紫の真意を知った地獄の番人達は歯噛みした。その中の一人、小野塚小町は三途の河に姿を現したスキマ妖怪にくってかかった。
バトル描写はありません。先に言っておきます。(難しいんじゃ……ごめんね)
ぽつりぽつりと雨が降り出したのは、やはりというか三途の河を目指す道すがらであった。傘を持たぬ一人の男が、肩身を濡らしながら水気を含んだ地面を踏みしめている。命蓮寺を後にしたギンコは頂いたおにぎりを道中にてさっさと平らげ、三途の河への道を歩いていた。
背の高い草に分け入り、霧が漂う彼岸の淵を見る。そこにはギンコの想像だにしない光景が広がっていた。
「……なんだこりゃ」
「焦げた死神ですわ」
思わず漏れたそのまんまの言葉に、そのまんまの答えが返ってくる。
見りゃわかる、という言葉を飲み込み、ギンコは衣装の端々から細い煙を上げる変死体に近づいた。頭のそばにしゃがみ込み、後頭部をパシパシと叩く。
「……なにすんのさ」
「おお、生きてる」
「しぶとさがないと勤まりませんもの、死神は」
「あんたが死神を語るな!」
あーもう、と体を起こした小町は仏頂面で紫を見つめた。子供っぽいその仕草からは、つい先ほどまで紫に向けられていた敵意がすっかり抜け落ちている。ここで何があったのか。いまいち状況が掴めないギンコは周囲を見渡した。特に変わっているところは見られない。昨日見た河原そのままだ。非常に静かで、じっとしていれば雨音が染み込んでくるような自然の静寂がその身を包む。一抹の侘しさすら感じさせる彼岸の声は、ギンコをして馴染み深く、居心地の良さを覚えるほどである。
観察だけでは答えが出そうもないと、ギンコは頭上に声をかけた。
「何かあったのか?」
「特に何もありませんわ。ただ決闘を少々」
「決闘? そりゃあ……また物騒な響きだ。で、どういう理由でそんなことを?」
「そんなことを聞いてどうなさいますの? それよりも、私は何故あなたがここに来たのか気になりますわ」
質問に答えず、紫はじとり、とギンコを見下ろした。その視線を目だけで受け止め、ギンコはしょうがないと言いたげに首をすくめた。
「いやなに、ただの経過観察だ。蟲師としてこの土地は大変に興味をそそられるんでね。川の姿をした境界という概念。そこに同調し、支流を作った光脈。ここに何故ここまで早く、光脈の支流が形成されたのか……気になるところではある」
川岸に近づき、水のようなものに手を浸す。沼のような、重厚な存在感が掌から指先を包む。ずるずると、川底へと誘う何かがそこにいるような感覚。ゆっくりと引き上げた手に、水気は一切なかった。
「ではここには興味本位で?」
「興味半分、本業半分ってところだな。俺としては、支流の形成を早める何かがあると踏んでいるんだが、お前さん、心当たりはないか?」
ここで初めて、ギンコは紫の方に体を向けた。立ち上がり、一つ、疑念があるといった表情。
紫はそのあからさまな物言いに、これまた嘆息した。
「本当、勘が鋭い方々ばかりで嫌になりますわ。ギンコさんって、常に冷静で飄々としているかと思えば意外とせっかちですのね」
「お、やけにあっさり認めたな。半分以上かまかけだったんだが」
「あらそうでしたの。でももう関係ありませんもの。知ったところであなたには何もできませんわ」
「ま、そうだな。手段はどうあれ、光脈の支流を作り出したことに違いはない。人の範疇から外れた事象だ。ワタリの連中でも手に余るだろうさ」
得意気と呼ぶにはあまりにも余裕のある態度の紫の言葉に、ギンコは特に反論するでもなく、あっさりと肯定の意を示した。
「随分と会話が弾むじゃないか。蟲師だっけ? あんた」
「ん?」
会話の輪から外れていた小町が口を挟む。ギンコの素性を尋ねるその声に、ギンコが振り返った。それと同時に、小町も立ち上がる。
「この妖怪が何をしたのか知っているのかい? もし知っているなら、詳しいことを聞きたいんだけれど。」
「いや、悪いが俺も昨日話したこと以上の情報はない。死神の小野塚小町、だったか? そういうお前さんこそ、何か知らんか。あいつと一悶着あったみたいだが」
「ふん、あの妖怪の思わせぶりな態度は今に始まったことじゃないけどね、これから何かする素振りはあったよ。なんでも、”頃合い”なんだとさ」
「頃合い、ねえ……」
ギンコと小町は揃って訝し気な視線を紫に向ける。紫といえば、未だに空中に座し、優雅に足組みなどをしていた。
三つの目玉に見据えられた紫は、やがて喜劇の前口上でも始めようかという大仰な動作で扇子を開いた。
「ふふ、ではせっかちなお客様お二人のために、計画を最終段階に移行するといたしましょうか」
どうかご笑覧あれ、と紫は言う。事ここに至り、紫の真の目的が遂行されようとしていた。
深い霧の河。水底に沈むは蛇の群れ。溜まり、淀み、海巳は大きな一になる。
紫の導くままに、虚空は切り裂かれ、新たに大きく空いた裂け目の奥から、異形を象徴する眼球が水面をじっと捉えていた。
底冷えするような不気味さを持った視線は、不思議な引力を放っているようだった。手招きされているような、そんな不確かな引力。だかその引力は徐々に三途の河の水面を持ち上げ、ずるずると川底の淀んだ一帯を引き摺り上げていった。
奇妙な光景だった。例えるならそう、蛹の羽化を大きくしたような光景。三途の河に満たされている偽りの水面を破り、その奥から群青の帯が現れる。
ギンコも小町も、言葉を失っていた。彼らの周りでは雨が静止し、次第に姿を現わす群青の帯に吸い寄せられていく。確かに水が蠢き、うねっているというのに、水音の一切がないのは、それらが偽りの水だからだろうか。はたまた、音すら飲み込む裂け目の引力のせいだろうか。二人には判断が付きそうもなかった。
自分の鼓動すら聞こえそうな静寂の中で、天の風穴は海巳を飲み込んでいく。引き摺り込んでいく。河一つ飲み込む天穴。巻き込み、捻じ曲げるように折り込むその様は、ある種の雄大さを秘めていて、さらに暴力的であった。
「驚いた……」
ギンコは驚嘆していた。これが紫の真意。言うなれば、彼女にしかできない蟲払い。
単純な話、集めて捨てる事。紫の能力の詳細について、ギンコが知る事は少ないが、あの裂け目が、幻想郷ではない全く別のどこかに通じている事だけは肌で感じ取れた。
紫は概念としての三途の河の存在の曖昧さにつけ込み、光脈との境界を緩めることで河としての存在を二重化させ、ここに蟲を集めていたのだ。光脈筋ではヌシが統制を取っており、蟲が過剰に集まることはないため、蟲を引き寄せるには唯一無二と言っていい手法である。そうして寄ってきた蟲をまとめてスキマ送りにすることで、蟲という存在を幻想郷から締め出した。
やがて海巳の全てを飲み込むと同時に、裂け目はぴたりと閉じ、三途の河には平穏が戻ってきた。
「これがお前さんの狙いだったのか」
「ええ。集まる蟲が水に縁のあるものに限られたり、せっかく集めた蟲が妖怪に引き寄せられて別の場所に行ってしまったりと色々計算外はありましたが、概ね目的は達しましたし、実験的に行った結果としては上々ではありませんこと?」
「雨も上がっちまったね。もう降らないのかい?」
「おそらくな。今ので蟲の大部分はどこかに飛ばされちまった。まったく、幻想郷に来てから、こういうことばかりだ」
だがな、とギンコは前置きする。
「こんな強引な方法は今回っきりにしとくんだな」
「あらどうしてですの? 結構画期的な方法だと思ったのですけれど」
「どうしてもあるか。光脈の流れを歪ませるような蟲払いなぞ認められるわけないだろう。どこかに必ずしわ寄せが来る。例えば、人の命が失われたりとかな」
「……」
ギンコと紫の会話の最中、無言で小町は思い出していた。いつか自分が此岸に送り届けた子供。長雨の末、それが後押しとなって死んでしまった子供。摂理を捻じ曲げればどこかに歪みが残る。ギンコの言葉に、重みが増す。
対して紫の態度はいつもと変わらなかった。ギンコの言葉を素直に受け止め、実行する。
「分かったら光脈を元に戻せ。しっぺ返しが来ないうちにな」
「はいはい。まあ目的は達しましたし、あとは専門家の意見を優先いたしますわ。しわ寄せがきたら、対応のほどをお願いいたします」
そう最後に言って紫はスキマの中に消えた。いつかのいつも通りを取り戻した三途の川に取り残されたのはギンコと小町の二人である。
「……静かになっちまったね」
「ん?」
「雨さ。上がっちまったねって」
「そうだな。河から光脈の気配も消えた。もう蟲が寄り集まることもないだろう」
「そうか……」
三途の川は静かに水を湛える。偽りの姿。曖昧なもの。けれど確かに息づき、生きていた雨。死して自由を手に入れた少年の体を通り抜けて行った、誰かの思惑。複雑に入り乱れ、絡み合う。だからわからない。これから先どうなるのか。そう。例えば。
スキマを使って移動した八雲紫がその内部で水浸しになり、体調を崩しかけたなんて未来も、今はまだ、誰も知らない。
はい、これにて六章完結です。後味はいかがでしょうか? 皆様がこの作品を見て何を感じるのかは作者としても大変興味を惹かれる次第であります。批評、ご質問、感想はいつでも受け付けておりますので気軽に書き込んでくださいね。
さて次は第七章です。構想の中にはあの人斬り庭師が出てきそうな出ないような……という感じです。あまり期間をあけたくはないですが、まあ気長に、見てやってくだせえ。おねげえします。
ではまた次回お会いしましょう。