古明地さとりはギンコの治療を拒み、緑の杯を飲み干して蟲にならんとした。ギンコは地底のさらに深く掘られた井戸から光脈に降り、さとりを引き戻すことに成功する。
作者の腰が安定したので投稿。それでは
幻想奇譚東方蟲師、始まります。
さとりはまた、見慣れた天井を見て目を覚ました。視界いっぱいの深紅を見て、ああ、と何かを嘆いた。
ここは自分の寝室。今度は気絶する前の記憶も鮮明で、寝たままの姿勢で首だけを動かせば、白髪の男を見る。
「……目が覚めたか」
いつかも聞いたその台詞に既視感を覚えつつ、さとりは天井に視線を戻して、ええ、と素っ気なく言った。
「お前のペットたちには席を外してもらっている。もっとも、部屋の扉のすぐ近くにはいるだろうがね」
「そう」
「あとお空とかいう鴉天狗みたいなあいつ。服乾かすだけだってのに俺ごと燃やそうとしてきたぜ。ちゃんと躾ておけよな」
「あら、そうなの。あとでご褒美ね」
「おい」
ギンコは目の前に太陽でも生まれたのかという先の光景を思い出し、頭を抱えた。
ギンコがさとりと二人きりになったのは、何も世間話をするためではない。嫌がるさとりを現世に引き戻したギンコは、覚悟を決めて聞いた。その覚悟を、蟲となった古明地こいしが見守っていた。
「目を覚ましたのなら、改めて聞いておく。お前さん、半糸を断ち切る気はあるのか」
「ないわ」
抑揚のない声で、さとりは断じた。そして上半身をゆっくりと起こし、手の小指に巻き付いたそれを愛おしく撫でた。
「これはこいしとの繋がりよ。断ち切るなんて選択肢、あるはずがない」
「それが、妹の形をした異なるモノだとしてもか」
「……こいしはこいしよ。他の何物でもないわ」
「お前をそこまで固執させる理由はなんだ。妹を蟲にしてしまった引け目か。それとも……」
「あなたには関係ない。言ったでしょ? これは姉妹の問題よ。深入りして欲しくない」
さとりはギンコをにらんで、拒絶する。しかしギンコはその視線を受け流し、据わった目でさとりを見つめた。
「……俺はもう十分深入りしたよ。お前さんを光脈のそばから引きずり戻した時からな。だからこそ、ここで終わるわけにはいかない。お前さんには、絶対に治ってもらう。これは俺の覚悟だ。こいしも、それを望んでいる」
「……皮肉な話ね。覚悟を決めたなんていう人間の言葉を、私たち覚が信じなければならないなんて。心が読めないのは、やっぱり不便だわ」
「面倒臭がってんじゃねえよ。伝えるべきことを伝える口なら、誰にでもあるだろ」
ギンコは口の端を釣り上げた。さとりの無言にかぶせるように、ギンコが会話をつなぐ。
「そういやお前には、半糸の特性をしっかりと説明してなかったな」
「半糸って、この指に巻き付いた糸のことでしょう?」
「ああ、それは仲を深めた二者の間に寄生する蟲だ。想いを伝え、心と心を結びつけることで他者との間にある承認欲求を満たし、宿主に強い幸福感をあたえる。そうして満たされた心の隅を、食べて生きる蟲だ」
「まるで覚のような蟲ね。ますます愛着がわいたわ」
さとりは自嘲した。その自嘲に、ギンコは真面目に言葉を返す。
「そう仕向けることが、蟲の特性だとしてもか。それに、心が通じ合うといっても、都合のいいことばかりを伝え合うのがこの蟲だ。お前さんも、そんな都合のいい夢を見させられているんだぞ」
「……」
ギンコの言葉に、さとりは返さない。黙り込む。
さとりの半糸は先の件で緩くこいしと結びついた。ギンコの言うように、強い承認欲求が満たされつつある。こいしが私を慕ってくれている。少し前までは不安定で、おぼろげだった彼女の気持ちが、手に取るようにわかる。そういう確信がある。
「覚妖怪がどこまで人の心を読めるのか知らんが、それは清濁併せ持った心の美醜をそのまま受け取ることだと聞く。半糸の見せるものは清流のせせらぎだけだ。淀んだ川の淵を見続けたお前にとっては、さぞ美しいものに映るだろうさ」
「そこまで理解していてなぜ私の行動を止めるの?」
「それが幸福ではない、と俺も思うからさ」
ギンコのその言葉は、さとりが光の川の縁でこいしに投げかけられた言葉とよく似ていた。綺麗なものを見て生きることが幸福じゃない? 醜いものを、ゲテモノを食べて生きるのが真の生だとでも言うの? さとりは問いかける。問いただす。
「幸福なんて、あなたに決められることじゃない。これが私には最良なのよ」
「お前は盲目になろうとしているだけだ。最良かどうか判断する、その物差しをへし折ろうとしてんだよ。見たくないものまで見えちまうその心を、閉ざしたいとでも思ってんのか」
「あなたに何がわかるのよ!」
さとりは激怒した。
「こいしとのつながりを失ってしまった時の私の気持ちが! あなたにわかるはずがない! あの時の喪失感を、あなたに理解できるはずがない! 心を閉ざしたいですって? ええそうよ! 私もこいしのように心を閉ざして生きていきたい! 心の美醜が見えるなんて、もう耐えられないのよ! あなたにはわからない。心が読めないからって、きれいごとで私を騙そうとしてんじゃないわよ!」
「……」
「つながりが断たれたことなんて、蟲以前の問題よ! こいしは心を閉ざしてしまった! 私にはもう、あの子の心がわからない! これしかないのよ、これしか!」
さとりは自分の手につながる赤い糸をギンコの目の前に掲げてみせた。小さな手を目一杯開いて、見せつけるように眼前に晒す。その手は、震えている。
ギンコはその小さな手に、そっと自分の手を添えた。
「……それがお前の固執か。人の心が移ろいやすく、醜いものだと知っているからこそ、半糸のつながりに固執する。妹が心を閉ざし、覚妖怪として不完全になってしまった不安に、つけ込まれているんだ」
ギンコは薄く繋がった赤い糸の先を見る。そこには、覚りの言葉を聞いていたのかいないのか、虚ろな目で立ち尽くす古明地こいしの姿がある。まるで夢でも見ているかのような佇まいだ。
「……あのこいしは、意識も無意識からも解放された、本当の意味でのこいしの本能だ。経験だけに裏打ちされた、嘘偽りない情報だけが、あの体に残っている」
ギンコは語る。重く、重く。低く、語っていく。
「あそこにあるのはこいしの根だ。これまでを生きてきた経験だ。それが半糸をたぐってお前のところに来たってことは、こいしはたとえ蟲になっても、お前のことだけは忘れていなかったってことなんだよ」
「え……?」
「半糸は強い感情を伴う蟲だが、その大元はやはり、人の心にある。その心がないところのお前の妹が、なんでここまでやってこれたと思う?」
「……」
ギンコはさとりの手を握った。いつか姉妹でこうしてやったことがあっただろう、手をつないだことがあっただろう、とギンコは言う。
「覚えてるんだよ。お前と手をつないでいた時のことを。確かに繋がっていた時のことを。その記憶が、幸福感に繋がっているんだ」
それは強烈な記憶。蟲が巣食うほどの感情の本流。姉を思う、妹の気持ち。
「あいつは心を閉ざしても、お前のことを忘れちゃいない。大きな心の繋がりを断たれて、不安に思ったかもしれんが、それだけは、誠の心だ」
だから自暴自棄になるな。半糸なんてなくたって、お前たちはちゃんと繋がっている。ギンコの言葉はそこで静かに、部屋に溶けていった。
さとりはこいしを見た。それは虚ろな目。意識もはっきりとしないその妹が、赤い糸だけを頼りにさとりを訪ねてきた。さとりはその事実に、静かにそっと、布団を濡らした。
「半糸の治療を、受けるな?」
ギンコの問いかけに、覚はしばらく黙り込んでいた。すすり泣くような声でうつむき、布団を濡らして長い時間が経った後、ギンコの手を握り返し、さとりは小さく頷いた。
「ちぎれた半糸の治療は一つだ。ちぎれた一端を、それぞれ別の糸として考え、お互いの手に結び直すこと。繋がりが二つになった半糸は混乱して、二人の間から離れていくはずだ」
ギンコの言葉に、さとりは頷いた。固唾を呑んで見守るのは地霊殿のペットたちと、ギンコに同行してきた紅美鈴に伊吹萃香である。
ここは地霊殿の中庭。紅魔館のように華やかさはないが、質素に整えられた箱庭的雰囲気の場所である。
蟲となったこいしはギンコとさとりの二人以外には見ることができない。さとりのしようとしていることが見えない萃香は、もっぱらの興味をギンコに向けていた。
「よぅ色男。どうやってさとりを口説いたんだよ」
「不思議ですよねえ。あんなに頑なだったのに」
「俺じゃねえよ。さとりの固執を解いたのは、あいつさ」
そう言ってギンコはこいしを見る。相変わらず夢でも見ているかのような佇まいだ。
さとりは自分の指から伸びた半糸を、こいしの指に巻きつける。そしてこいしの指から伸びた半糸を、自分の指に巻きつける。後者は苦戦を強いられたが、なんとか結ぶことができた。
さとりはギンコを見る。ギンコはその視線を受けて頷いた。
しばらくもしないうちに、半糸がざわつき始める。糸のようだった儚い姿は膨張してミミズのようになり、二人の間から溶けて消えるように、空中へと霧散した。
「これで、いいのよね……」
「ああ、ご苦労さん」
吹っ切れた表情のさとりと、ギンコを交互に見つめているのはさとりのペットたちだ。もう大丈夫だ、とギンコが言えば、そこには静かな歓声が沸き起こり、お燐とお空も、さとりの元へと駆け寄っていった。
「これで一件落着ってわけですね!」
「いいや、これで半分だ」
小君のいい音を立てて平手を合わせた美鈴に、ギンコはそう呟く。その言葉を、ペットたちにもみくちゃにされながら、さとりも聞きつけていた。
「そうね。半分、かしら」
「え? でもさとりさんのことを引きずり込もうとしている蟲はもういないんですよね? じゃあ何が残っているんです?」
美鈴の疑問に、答えるような態度を示したのは古明地さとりだった。ペットたちをやんわりと遠ざけ、ギンコへと歩み寄った。
「蟲師のギンコさん。この度は一身上の都合により、多くご迷惑をおかけしました。このお礼は後ほど必ずいたします」
「ああ」
「それで、先ほど半分と申し上げたことなのですけれど……お願いできますか?」
「かまわんよ。俺は」
少し話についていけていないのはギンコとさとりを除いてほか全員だった。
さとりが頭をさげる。そしてギンコに向かって、ある依頼を口にした。
「ではギンコさん。こいしのこと、姉としてよろしくお願い申し上げます」
「承った。妹の方も、なんとかしよう」
まあ、むしろこっちが本命だったんだがな、とギンコは頬を掻いた。二人の周囲も、得心がいったようにざわめき始める。
ギンコとさとりが半分といったのは、古明地こいしの存在のためだった。彼女は今も、光脈のそばでとある蟲を封じている。
「で、あてはあるのかい?」
真っ先に聞いたのは萃香だった。腕を頭の後ろで組み、口元には笑みを浮かべている。
「うーむ、正直夢野間を封じているのだとすれば、五分ってところか。緑の杯を使って連れ戻しても、目が見えないのは不便だろうしな……」
ギンコは色々と考えを巡らせているようだった。顎に手を当てて、気だるげともとれる眼光を鋭く何かに向け、考え、唸っている。その様子に、誰かがが見とれていた。
「とりあえず、光脈のそばまで降りて行ってからだな。こいしはいつも光脈の対岸にいるが、井戸を使えば多少は長く話せるだろう」
「さっきの井戸かい?」
「ああ。ただでさえ地底という場所に加え、あの井戸はかなり深く、光脈のそばまで降りている。井星の数も多かった。長くいると引き込まれるが……俺なら大丈夫だろう」
それじゃあ、とギンコは井戸へと足を向けた。その後ろ姿を目で追うものがいる。その娘の尻に平手を打ち込み、萃香はニヤリと笑って見せた。
はい、昨日はあげられなくてごめんなさい。腰やっちゃってましてね。活動報告でもなんとか書きましたが、ちょっとヘルニアっぽいです。いてー(棒)
あと読者の皆様にご連絡いたします。現在連載中の東方蟲師ですが、この5章をもって、一時休載とさせていただく旨を、誠に勝手であると承知の上でお伝えします。理由は作者の一身上の都合です。誠に申し訳ございません。
これまでご愛好くださった皆様には、良い暇つぶしになったのではとの自負もあります。あと数話ですが、一旦の区切りまで、どうか東方蟲師を応援してください。よろしくお願い致します。
それではまた次回、お会いしましょう。