病に冒された仙人を直接診たギンコは、自身が考える治療法が成功するだろうという確信を得る。残された問題を抱え、山を歩いていると、付喪神の小傘が引き連れてきた化け狸のマミゾウと遭遇した。
幻想奇譚東方蟲師、始まります。
気温が下がる冬の夜は空気も乾燥し、より遠くの光が届くようになる。だからなのか、今日の月はいつも以上に大きく輝いているような気がした。
満月に向けて膨らみ始めた上弦の月が
「今宵の
月を見上げて
隣を見れば従者の布都が立っている。未だ来ない待ち人に対して苛立ちにも似た感情を持て余しているのだろうか。少し険しい表情を作っているのは、肌を刺すような寒さのせいではないと思えた。
「まったく。日の入りには来いと言い含めたというのに、何をしておるのだギンコは」
「まだ夕日の名残もある時間だぞ。気が早すぎだ」
「知らん。太子様がお待ちなのだから時間を前倒すくらいの気遣いを見せずしてなんとする」
「それこそ向こうは知りもしない状況だろうに。お前はいちいち騒がしいんだ」
布都と屠自古の会話はいつも耳に心地よく響いてくる。
よく知る者たちの声が聞こえてくるのはなんとも心が落ち着く。世界を覆うような声の層にあってなお、私に安らぎを届けてくれる。
私のとって声とは、多くの情報を持つ決して無視できない存在だ。人の往来する街道で物売りの賑やかしや客引きを、騒がしいとか、やかましいとか、そう思いながら聞き流せるのはとても幸せなことだと思う。聞くことが仕事でもあった私はそのあたり、強く思わずにはいられない。
耳がよすぎるとろくなことがない。誰彼構わず欲望を拾い集め、聞こえてくる言葉の裏が透けてくる。誰もが持つ人間の底知れぬ部分が、私ならよく理解できてしまうのだ。
一人の男に愛を捧げる女がいるとしよう。女は何故男を愛するのか。男の容姿が好みだから? その知性に惹かれたがゆえ? 貴族だから? 時に命を救われ、優しくしてもらったから? あるいは、それら数々の要因が複雑に絡み合って、当人も気づかないうちに恋をしていたから?
本来、愛情の理由など求める方がおかしい。それは恐れ多く浅ましい行為であり、さらに答えのない愚問でもある。だが私にはその答えがわかってしまう。絡み合った因果を紐解いて、欲の理由を暴いてしまう。
多くの欲を聞いた。欲のために、金を求める者を聞いた。欲のために、権力を振りかざす者を聞いた。欲のために、人を愛した者を聞いた。欲のために、人を殺した者を聞いた。
欲深く、浅ましい人間の正体。私はそれを知っていた。
二人の従者にしても、それは同じこと。欲があり、それを作る要因があり、感情がある。ちゃんと人間らしい、底知れぬものを持っている。そして私はそれらを全て理解できてしまう。彼女たちの欲が見え透いてしまう。
だがこの二人に対してそれらは気にならない。普段なら私の心を占めて覆ってしまう雑音のごとき情報を、気にせずにいられる理由があった。
「まあ二人ともそう騒がずに。月でも眺めて落ち着きなさい」
やいのやいのと喧しい従者二人をなだめる。毎度よく飽きないなと思える小競り合いをみて苦笑した。
時が過ぎるのを静かに待つ。月が昇り、日が沈み、夜が来る。茜の名残がすっかり消え去る頃に、蟲たちの声が一層強くなった。
音の密度が上がり、思わず頭を抱えた。少しフラついた私の体を、布都が支えてくれる。ありがとう、と言ったつもりだったが、ちゃんと言えたのだろうか。よくわからなかった。
自身が管理する仙界においては、蟲たちの侵入をある程度抑制できる。だが現世ではそうもいかない。遠慮なく私の中に入り込んでくる情報の波に、圧倒されそうになる。蟲師の前では格好つけてみたが、私はこの声にそこまで慣れているわけでもなかった。
だが倒れるわけにはいかない。この声を失えば我々は蟲に対する情報源を失ってしまう。そうなれば一体どうやって骸草のような恐ろしい性質のモノに対抗すればいいのか。
私は、どうしてもこの声を失うわけにはいかなかった。情報を得て、実践し、確立しなければならない。いつか我が身に降りかかるやもしれない災いを見越して、準備しなければならない。
そうでなければ、示せないものがあると思った。
「来ましたね……」
木々の隙間に伸びる山道の奥から、ゆらりと影が近づいてくる。
じわり、と水面に墨をのばす様に、男の気配は強まっていく。周りに伴う大きな音が、男を中心に解けるように拡散していった。
得体の知れぬ妙な男。蟲師と名乗る、私には無い知識を有する者。調和を良しとし、人と蟲との間を取り持つ識者。
「ん、待たせたか」
「遅いぞギンコ。太子様を寒空の下に待たせるとは何様だ」
「そりゃ悪かったな」
月光で染め上げたような銀を伴う白髪に、深く、
「おい、太子様の前だ。煙草はやめろ」
「そう言われてもな。俺にとっては必要なもんでもあるんだが……」
ふわりとやってきて頭上を漂う屠自古に、男は喫煙を
どういうわけか男の持つ煙草の煙に巻かれていると、蟲たちの声が弱まる。口には出さないが、その煙草は私にとっても都合が良いものだった。
「それで、考え事は終わりましたか?」
少し軽くなった頭で、私は男に聞いた。男はひとつ煙を吐き出してから、すっきりした表情で答えた。
「まあな……ついでに答えも出してきた」
「ほう……それは興味深い」
して、答えとは? と私が先を促す。その内容は、簡単に予想がついた。
「骸草への新たな対処法を教える。日をまたぐ意味もないから、これから患者のところに行きたい。構わんか」
煙の奥から、自信に満ちた声が聞こえてきた。
神子に案内され、ギンコは患者のもとにやってきた。見慣れた質素な山小屋に、これまた老年の男性が一人住んでいる。病の治療に来たというギンコたちを玄関から出迎えた。杖をついてやっとではあるようだが、まだ歩けるあたり、昼間訪れた別の仙人よりも症状は軽いようだった。
神子はギンコの素性をかいつまんで仙人に話す。皺が刻まれ、たるんだ瞼の奥から鋭く値踏みをするような視線が何度かギンコに向けられたが、ギンコはその視線をいなし、背負っていた薬箱を地面に置いて黙々と治療の準備を進めた。
手元を興味深く布都が覗き込んでくる。ギンコが何をするのか気になっているのだろう。そう言えば蟲に関する話も、三人の中で一番興味と恐れを持っていたのはこいつだったなとギンコは思った。
「では蟲師殿。あとはお任せする」
「ああ」
神子に声をかけられた時、ちょうどギンコの準備も終わった。ギンコは栓をした徳利と糊状の生薬が入ったすり鉢を両手に持ち、囲炉裏を背に、居間と土間の段差に座り込む仙人へと近づいた。
足元に跪き、何度も見た骸草の生えた足を軽く見分する。闇の中、火元の明かりにぼんやりと照らし出されて浮かび上がるそれらは、ことさら不気味に見えた。
しかしいずれの仙人も症状に差はないように見えた。ならば問題はないと、ギンコはすり鉢を地面に置き、懐から小さな緑の杯を取り出した。
「ほぅ……」
その場にいた誰が漏らしたのか、感嘆のため息が聞こえてくる。ギンコが取り出した深く、濃い森の緑を抽出し、練り上げたような曇りのない杯はたしかに美しく、見るものを惹きつける妖しい魅力を放っている。
だが、今それは重要なことではない。真に重要なのはその杯に注がれる徳利の中身だ。杯を指に挟み、ギンコは器用に徳利の栓を抜いた。
次の瞬間、今度は真に、その場にいたギンコ以外の全員が息を飲んだ。
とぷとぷと、徳利が空気を飲み込む音が小さく聞こえてくる。杯に注がれるのはこの世のものとは思えない光る酒。淡い月の光にも似た、神秘の光を湛えるモノ。
光酒と呼ばれる、この世の闇の底の底を流れる、生命の源、あるいは生命そのものが、ギンコの持つ緑の杯に満たされた。
「これは……なんじゃ?」
「酒ですよ。あんたにとっては、薬になるもんです。飲んでください」
ギンコが差し出したそれに、仙人の目が釘付けになる。しわがれた両手で杯を受け取り、しばし光る酒に見惚れ、吸い寄せられるようにそれを口に運んだ。
「はぁぁ……なんという」
仙人の口から
だが感想をいちいち聞いている暇はない。ギンコは仙人の足を見た。するとわずかだが、骸草が風に揺れるようにその身をくねらせていた。仙人の体に光酒が流し込まれたことによって、骸草も自身の誤解を認めたのだろう。今なら薬が効くかもしれない。ギンコはすり鉢を手に取り、筆を使って骸草に薬を塗り込んだ。
「おぉ……!」
どうやらうまくいったようだ。喜びの声を上げる仙人を見て、ギンコも胸をなでおろす。あとは体に生えた骸草全体に薬を塗り込み、体から離れるのを待つのみ。治療の後には、自分の足で立ち上がり、治療を施したギンコへと、しきりに頭を下げる仙人の姿があった。
そんな様子を静かに眺めているのは神子。もうここに用はないと、ギンコと仙人から視線を切り、静かに家を出る。それに気がついたギンコもまた、静かにその背中を見つめていた。
ギンコが仙人の家から出ると、少し離れたところで神子が空を見上げていた。釣られてギンコが視線の先を追えば、そこには月が浮かんでいる。星々の光を覆い隠し、圧倒的な存在感を放つ夜の目。吸い寄せられるように、ギンコが神子に近づいていく。ざくざくと雪を踏みしめ、寒空の下で対峙する。
「驚きました。すっかり綺麗に治りましたね。副作用もなし。見事です」
「まあな。ちょっと反則みたいだが、利用法を誤らなければ問題ない」
「あの光る酒ですか。興味深いですね。ぜひお話を聞かせてほしいものです」
神子と少し距離をとって、ギンコは立ち止まる。それと同時に、神子も月から視線をギンコへと移した。
「あの光る酒はなんですか?」
「あれは
「バカな! そんなものがこの世にあって良いのか!?」
「……布都の言う通りです。そんなモノを、貴殿はどうやって手に入れたのですか」
「光脈筋のヌシに口利きできる知り合いがいてな。今回のように必要になることもあるから、ちょいと分けてもらっている。無論、人が欲望のままに取り扱っていい代物じゃないがね」
光酒の存在に対して、予想通りの反応をする面々を見て、ギンコも改めて気を引き締めた。
「……そうですか。では光酒が仙人の体を活性化させたことで骸草も自身の誤解を認め、最後には薬によって離れていったと。つまりはそう言うことですね」
「ご明察」
「そして貴殿がこの治療法を胸に秘めていた理由は、光酒が我々に悪用されるのではないかと危惧したから、ですか」
「そうだ」
「ではどうします? 貴殿の心配は現実のものとなりそうですが」
途端に神子の気配が膨張する。妖怪の持つ妖力や、蟲たちの気配とも違う、強い光を浴びせられているような感覚に、ギンコも一歩後ずさった。
「光酒を悪用するのか」
「悪かどうかは貴殿が決めるといい。ですがそれはこれからの蟲患いへの対処として大変有用な資源となることは確か。入手法も含め、現物と情報をいただきますよ」
「……嫌だと言ったら?」
「所持品の全てを
「まるで山賊だな」
「なんとでも。最初に申し上げたはず。仙人とは利己的な存在だと」
「そうかい。なら光酒はやれんな」
「仕方ありませんね……」
残念です、と神子が紫の袖なしの外套を翻し、気配を一層強く膨らませた時。空気を断ち切り、割って入るように、月下のもとから声が響いた。
「こんなに月が綺麗な夜だというのに。私の同盟者に無粋をはたらく輩はどこのどなたかしら?」
声の主はついさっきギンコたちがいた仙人の屋根の上に立ち、優雅な言葉遣いで眼下を見下ろしていた。
その姿と声を認識した瞬間に、神子の近くに控えていた布都と屠自古が身構える。二人にも感じられたのだろう。悠然と屋根の上に佇むその妖怪が放つ大きな妖気を。そして遮る物のないそこに、月光は惜しみなく降り注ぎ、その妖怪の姿を浮き彫りにする。
金色の髪をなびかせ、異国の修行僧のような、裾の広がった装束に身を包み、存在を印象付ける大きな日傘を差している。幻想郷に住まうものならば、誰しもがその存在を一度は耳にしたことがあるだろう。神子や布都、屠自古にとっても、それは変わらない。
「御機嫌よう、神霊廟の仙人様方。自己紹介は必要かしら」
「……驚きましたね。貴女がなぜここに?」
「虫の知らせ、とでも言いましょうか。私の大切な配下の身に危険が迫っているようでしたので、来ちゃいましたわ」
最大級の警戒心を向けられながら、八雲紫は不敵に笑った。
はい。お疲れ様でした。七話です。少々間が空いてしまい、申し訳ありません。クリスマス前で仕事が忙しく、時間が取れませんでした。そのかわりクリスマスを一人で過ごし、書き上げましたのでお納めします(悲哀)。
あ、遅ればせながらメリークリスマス。
さて、第八章ですが、残すところおそらく四話程度になるかと思います。展開や時間の都合上一話が長くなったり短くなったりする今回の章ですが、最後までお付き合いください。
それではまた次回、お会いしましょう。