幻想奇譚東方蟲師   作:柊 弥生

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 お待たせしました。今回から新章突入です。どうぞお楽しみください。





 幻想奇譚東方蟲師、始まります。







第八章 ふきだまる沼
第八章 ふきだまる沼 壱


 冬。言わずと知れた極寒の季節。枯れて葉が落ちた骨組みだけの樹木はその身を寒風に晒し、大地も茶色い地肌を雪化粧で覆い隠す仲の冬。動物たちの鳴き声も、虫たちの賑わいも今はもう聞こえない。みんな眠ってしまったのだ。芽吹きの季節を夢に見ながら。

 太陽が厚い雲に隠れ、昼間だというのに若干の薄暗さが覆う地上。誰も彼もが鳴りを潜めて、静寂と冷気だけが闊歩する眠りの時節はどこまでも澄み渡り、清澄な雰囲気に満ちている。風がないことが唯一の救いだろうか。乱立する冬枯れの山肌との対比が物悲しさを助長するような曇天がのしかかる、そんな日に男が一人、旅をしていた。

 ざくり、ぎしりと雪を踏み固めながら一定の歩幅で迷いなく進んでいく。あたりには常緑樹の林が広がり、器用に雪を支える姿が少し愛らしい。わら靴のほとんどが雪中に埋まるほどの雪深いそこには道らしいものもなく、進行方向には足跡一つ見当たらないようだ。そもそもこの土地を旅する物好きなど、この男以外にいるはずもなく、緩やかな傾斜にただ身をまかせるように、男は歩んでいた。

 

「……そろそろ林道くらいには出て良さそうなんだが」

 

 足を止め、首巻きをずらして大きく息を吐き、ひとりごちる。吐息はふわりと広がり、雪と同じ白に染まった。

 ここは幻想郷。忘れ去られし幻想たちが還り着く最果ての地。人外妖魔が往来する、いつかの時代を写した世界。そんな世界を一人歩く識者の名はギンコ。蟲師という生業を背負う、奇妙な男だった。

 日が昇り、歩き始めてからどれくらい経っただろうか。時間感覚も曖昧になるような空模様は、相変わらずの鈍色で、今にもギンコの足跡を埋める雪を降らそうとしているようだった。

 素肌を衣で包み、寒さから身を守るよう努めても限界がある。ギンコはちらりと自分がやってきた方向を肩越しに振り返り、延々と続いている足跡を確認した。自分以外の生き物が見られぬ寂しい痕跡。こうしてじっとしていると、雪が音を食う無音と相まって、冬の厳しさが一層強く我が身に吹き付けるようなような気がした。

 どさり、と突然音がしてその方向に首を動かす。木に背負われていた雪の一部が落下したようだ。木の下に不自然に盛り上がった雪を見ていると、そこから一つの雪の小玉が生き物のように飛び出し、足を止めているギンコを尻目に、軽快な速さで斜面を転がっていった。

 

「……行くか」

 

 無音を嫌うように漏らしたつぶやきも、くぐもった響きでよく聞き取れない。足を踏み出せばぎしり、と雪が軋む音がする。少しだけ風も出てきたようだ。背を押し、下りを急かす風をなだめるように、ギンコは首巻きに深く顔を埋めた。

 先に転がった雪玉の線を追うように歩みを進めていると、幾分か余計なことを考えずに進むことができた。ざくりざくりと軽快に林を進み、気がつけばギンコは一本の林道に合流するところまで来ていた。

 視界が少し開ける。木立に縁取られた一本の道が目の前に現れた。これでかなり歩きやすくなるだろうかと期待を寄せて、ギンコは林を抜け出した。

 ゆっくりと左右を見渡す。右から左、あるいは左から右か。一本道が横方向に伸びている。起伏はほとんどない、平坦な一本道。雪の深さも落ち着きを見せ、歩きやすくなっているのがわかる。ここまでは足腰に重さがまとわりついていたが、これならかなり楽になりそうだとギンコはひとつ伸びをした。

 さて、右か左か。どちらに向かって進もうかとしばし考えていると、ギンコは足元に、奇妙な痕跡を見つけた。

 

「ん?」

 

 近くに寄って見てみると、それは足跡のようだった。それも人の足跡。道に沿って歩みを進めた痕跡。ギンコも見覚えのある、わら靴で踏み固められた跡が転々と道の中に残されていた。普通に考えれば、誰かがここを通ったのだろうと予想する。しかしその予想を裏切るように、その足跡は、猛烈な違和感を放っていた。

 

「……なんだこりゃ」

 

 ギンコも思わず零した。その奇妙な足跡は、あるべきものがなかったのだ。片割れがなかった。つまり片足だけの足跡が、転々と続いていたからだ。

 こんな雪深い林道を片足だけの誰かが通ったのだろうか。魑魅魍魎の跋扈する、幻想郷の雪道を。そんな人間がいるだろうか。疑問が頭をよぎる。

 しかし考え込んでも始まらない。それにギンコの考えすぎなだけで、そんな人間もいるかもしれない。この世界のことを、ギンコは全て知っているわけではないからだ。

 

「とりあえず、行ってみるかね」

 

 足跡の形状からして、進行方向らしきものを定めたギンコは、その奇妙な足跡に並んで歩き始めた。ギンコの足跡二つと、奇妙な片足だけの足跡が道に残されていく。

 季節は冬。活気とは縁遠い、静止と眠りの世界の中で、しかし数奇な縁だけはどこまでも、ギンコのそばを付きまとう。そんな暗示が、雪道に刻まれているようだった。

 

 

 

 

 

 奇妙な足跡を追いかけてしばらく。雲の向こうに隠れた太陽も傾き始めているのだろうか。そんなことを思わせるように気温が少しずつ下がり始めているのを、ギンコは肌で感じていた。そんな折に、今まで続いていた林道が開けた場所に出る。木立の縁取りは消え、雪原が広がっている。不自然に木々がない空間だったが、ギンコはすぐに、ここは凍って雪が積もった池沼だと気がついた。

 ギンコはその縁で足を止める。片足の足跡はそのまま池沼の凍結面らしい雪原の上を横切るように続いているが、このまま足を踏み入れていいものかと考えているのだ。人がすでに渡っているのならば何の問題もない。ギンコも足跡に続いて渡ってしまえばいい。しかし始めて訪れる土地、そして凍結面が直接見えないことも考慮すれば、ここは当然渡るべきではない。氷が割れ、池に落ちれば命に関わる。そんな危険を冒すべきではない。もともと足跡も、目印程度にしか考えずにここまで来たのだ。律儀にたどってやる義理もないだろう。ギンコが考える時間は短かった。

 そうしてギンコは今まで追ってきた足跡から目を逸らし、池沼の縁に沿って歩こうとした。しかし、ギンコはまたも奇妙なものを見つけてしまう。

 

「……あ?」

 

 間抜けな声が漏れる。ギンコが見たもの。それは雪原の真ん中でゆらゆらと揺れている一本の傘だった。よく見ればその傘の周りには不自然に雪が盛り上がり、傘はその小さな小さな雪山に柄の部分が突き刺さって揺れているようだった。奇妙奇天烈この上ない。

 さらにギンコの目を引いたのは、その山から突き出ているもう一つのものだった。

 

「おいおい、何だそりゃ」

 

 ギンコが驚くのも無理はない。雪山から突き出しているものは、よく見れば人間の片足のようだった。傘を持ち、池の真ん中まで歩いって行った誰かが雪に埋まっている。状況的には十分そう読み取れる。もしや自分がたどってきた足跡の主か、とギンコは若干躊躇いつつも、とにかく助けがいるだろうと下が凍った池であると思われる雪原に足を踏み出した。

 

 

 

 

 

「いやー助かった。ありがとう人間さん!」

「……そいつはどうも」

 

 少し肝の冷える思いをしたギンコが膝に手をついて息を吐いている。その傍で、浅葱色の洋装に身を包んだ少女が服についた雪を払いながら、元気にお礼を言っていた。

 意を決して踏み出した雪原の真ん中で、ギンコは傘一本と、一人の少女を雪山から引っ張り出した。その時、ごきり、と重く分厚い何かが擦れるような音が足元から聞こえてきたので、呼びかけても返事をせず、ぐったりしていた少女を小脇に抱えて、ギンコは少し焦りながら大急ぎで結氷したそこを離れ、池の反対側へと避難した。

 ギンコは助けた少女の姿を見た。浅葱色があしらわれた洋装。この世界に来て幾度か見た、肌を大胆に露出する腰巻からは健康的な素足が伸びている。そしてその細い足は、小さな体にはやや不釣り合いと思えるわら靴の中に収まっていた。そしてその髪の色も同じく浅葱色を呈し、輪郭を包むように切り揃えられていた。薄着。全体的にとにかく薄着で、雪の中に埋れていたのならかなり寒いだろうとギンコは思った。

 膝から手を離し、体を起こしながらギンコは聞いた。

 

「お前さん、寒くないのか?」

「うん? まあそんなに? 別に寒くないかな?」

 

 ギンコの当然の疑問に、なぜそんな事を聞くのかとでも言わんばかりのきょとんとした顔で少女は答えた。それだけでギンコは察する。ああ、この娘もそういうものかと。

 ギンコが得心する内に、少女はすぐに笑顔になり、傍に置いてあった傘を手に取った。紫色の番傘。広げられたその表面には大きな目玉模様が描かれ、人間の舌のような飾りが垂れ下がっている。少女の体には大柄な、奇抜な意匠の傘だった。

 

「あはは! 人間さん優しいんだ。……うん? あれ、人間さん……だよね?」

「ああ。一応な」

 

 ギンコの顔を覗き込んで、少女は難しい顔をする。ギンコの見た目。それもまた少女の容姿に引けを取らない異色であったためだ。雪の白で洗ったような白髪に、今は遠い森林の深緑を宿すような隻眼。不思議そうな目でそれらを観察していた少女だったが、すぐに飽きたようで、体を離した。

 

「ふーん。こんなところに珍しいね」

「そういうお前さんこそ、雪に埋まって何してたんだ?」

「っ! そうそれ! 聞いてよ人間さん!」

 

 問われた少女は鬱憤を晴らすように話し始めた。

 少女は傘の付喪神。気晴らし程度に雪道を散歩していると、不思議な片足だけの足跡を見つけた。

 こんなところに一本だたら? 不思議に思った彼女は片足だけでけんけんぱ。足跡を上からなぞるように、やってきたのは池の上。もう疲れて、飽きてきた。そんな時に転がってきた。体がすっぽり半分程度、収まりそうな、大きな雪の団子虫。ごろごろ豪快に雪原を転がってきて、私をめがけて、一直線にやってくる。びっくりしている間にぶつかり、目を回しては雪の中。そうして気づけば人間さんに助けられ、どうもありがとうとお礼を言っている次第。憎っくきあいつは大きな雪玉。ぜったいぜったい許さない! ……そういう内容の訴えが、あっちこっちに転がりながら、なんとかギンコに伝わってきた。

 

「そうか。ならお前さんも、片足だけの足跡について何か知っているわけではないんだな」

「うん。全然。人間さんも?」

「ああ。だがまあ、お前さんの体にぶつかってきた雪玉のことは、おそらく知っている」

「それくらい私も知ってるもん。雪でしょ? 冬に降る雨のこと」

「そういう意味じゃないんだが……まあいいか」

 

 諦めるように息をつくギンコに対して、じゃあどういう意味なのかと食い下がろうとする少女の目の前に、ちらりと冬に降る雨が降ってきた。やってきたその方向を目で追って、少女もギンコも空を見上げた。

 

「雪だね」

「そうだな」

 

 ちらり、ひらりと雪片が舞い降りてくる。降り出しそうだと思っていたが、とうとう降ったか。あまり強く降られると面倒だな、とギンコが思っていると、そう言えばいいものがあると、少女の方を見た。

 

「なあ、お前さん散歩に来たんだよな」

「うん」

「どうだ。もう少し俺と散歩しないか」

「え?」

「付喪神なんだろ? 雪も降ってきたし、傘があるなら欲しい。お前さんがいいと言うなら、この先……そうだな、今日の寝床になりそうな場所が見つかるまでついてきてほしいんだが、どうだ?」

 

 ギンコは軽い気持ちで少女に持ちかけた。彼女が人間ではないことはこれまでの会話で明らかだが、それ以上にこの少女、傘の付喪神には危険性がないと判断できた。害はなく、人懐っこい性格のようであるこの付喪神に同行してもらえるのなら、雪降る道中もいくらか賑やかで、過ごしやすくなるだろう。

 少女の返答を待つ間に、ギンコは池の縁から伸びる林道を見る。ギンコがやってきた方向とは池を挟んで反対側。そこには先ほどまで追ってきていた、片足だけの足跡が残されている。

 

「……いいの?」

「ん?」

 

 降る雪にかき消されそうな付喪神の少女の声に、ギンコが反応する。少女は少し俯いて、傘の柄を強く握りしめているようだった。

 

「いいの? 私、紫色で、大きくて、ださい傘だけど……」

「目玉と舌は奇抜だが、ただの飾りだろう? 雪をしのげれば文句はないさ。それに、色自体は、綺麗な茄子色だと思うがね」

「……そ、そう」

 

 ギンコの申し出に付喪神の少女は従うようで、自分の傘をギンコに差し出した。

 

「お兄さん背が高いから、傘はお兄さんが持ってよ」

「お、ならついてきてくれんのかい?」

「しょうがないからね。いいよ……えへへ」

 

 ギンコが傘を受け取ると、傘の下に入るように少女が身を寄せてくる。大きめの茄子色の傘は、ギンコと少女の二人をしっかりとその下に抱え込んでくれた。

 ギンコは知らない。付喪神がどうして生まれるのか。理由もなく、ただなんとなく、人間たちから忘れられた彼女が、道具として自分を求められたのがいつぶりなのか、ギンコは知らない。

 傘を差して前を見れば、ちらりちらりと降り始めていた雪も、その数を増やしているのがわかった。風の吹かない日の雪は、しんしんと静かに降り積もり、雪深い林道に聞こえる声も包み隠していく。

 

「どこにいくの?」

「とりあえず足跡をたどる。人がいりゃ、一晩軒を借りられるかもしれんしな」

 

 そうしてギンコは再び歩き出す。傍の少女もそれに続く。

 二つの足跡が並んで残されていく。幻想郷を旅する男に、また奇妙な縁が寄り添った。

 

「そういえばお前さんの名前を聞いてなかったな。傘の付喪神さんよ。名前はあるのかい?」

「私小傘。多々良小傘よ。お兄さんは?」

「ギンコという。蟲師をしているんだが、聞いたことあるか?」

「むしし? ううん、全然」

「そうかい」

「それよりその髪と眼。どうしてそんな色してるの?」

「ん? これはな……」

 

 雪が作る無音の世界に、少しだけだが音が聞こえる。たった二つの生き物の声。賑やかな幾つかの問答に、黙して雪を支えるばかりの常緑樹だけが耳を傾けていた。

















 はい、始まりました新章ですね。予告通り神霊廟の面々が登場します。全員登場させることはできませんが、おなじみの三人は全員出てくることでしょう。蟲師らしさを意識して頑張りますが、どうなることやら……いつも通り、温かい目で見守っていただければ幸いです。
 舞台は冬の幻想郷。草木も動物も寝静まる一年の“夜”の時期。ギンコはどんな出会いをして、また数奇な事件に巻き込まれていくのか。どうぞお楽しみください。





 それではまた次回、お会いしましょう。

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