幻想奇譚東方蟲師   作:柊 弥生

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<前回のあらすじ>
 妖怪の山で廻陋を捜索中、妖夢が突然消えてしまった。妖夢が消えたことで夢の世界も綻びをみせ、ギンコとドレミーは廻陋の世界から締め出されてしまった。





 幻想奇譚東方蟲師、始まります。







第七章 迷い繰る日 拾

 花の香りがする。どこからともなく。花の香りがする。

 不思議な香り。一つ、息を吸うほどに世界は狭まっていく。

 もう頭の中は香りで満ち満ちている。暗闇の中、匂い立つ花を探す。

 されど手は虚空を滑り、やがて地面の感覚さえ曖昧になっていった。

 花は、花はどこ? 問いかけるも、その問いは己の声なのか。それさえわからぬほどに、意識は香りで満たされた。

 そうして闇をたゆたう。自分がわからぬまま、ただ。手を滑らせては惑い、迷った。

 何も無い。何も無いのに。蠱惑的な、花の匂いだけを、覚えていた。

 

 

 

 

 

 それはいつもと変わらぬ、幻想的な夜だった。桜の花びらが、さながら粉雪のごとく降り注ぎ、地面を薄く覆い、薄紅色に化粧している。次いで空を見上げれば、天蓋を満たす青白い月光が、慈悲深くも柔らかく微笑みかけてくる。天も地も、横たわる時間の流れに身を任せ、儚げな一瞬を生きている。行灯の明かりも必要ない。自然と溢れる光が全てを包み、穏やかな光景だけが、ここにある全てだった。

 そんな夜を変わらず過ごす。屋敷の縁側から見つめている。短い足を垂らして座り込む私の両隣には、いつまでも変わらぬ姿が二つある。この屋敷の主人と、そのお方に仕える、私の祖父。いつでも私に甘く、自分にはもっと甘い幽玄な雰囲気の女性と、私や主人を穏やかに見守りつつ、時に厳しく諌める老年の男性。西行寺幽々子と魂魄妖忌。小さな私の大きな拠り所。その二人が住まう世界に、私は生きている。

 目の前に広がる完成された箱庭は、幼い私には大きすぎる世界そのもので、己の未熟さを浮き彫りにする光源のようなものだった。祖父が手入れし、主人が慈しむ。それをいつも側からみているだけ。私にできることは何もない。しかし悲嘆はなかった。むしろこの完成された世界に、一日でも早く自分の存在を刻み付けたいと思っていた。

 認められたかった。一人前になりたかった。背伸びでもなんでもいい。早く早く、とこの頃の私はそればかり考えていた。

 

「妖夢、少し話をしよう」

「はい、おじいさま」

 

 子供らしくない畏まった口調。丸みを帯びた声色に似合わぬ、角ばった言葉。意図的に選んでいた。主人の女性はこの口調が面白くないと少し拗ねる時もあるけれど、祖父は褒めてくれた。

 返事をして、祖父の方を見た。祖父は穏やかな表情で庭を見つめていた。ともすればぼんやりとして何も考えていなさそうな、月光に薄く照らされた横顔が多弁に私へ語りかけてくる。幼い私に、その全てを汲み取ることはできない。ただ、祖父の温顔はいつも私に安心感をくれた。

 

「妖夢は早く大人になりたいようじゃな」

「はい。一日でもはやく、白玉楼の庭師として、従者としてゆゆこさまにみとめられ、おじいさまの後継として身をたてたいです」

「では今の自分は未熟で、後継としてふさわしくないと思っていると」

「……はい。いまのわたしはとてもじゃありませんが、おじいさまの後継は名乗れません」

 

 祖父の問いに正直に答える。横顔から目を背け、自分の膝頭を見てしまったのは単に悔しかったからだ。己の未熟を直視できないくらいには、私は未熟だった。

 

「確かに、妖夢。今のお前は幼く、弱く、小さな存在じゃな。お前にはできずとも、儂ならできることもあるじゃろう」

 

 己を知ることが成長への第一歩。いつか祖父に教わったことを思い出す。祖父と自分を隔たる年月という厚い壁を越え、近づくためには一歩一歩、前に進むしかない。だけどいつか、と奮起することがこの時の私のせめてもの矜持だった。

 少し下を向いて祖父の言葉を待っている。風が少し強く吹いて、夜桜の枝がざわめく。じゃあ、と祖父は口を開いた。

 

「妖夢はどんな自分になれれば、儂の後継にふさわしいと、“一人前”だと、胸を張れる?」

「え?」

 

 そう聞き返した私が、もう一度祖父の顔を見上げてしまう。祖父は相変わらず、ぼんやりと掴み所のない表情で庭を見つめていた。

 

「一人前とはどんな人物を指すんじゃろうな」

「えっと……」

「家事をこなし、屋敷を手入れし、主人に仕え、剣を極める。それが一人前の条件なんじゃろうか」

「おじいさまは一人前だと思います」

「ありがとう。しかし、儂は自分が一人前になれたと、思ったことはない」

 

 いつになく弱い言葉を聞かせてくる祖父を見て、その真意を測れず、私はどうしてそんなことを言うのかと、怒りにも似た悲しみを浮かべた。私の目標がそんなことを言わないでほしい。あなたが一人前でなかったのなら、私はなんだと言うのか。言葉にならない想いの塊が表情を歪めていた。

 

「妖夢、よくお聞き」

 

 祖父の大きな手が私の頭に被さった。撫でるでもなく、添えるでもなく、包み、慈しむような手つき。ゆっくりと、私を宥めるように伸ばされた。

 

「一人前とは未来の自分を指して言う言葉。それは現状を未熟と自覚し、歩みを止めぬために自らの内に生み出す影法師に過ぎん。本来、人という器に、完成はないのじゃよ」

「? ……どういう意味ですか?」

「修行の道に終わりはなく、なれば人の道にも終わりはない。人は未熟を恥じ、それを過去とするために、未来に理想を見据え、今を歩む。誰も時間を超えることはできん。理想に固執するあまり、今を急いては本末転倒だということよ」

 

 幼い私には少し難しい言葉。直前まで昂ぶっていた感情のせいもあり、理解が追いつかなかった。疑問符を浮かべる私に、なおも言い聞かせるように祖父の言葉は続く。

 

「妖夢や。大事なことは今を後悔しないように生きることじゃ。今を蔑ろにすれば、いずれ後悔という重石を一つ抱えることになる。それは当然、お前の歩みを遅めることにつながるじゃろう。過去の重石に後ろ髪を引かれ、未来の理想を見失う。そうなればお前は人生に迷うことになる」

「人生に迷う……?」

「左様。そしてそうなってしまわぬように、己を律する手段として、魂魄の家系は剣術を修めるのじゃ。過去に重石を作らぬように。後悔が己の迷いを生まぬように。人生に迷わぬように。儂らは代々、剣を伝えておるのじゃ」

 

 そう言いながら祖父は私を見た。皺の刻まれた灰色の肌。月明かりに染まったような白髪。細められたまぶたの奥には、じっとこちらを伺う眼が光る。慈愛を含んだいつもの眼ではない。剣を構えた時の眼。祖父が、私に何かを伝えようとする時の眼だった。

 少し身震いする。何がそうさせるのか、正確なところはわからない。しかし、あえて言うならば少しの不安と、誇らしさが混在する微妙な境界線にまたがる動揺が、震えとなって私の体を支配しているようだった。

 いつか祖父に教わったことを思い出す。幼い私はまだよくわかっていないようだけれど、今の私なら、祖父の言葉を少しは理解できるような気がした。

 

「ふふっ。妖忌の言うことは難しいわね、妖夢」

「い、いえっ! そんなことは……」

 

 風に乗って滑り込んできた声に、幼い私は理解が及んでいないと見透かされたような気がして、慌てて取り繕った。そんな私を優しく引き寄せ、頬が触れ合うような温かい距離で、彼女はゆっくりと囁いた。

 

「大丈夫。妖忌は妖夢が自分の後継にふさわしくないなんて思ってないわ。むしろ貴女以外に自分の後継はいないと思っているし、いずれ立派に成長すると信じてるのよ。もちろん、私もね」

「え? ほ、本当ですか? ゆゆこさま」

「ええ。だ・か・ら。今は細かいことを気にしないで、のびのび元気に育ってほしいって言ってるの。妖夢はかわいいから、おじいちゃんも、もっと甘えてほしいのよ」

「……幽々子様、それは些か大雑把にすぎるかと。あと私は別に甘えてほしいわけでは」

「あらそう。じゃあ妖夢。おじいちゃんはもう孫を膝の上に乗せたり、おんぶしてあげたり、手を繋いで一緖にお散歩したりするのは面倒らしいから、甘えちゃダメよ」

「え……」

「な、何もそこまで極端にならずとも……! 違うぞ、妖夢! おじいちゃんはそんなこと思っておらんからな!」

 

 それは幻想的な夜だった。月と桜と風の踊る、この世のものではない原風景。清風明月、桜花爛漫の幻想屏風。それが私の世界。いつか見慣れた、美しい世界。だけど私のまぶたに、今も鮮明に焼き付いているのは、少し焦った困り顔のおじいちゃんと、楽しそうに、優しげに笑う幽々子様の姿だった。

 

 

 

 

 

 ここはどこだろう。まず頭にあるのはそれだけだった。

 黒い天蓋に覆われた、見渡す限り黒に染まった平原。すぐそこで途切れているような地平は、しかしどこまでも続いているようで、距離感というものが失われるとこうなるのか、なんてことを思った。

 ゆっくりと首を動かす。動作の一つ一つが妙に重たい。粘土質の泥がまとわりついているような感覚があって、体を動かすのがとても億劫だ。

 私は魂魄妖夢。名前だけは憶えている。しかしなぜ、私はここにいるのだろう。ここはどこなのだろう。幼子が積み上げる積み木のように、ことり、と軽い調子で、しかし確実に疑問は湧いて積もっていく。自分も誰も、答えることはできない。必死に頭を働かせようとしても、胸の奥からもやもやとした不安が膨れてきて、すぐに息苦しくなり、全てを覆い隠してしまう。

 ついさっきまで、すごく幸せな夢を見ていたような気がする。陽の光をシャボン玉に閉じ込めたような、儚くて、温かな夢を。

 もう思い出せない。思い出したくともそれができない。代わりに胸中を支配する強い欲求が、喉の奥から絞り出された。

 

「花……」

 

 そうだ。花を探さなければ。そう思い立った瞬間、どこからともなく花の香りが匂い立った。そして花の香りに誘われるように、するすると足が動き出す。さっきまでの息苦しさや、手足の重さは薄れ、自然と体が前に引っ張られた。それはまるで、香りという名の不可視の糸に、体が操られているような感覚だった。

 そうして闇の荒野を行く。自我も薄れ、何かに突き動かされるように花を探す。

 花はどこ? 時折手を突き出して、虚空を掴む。それで何かが変わるわけでもなく、しっとりと冷たい空気が指の間をすり抜けていった。

 

「……」

 

 どれだけそうして歩いたのだろう。何度目かもわからない、伸ばした手を下ろす。その時、手首のあたりに何かがぶつかるような違和感を覚えた。

 服の中に何かがある。手首に感じた違和感の正体は、衣嚢の中にあった小さな包みだった。指先で探り当てたそれを手のひらに置いてみる。これはなんだろうか。乳白色の、つるりとした質感の紙に包まれたもの。開いて中を見てみれば、そこにはいくつかの丸薬のようなものが入っていた。

 

「……」

 

 なぜだろうか。自分はこの丸薬のようなものに覚えがある。困った時に使えと、誰かに授けられた気がする。誰に授けられたのか、困った時とはどんな時か、それはわからない。だけどきっと、それはとても重要なことだった気がする。

 一つ、小さな粒を摘んでみる。皺が浮き、乾物のような硬さをもったそれ。クルミをギュッと凝縮して、小さくしたような見た目。そんな木の実のように見えなくもない。

 花の香りがする。この粒を見ていると、妙に胸騒ぎがしてならない。花の香りに従っていれば感じずに済んだ胸のもやもやが再浮上してくる。この粒は良くないものなのだろうか。いや、きっとそうなのだろう。これは良くないものだ。そう思い、目を細め、顔を歪ませながら、摘んだそれをいつもの目線の高さまで持ち上げた。

 

「……?」

 

 持ち上げた手を目線で追いかけて、手のひらを見つめるように俯いていた私は自然と前を向き、そして目の前に現れたものを自分の手越しに見つめた。

 眼前にかざした小さな粒の背景には先ほどまでと変わらない黒い平原が広がっている。距離感の掴めない地平もそのまま、何も変わっていない。しかし、それらの景色から浮き上がるように、妙な雰囲気の人が立っていた。

 私とその人の間には三間ほどの距離があいていた。駆け寄ろうとは思わなかった。ただ立ち尽くし、じっとその人のことを見ていた。

 その人は輪郭がぼやけ、特徴が掴みづらかった。唯一わかりそうなことは、その人の髪が白銀に染め抜かれているということくらいだった。

 あなたは誰ですか? そう問いかけても、その人は何も答えなかった。代わりに私がそうしているように、小さな粒をつまむように、手の形を作った。

 人差し指と親指で輪を作るような形。次にその人は輪を作っている指先を、そっと自分の口元に寄せた。もしや、この粒を食べろと言っているのだろうか。そう解釈できそうな動きだった。

 私は自分が摘んでいる小さな粒をもう一度見た。そして突如現れた謎の人を見た。いつの間にか胸中のもやもやが消えている。良くないものだと思っていた粒を、今ならすんなりと受け入れられそうだった。

 その人は私を促すように、自らの手を差し出し、手のひらを上に向け、ゆっくりと上下に揺らしてみせた。私は、その人に従うのが良い気がして、包みから取り出した小さな粒を、ゆっくりと口の中に入れた。ぼんやりとした輪郭の、髪が白いその人は、表情も伺えないのに、なぜかとても満足そうに見えた。

 ころころと粒を口の中で転がす。硬い感触が飴玉のようだ。飴玉にしては小さいし、味もしないが、気分が悪くなったりはしなかった。

 私が口の中に意識を向けていると、その人は次に、いつの間に持っていたのか、どこに隠していたのか、とにかくどこからか刀を取り出して、それを水平に掲げた。黒塗りの鞘に収まった平凡な見た目の小太刀。自分のものなのだろうかと、静かに観察していると、その人は急にその刀をこちらに放ってきた。

 放物線を描いてこちらに迫ってくる刀。途中で鞘から抜けたりすることもなく、重さを感じさせない羽毛のような挙動でゆっくりと近づいてくる。私は慌てることなく包みを服の中に戻し、両手でその刀がやってくるのを待ち構えた。

 胸元あたりで上に向けた両手のひらに、刀が舞い降りる。衝撃はなく、手のひらに吸い付くように収まったそれを、私は以前から知っているような気がした。白楼剣。刀の銘が脳裏を過る。そうか、これは。

 これは、私のものだ。

 

 ……もう手放すでないぞ。

 

 その人が初めて口をきいた。私に言葉をかけてきた。白楼剣を授けてくれた、緑の着物の、白髪の人が。誰ですか。あなたは誰ですか。どうしても、思い出せない。

 靄のかかった頭の中。花の香りがする。いや、もうそんな曖昧なものではない。知っている。これは私が知っている、香り。

 花の香りがした。その人から花の香りがした。私が知っている、私の世界の香り。芳しく記憶と春を彩る、桜の香り。桜の香りを纏った、その人を、私は知っている。

 言葉を返そうと口に力が入った。それがまずかった。

 

「!!」

 

 途端に口内に苦汁が広がる。舌の根から喉の奥にかけてべっとりと墨汁でも流し込まれたような、風味もへったくれもない、純然たる苦味。思わず舌を引き抜いて、丸ごと洗ってしまいたくなるような衝動に駆られる。口を押さえて背を丸め、えずきそうになる一歩手前で、醜態を良しとしない女としての理性が働いた。しかし口の中に木の実をとどめておくことはどうにもできず、苦汁に変わった自分の唾液と一緒に、盛大に吐き出してしまった。

 

「ううぇ……ぺっ、ぺっ! ひどい味……! 気つけにしたって限度がありますよ! もう……」

 

 ここにはいない男に向かって文句を言った。それでも少しも気分は晴れず、しばらく地面にうずくまり、悶絶する。魔理沙が気分を悪くしたと、家に帰ってしまった理由がよくわかった妖夢だった。

 

 

 

 

 

 やがて自身の唾液で口の中が洗浄され、味蕾一つ一つを締め上げるように絡みついていた苦味が薄れてきた頃、ようやく妖夢は自分の置かれている状況を理解するために頭を動かすことが許された。

 袖で口元を拭いながらゆっくりと立ち上がる。視線を周囲に投げれば、そこにあるのは見渡す限りの黒い平原。ここがどこなのかはわからないが、今まで自分がいた場所とは大きく異なる空間であるということくらいはわかる。

 直前まで自分がしていたことは思い出せる。自分は蟲師のギンコと、夢の世界の管理人であるドレミー・スイートと一緒に廻陋の世界から脱出するため行動していたはずだ。

 

「私は妖怪の山で廻陋を探していたはず……それがなんでこんなところに?」

「ここは廻陋の内部ですよ。半身の私」

「え?」

 

 背後からした声に反応し、振り返る。そこには。

 

「やっときましたね。遅いですよ、半身の私」

「……私?」

 

 もう一人の、私が立っていた。



















 はい。予告通り週間更新できました(若干遅いのはご愛嬌)。柊 弥生です。
 第七章も残すところあと一話です。こちらも近いうちに更新できると思いますので、もう少々お待ちください。エピローグまで一気に書ききりますので、次の一話は長くなるかもです。読み応えはあるかもしれませんがお手軽感は損なわれそうです。





 それではまた次回、お会いしましょう。

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