それでは。
幻想奇譚東方蟲師、はじまります。
第七章 迷い繰る日 壱
花の香りがする。どこからともなく。花の香りがする。
不思議な香り。一つ、息を吸うほどに世界は狭まっていく。
もう頭の中は香りで満ち満ちている。暗闇の中、匂い立つ花を探す。
されど手は虚空を滑り、やがて地面の感覚さえ曖昧になっていった。
花は、花はどこ? 問いかけるも、その問いは己の声なのか。それさえわからぬほどに、意識は香りで満たされた。
そうして闇をたゆたう。自分がわからぬまま、ただ。手を滑らせては惑い、迷った。
何も無い。何も無いのに。
変な夢。それが最初に感じた事だった。
微睡みに、しばしの間身を任せ、ぼんやりと天井の梁を見つめる。どんな夢だったのだろうか。それを思い出そうとしても、記憶は曖昧なままで霧散し、後に残ったのはもやもやとした、苛立ちにも似た心境だけであった。
「はぁ……」
少々
障子戸を通り抜ける陽光が格子状の影をつくる寝室で、彼女は目を覚ました。毎朝決まった時間に目覚める事は、この体が知っている。少々乱れた寝巻きの襟元や腰の結び目を正し、これまた決まった動作で布団をたたむ。そうする頃には体は完全に起きていて、おもむろに開け放った障子戸の向こうに、自らが手がける白玉楼の庭を見た。
「……おはようございます」
今日もまた変わらぬ一日が始まる。一つ背筋を伸ばすと、それが実感できたような気がした。
着替えを済ませ、庭で剣を振るう。毎朝の日課である。
彼女が操るのは大小の二刀。長刀の
楼観剣。とある妖怪が鍛えたとされる刀。詳しい出自やその性質は持ち主である彼女をして不明な点が多いが、一説では一振り幽霊十匹分の殺傷力がある、らしい。確かに刃紋は均一で、
小柄な彼女にして楼観剣は少々大柄な刀である。しかし刀に振られることなく、彼女はその曖昧が鋼となったような名刀を苦もなく操っていく。筋力による強引さはほとんど感じられず、巧みな技が光る、そんな演武。
実戦の機会が少ない型でも、祖父から教わったことは漏らさずに反復していく。草書体の如き流線を描く型。鋭角に上から下へ、下から上へと刃を切り返す型。時に体ごと踏み込み、時に切り払いで距離を取る。仮想敵を思い描き、密度高く鍛錬を重ねる。日課とはいえ、手を抜くことは無い。彼女の生真面目さが伺える、そんな朝の一幕。
白刃が風を切り、今朝の鍛錬が終了する。長刀の刃紋に朝日が滑り、納刀の音がぱちり、と締め括った。しかし、彼女の朝はまだ始まったばかりである。
「おはよう、妖夢」
「幽々子様。おはようございます」
かけられた声に振り向き、体の正面を向けて頭をさげる。彼女の主人が家の縁側に立っていた。
「今朝は早起きですね。いつもなら
「あら、人を食いしん坊みたいに言わないでくれる?」
「違うんですか?」
「うーん……」
縁側に腰を下ろしながら、幽々子は考える。もしかしたら、考えるふりをしているだけかもしれない。その証拠に、随分と大袈裟な態度で腕など組み始めた。眉間にしわを寄せ、むむむ、と唸る様はいかにも考えているといった風情でわざとらしい。
そうして考えに考え抜いた答えは。
「……ちょっぴりそうかもね」
「左様でございますか」
答えに意味などない。このやり取りにこそ意味がある。なんにせよ、娯楽の少ないここでは、趣向が食に傾倒するのは必然であり、幽々子を責めることはできない。従者の適当な返事に、幽々子はむぅ、と頬を膨らませる。
「仕方ないじゃない。食べること以外に、することがないんだから」
「では幽々子様も剣をお振りになってはいかがです? 木刀なら都合できますし」
「いやよ。腕が疲れるじゃない」
「そういうものですから……」
心地よい疲労というものはある。ただ、それを感じられるようになるまでは結構な時間を要するわけで。
「疲れることはしたくないわ」
「左様でございますか」
主人のわがままを流して縁側に上がる。これから朝食の用意をしなければならない彼女は、必要以上の汗をかくのも
台所に向かう途中、自室に寄る。布団と、祖父が残した掛け軸以外は、これといって物がない空虚な部屋。彼女の私室と呼べる部屋は他にはなく、これが白玉楼にある彼女の全てである。
後で手入れをしなければ、と思いながら、床の間に刀を二本、安置した。
「相変わらずのお部屋ね。もう少し物があってもいいんじゃない?」
「不要な物を揃えると雑念が生じ、剣筋が乱れます。武士は食わねど高楊枝。清貧を極めることで求道者たる姿を体現するのが剣の道です」
障子戸の間から顔だけ出すように部屋の中を覗き込んでいた主人に、人差し指を立て、諭すように語る。
「
「私です」
「ふーん……」
じっとりとした視線を向けられて、たじろぐ。
「な、なんですか」
「べつにー。妖忌も似たようなこと言ってたなぁって」
その言葉で、少し面食らった表情になる。そして、少し笑って、彼女は部屋を出た。
後ろ手で戸を引き、閉じる。その時にはもう、いつも通りの表情を作って、主人の前を歩いた。
「今日の朝ごはんは何かしら」
「茄子の味噌汁、かぼちゃの煮物です」
「……なんだか彩りにかける朝食ね。魚とかお肉は?」
「野菜があるだけでも有難いんですよ。下界は長雨のせいで実りが悪いらしいので」
「栗とか薩摩芋とか松茸は?」
「最後のは高級食材じゃないですか。薩摩芋も今年は実りが悪いそうです。秋神様も里にいらっしゃってないそうですよ。って昨日一日、下界に降りて帰ってきたあとご説明しましたよね?」
「えー? そうだったかしら?」
そう。昨日説明したはずだ。それというのも、彼女は主人の言いつけで秋の味覚を食卓に揃えるべく下界に降り、山を一日中歩き回って散策をしたのだから。帰ってすぐ、報告という形で成果を伝えたのだ。
よく覚えている。里での聞き込みで、秋神の姉妹が里に来ていないことを知ったことも、山で白狼天狗と追走劇を繰り広げたことも、秋の味覚と称して怪しいキノコを売りさばいていた魔法使いに出会ったことも。
「もう、幽々子様ってば。体を動かさないでだらだらしてるから健忘が激しくなるんですよ」
「うーん……そうなのかしら。だって昨日は久しぶりに妖夢と将棋を指して、私が三戦三勝だったわよね? ほら、ちゃんと覚えてるわ」
「それは一昨日のことです。もう、本当に大丈夫ですか?」
「あれー?」
従者は嘆息する。確かにいつもぼんやりしている主人だが、今日はぼんやりが過ぎる。何しろ日にちを一日間違えて記憶しているのだから。
「幽々子様に言われて、昨日は大変だったんですから」
「うーん、やっぱりそんなこと言ってないような……あら? ねえ妖夢、あなた」
「はい?」
もう少しで台所、というところで幽々子は足を止める。それに合わせて、前を歩いていた彼女も足を止めて振り返った。
「なんですか?」
じろじろと自分を見定める主人の視線に、若干戸惑いつつ返事をする。そうしてしばし、時が流れ、不意に手を叩いた幽々子は、思いもよらぬ言葉を発した。
「あなた、半霊はどうしたの?」
「半霊? それならいつも通りここに……」
彼女は半人半霊である。
「……あれ?」
いつも通りの定位置。自身の半霊がいる右斜め後ろ。白玉楼の庭師、
「………………あれ?」
何も、いなかった。
さて始まりました新章です。もう結末は決まっているのであとは文章に起こすだけですが、これがまた難しい。細かい描写や表現は作者の腕の見せ所なので、皆様が楽しめるような文章を書ければと思っています。
今回は魂魄妖夢が主人公です。ギンコはまだ出てきていませんが、東方と蟲師のクロスをお探しの方はこちらで間違いありませんと言っておきます。