を震わすのをやめた。意識を手放してしまったようだ。彼女が完全に力尽きる前に、急がなければならない。

 目指すは、決起前に利用していた隠れ家のうちの一つ。正邪と共に『敵地』を視察するために何個か作り上げておいた、二人だけの秘密基地である。

 

 しばらくぶりにつけたランプは問題なく灯り、奥で横たわる正邪と、決起以前から変わりない備品の数々を薄明るく照らしてくれた。

 ここは竹林近くに掘られた、いわば洞穴である。崖の隅、注意しなければ存在すら気づかないような、避難にはもってこいの場所だ。かつてはとある妖怪の住処だったのだろうが、退治されたのかはたまた消滅したのかは知らないが、運よく正邪が見つけ、最低限度の生活ができるよう改造し、そのまま使わせてもらっていた。

 あくまで『緊急用』に用意されたものなので、ありとあらゆるものが最低限度だ。寝床は藁だし、あちこちで拾った外の世界製の『非常食』が少量保管されているだけで、満足な食料もない。妖怪にしては治癒力の低い正邪と、怪我の多い針妙丸のために『拝借』した応急治療品はある程度存在はしているのだが。

 霊夢らも知らない、針妙丸が隠し続けている正邪との秘密の一つなので、害意あるものたちがここに立ち寄ることはない。その点逆さ城より最適な場所といえたため、針妙丸はここを選んだ。

 少し離れたところにある湖からお椀に水を入れ、傷口を丁寧に消毒するたび、正邪が歯ぎしりをして痛みに耐える。時折体を跳ねて「アッ」と声を上げるが、それすらも痛むのか直ぐに身動きを取らなくなってしまう。

 針妙丸は無心で正邪の手当てを続けた。ただただ正邪に助かってほしい一心で、慣れない手つきで包帯を巻き、正邪の額に浮く汗を自分の着物の袖で拭ってあげた。

 手当としては、お粗末なものだった。正邪の体中に包帯が巻かれ、既に血がにじんでぼんやりとした朱色が斑点の様に浮き出ていた。今にも外れそうな箇所もある。地底で姫として祀られていたその時から箱入りとして育てられてきた針妙丸に、まともな知識が備わっているはずはなく。

 これとて、正邪が針妙丸に施してくれた治療の記憶を辿り、ようやく形にしたものなのだ。どうしたら正邪を楽にしてあげられるのか。針妙丸は出てくるはずのない答えを探す。

 正邪は低い唸り声を不定期にあげ、その声に合わせて増す痛みを和らげようと身じろぎをする、その繰り返し。

 針妙丸の体感時間で二時間は経とうとしているが、正邪の意識はあれから戻っていない。無理もないことなのだろう。奇跡的に致命傷は無かったものの、嬲り殺しにされる直前だったのである。生きていることの方が不思議なぐらいだ。腐っても妖怪、ということだろうか。

 正邪の額から赤黒い血が鼻のラインに沿って流れ出ているのに気付いて、針妙丸は包帯の切れ端を握ってあてがった。色が黒いのは、きっと光の加減なのだろう。

 間近で見ると、正邪はやはり端麗な顔立ちをしている。針妙丸の価値観という補正を除いても、おそらく事実だろう。今は傷に身体と精神を犯され、魅惑の容貌を歪ませているが、垣間見える安楽した表情を見るだけだと、自ら望んで死地に赴いたり或いは死に場所を作ろうとする無謀で愚か者には到底思えない。

 何が彼女をそこまで駆り立てるのだろうか。正邪は一体、針妙丸と巡り合う前、どれほど壮絶な歴史を目の当たりにしてきたのだろうか。『我々弱者の虐げられてきた歴史』と語る、彼女の見た世界とは。

 悔しさだっただろうか、針妙丸が眉を顰めた理由は。自分が一番正邪を理解していると信じていたのに、その実、自分もまた周りと同じように正邪の表面しか触れられずにいて、彼女という光は自分を照らしてくれていなかったから。

 正邪の目蓋にかかった鮮血色の髪を、邪魔にならないよう梳きながらずらす。針妙丸は端に赤が残る正邪の口を凝視して、暫くすると辛抱ならないといった具合に人差し指をその唇に這わせた。

 夜が更けていくにつれて度を増していく愛しさが、針妙丸を揺らす衝動となる。

 ダメだ、それだけはいけない、卑怯者にはなりたくない……!

 針妙丸は下唇を噛み、見張りと言い訳をして正邪の傍を離れたりとどうにかしてしまいそうな鼓動と衝迫を抑えるべく行動を起こすが、ついつい伸びてしまう腕を小槌で打ち付け、直接的な行動で麻痺させる他に手立てはなかった。

 鉄の香りのする甘い幻誘惑と、現実的でナンセンスな痛み。

「……なぜだろう」

 針妙丸は淡く確かな光りをぼんやりと眺めながら、清蘭の言い放った台詞を反芻する。

 

『あなたは下剋上とか幻想郷転覆とかいう戯言をあたかも我是として言いふらしてるみたいだけどさ、あなたが地上で激しく動き回れたのは小槌のおかげ、反則アイテムのおかげ、自分自身の力なんて一つもないじゃないか!』

 

 あの時、針妙丸は清蘭に並々ならぬ殺意を覚えた。正邪の救出に頭がいっぱいで深く考えることはしなかったが、考えてみると、自信を無くしている今でも、それは違うと言い切れた。

 正邪の強みはその意志だ。意志の強さだ。

 叶わぬと知った願いも、敵わぬと知った相手にも、彼女は立ち向かっていく。絶対に叶える、絶対に倒してみせる、そう意気込んで、拳を振るう。成し遂げなければおさまらない。突き進むしかない。そういう生き方しか知らない。

 正邪は狡猾である。逆さ城の異変に携わった者たちの予想を遥かに上回る脳力を持っている。自分が生き残るための術を休むことなく試行錯誤しているし、計画遂行のための準備も入念に済ませる。引き際も知っているし、年貢の納め時も勘付くことができる……。

 故に折れない。ひたすらに硬い剣は折れやすいが、正邪は違う。自分をよく知り、柔軟性のある鋼として、筋を通そうとしている。

 そういう生き様が、正邪を強くし、また、針妙丸の生き方を変えたのだった。

 正邪の行いは決して許されるものではないし、償いをさせなければならないとわかってはいるが、彼女の姿勢を批判することだけは針妙丸にはできなかったし、他人が愚弄することも、断じて見過ごすわけにもいかなかった。

 今度清蘭に会ったときは小槌の力をフルに活用して骨の髄まで叩き込んでやろう、それに、正邪に牙を剥き出しにして突っかかられるなんて

「くそぉ……」

「っ、正邪?!」

 正邪が意識を取り戻したらしく、比較的無事な左腕を支えに起き上がろうとしていた。

 針妙丸は彼女の肩を抱きかかえ、静かに体を再び寝かしつけた。

「まだ起きちゃダメ、酷い傷なんだから……」

「黙れ……散々我々を馬鹿にしやがって……」

 制止を振りほどいて上体を起こそうとする正邪。どうやら、意識がまだ混濁していて、彼女の中ではまだ月の兎たちと対峙しているようだった。

「ここは隠れ家よ、私、針妙丸とかつて作り上げたその一つ。月の兎はもういない、ここまで追ってこられない」

 正邪の手を固く握りながら、一言ずつ区切って、言い聞かせていく。命を削りながらも侮辱された恨みを晴らそうともがく姿は、とても痛々しいものだった。そのはずだった。

「……針妙丸?」

「そう、少名針妙丸」

 焦点の定まっていなかった正邪の瞳に幽かに光が宿った。横目で介抱された後の自分の身体を観察し、張本人であるだろう人物が針妙丸なのかを見定め、審議の結果本人である確証を得られると、正邪はいきり立っていた全身の力をいきなり抜き、露わにしていた感情を無に帰すと、

「……くそっ」

 針妙丸の耳にも入るかどうかの声量で悪態をつき、針妙丸から顔を背けるとまた気絶してしまった。

 苦しそうに息が荒くなることもあったが、此度の眠りは幾分か安らかなものであるらしく、体を跳ねさせることもなかった。

 針妙丸は、正邪がこれから快方に向かっていくことを予感すると、微笑みをたたえながら嘆息し、散らばった医療器具をそそくさと集めて元の場所に戻した。

 正邪が見せた弛緩具合は、きっと自分だから見せてくれたのだろう、針妙丸はそう思うことにした。他に誰が正邪を安心してあげられるのか。彼女には敵しかいないというのに。異変の首謀者という側面しか知らない輩に、負けるはずがない。

 正邪の天邪鬼以外の一面、彼女を構成する裏側を見ることができるのは、自分だけ。天邪鬼という腹立たしい見せ掛けを取り除いた彼女の激しい怒りも、自分だけのもの。そう思っていたのに。

 正邪の包帯は何回か変える必要があるだろう。しかし、予備も何もかもが今回で出尽くしてしまった。正邪の治癒能力を考慮すると、食料も心許ない。どちらも逆さ城か、神社にでも行かなければ調達はできない。

 が、神社には霊夢がいる。鬼人正邪を匿い始めたなどと到底言えるはずもないわけで、とりあえず逆さ城に向かうことにした。

 が、幾ら神社を避けるように動いたところで、結局朝までには帰らなければならないとなると、正邪の看護するときに着物についた血もどうにか誤魔化して適当な説明をつけなければならない。

 針妙丸は後先考えず動いたことを自省すると、どこかの木から落ちて擦り傷でも作ればいいのかな、などとつじつまを合わせる方法を考えながらお椀に入り、人目につかないよう超低空で滑空し、因縁の場所、逆さ城へと身を運んだ。

 




正邪正邪と打ち込むたびに正邪正邪
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