幻想奇譚東方蟲師   作:柊 弥生

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幻想奇譚東方蟲師、はじまります








第八章 ふきだまる沼 玖

 仙人たちを骸草から解放したギンコは神霊廟で再度歓待を受けていた。

 骸草(むくろそう)の治療をめぐり、思想の違いによるいざこざも多少ありはしたが、世話になった礼だと言われれば断る理由もなく、それでなくとも野宿をするには厳しい冬の季節である。これから取り掛かる仕事のことも思えば、むしろこちらから頼み込んで逗留の許可をもらうところ。事情を共有している神霊廟(しんれいびょう)の面々はその辺りの思惑を汲み取ってくれたようで、自然に廟への帰路を共にしてくれた。

 ギンコは神霊廟の主人、豊聡耳神子(とよさとみみのみこ)の好意に甘え、常時黄昏を空に写す仙界に再び足を踏み入れていた。

 骸草の問題を解決しても、ギンコが着手するべき問題はもう一つ残っている。それは大量の腐酒(ふき)が湧き出している沼を浄化することだ。

 周囲の自然を枯らすほど毒素を振りまいているそれを浄化する手段など、ギンコをして思いつきはしない。唯一思い当たるとすれば、大量の腐酒に対抗して、大量の光酒(こうき)を流し込んでみるということだが、生憎その方法を試せるほど、手持ちの光酒が潤沢であるはずもなく、また別の方法を探る他ないだろうとギンコは頭を悩ませていた。

 

「おい。何をしている。さっさとついてこい」

「遅いぞ、ギンコよ」

「……ん」

 

 少し立ち止まり、思考を空へ飛ばしていると、前方から声がかかった。神子の従者である、物部布都(もののべ ふと)蘇我屠自古(そがの とじこ)が振り返り、二人の後ろで立ち止まっていたギンコに呼びかけたのだ。

 神霊廟にたどり着いた後、ギンコは自分の歓待の準備を手伝わされることになった。客自らもてなしの準備をするというのはとても斬新な気がしたが、世話になる立場を自覚しているギンコにとっては特に反論するようなことでもなかった。

 神子は何か言いたそうにはしていたが、「太子様はお疲れでしょうから部屋にお戻りになってゆるりとお待ちください。さぁさぁ」と背中を押されては、そうですか? と疑問符を残して先に廟の中へ向かっていった。

 今向かっているのは廟の裏手にある蔵だった。ギンコのしばらくの逗留を見越した神子に言付かり、昨日里に行った布都が買い込んでおいた食料と、神子が作った酒がそこに置いてあるらしい。今宵の歓待の席に必要だろうと、取りに来たのだ。

 廟の本殿の横をすり抜け、視界が開けると件の蔵はすぐに見つかった。本殿とは違い、装飾の廃された簡素な小屋というような印象。布都が(かんぬき)を外し、両開きの扉を開け放った。

 

「さて、まずは料理だな」

「ここでするのか?」

「ぬ? 当然であろう? ここには台所がないからな」

 

 ギンコが聞けば、きょとんとした顔で布都が言った。もとより食事らしい食事を必要としない仙人の住処に台所などもあるはずはなく、昨日ギンコが食べたものも蔵の近くで調理したものだという話だった。

 

「屠自古。蔵の奥にある酒は頼むぞ」

「わかった」

「ギンコは我を手伝え。そこの鍋と蒸篭(せいろ)、七輪を外に出しておいてくれ。炭はその脇にある箱の中だ。我は水を汲んでくる」

「ああ」

 

 布都に指示されて、ギンコは蔵の入り口近くにまとめて置いてあった鉄鍋等の調理器具を運び出す。水を汲みにいくと言っていた布都は蔵の近くにあった井戸に向かっていった。

 

「なあ蟲師よ」

「ん?」

 

 酒を取りに行くよう頼まれた屠自古が、その前にギンコに話しかけた。

 

「その、なんだ……世話になったな」

「なんだ急に」

「うるさい。世話になったんだから世話になったと、礼を言っているだけだろうが」

 

 金属製の箱の中からいくつか木炭を取り出し、七輪の中に積み上げながら、ギンコは屠自古の方を見た。唐突な言葉をかけた屠自古はしかし、そっぽを向いて、そそくさと蔵の中に入っていってしまった。

 

「……なんだ、いったい」

 

 ぼそりと呟き、ギンコの手の動きが再開される。いくらか炭の小山が出来上がったところで、桶に水を汲んだ布都が戻ってきた。

 

「む、用意がいいな。助かるぞ」

「火種はどうする。近くに見当たらないようだが」

「案ずるな。火種なら、ほれ」

 

 そう言って布都が指先を炭に向け、素早く空中で模様を描くように印を切ると、木炭の内側に火が点いて、細い煙を出し始めた。

 

「おおー」

「ふふん。土の上に木が積もっているのならその内に火が生ずるのは自明よ。あとは気を整えてやればそれそのように」

「便利なもんだな」

「そうでもないぞ。もとより流れる自然の気を、少々うまく使っているすぎんのだからな。場を整え、気を整え、自然が望むように振る舞ってくださるようにと祈る。驕れば気は意に反し、翻って害をなす。ここで火を起こせば、あたりは逆に冷え込むようになるのだ。まことに自然はよくできていると感心させられる」

 

 ぱちぱちと弾けるような音がして、次第に火が大きくなっていくそこに手をかざし、暖をとるように布都がしゃがみこんだ。

 炙られた木炭に徐々に火が移り、色の変化が見て取れる。そうしているうちに、火の元から離れた周囲が少し冷え込み始め、布都の言っていたことが実感できたギンコも、彼女に倣って火に手をかざした。

 

「……思い返して見ると、今回のことは死を越えてなお、我が身は常ならぬものと、教えを受けたような気がしてならぬ」

「……骸草のことか」

「うむ。あのようなモノが、現世には数限りなく蠢いているのだろう? そんなこと、今まで知りもしなんだ。物部の秘術を学び、この世の秘奥(ひおう)の一端を担う者として自負もあったのだが……」

 

 そう言った布都は眉を寄せ、目を伏せるようにして少し笑っていた。無自覚に大きくなっていた驕りを自嘲しているのだろうか。そんなことを思った。

 

「知っていようがいまいが、不自由に思うことはない。現に、今までそう不自由なく過ごしてきたんだろう?」

「今までは、そうだな。だがこれからは違うのだろう。太子様を見ていると、そう思わずにはいられない……世話になったな、ギンコよ」

「……お前さんまでそう言うか」

「ぬ? どう言う意味だ?」

「さっきもう一人にも同じこと言われてな。俺は二人に何かした覚えはないのに」

「そうか、屠自古も。まあそう言うな。我らは、お前や太子様が直面している蟲という存在を識ることはできぬが、それでもわかることもある」

 

 赤熱した木炭を火ばしで掴み、七輪の中に移動させながら屠自古は微笑んだ。

 

「世話になった、とはそういう意味だ。太子様をよく助けてくれたとな。今回のことは、お前がいなければ、どうなっていたのかわからん。我も屠自古も、悔しいがなんの力にもなれなかった」

「そういうものか」

「そういうものだ」

「……まあ、そうだろうな」

 

 二人の言葉の意味を、真に理解できないというギンコではなかった。しかしそれでも、礼を言われることはしていないとわざわざ口にしたのは、二人の口から真意を聞き出したかったからかもしれない。神子の思いを知ってしまった以上、二人はその想いに応えることができているのかどうか、気になってしまったのだ。

 我ながら浅ましいことだと内心反省する。その時、七輪の中で熱を放つ炭がぱちりと弾けた。これ以上野暮なことは言うなと、ギンコを(たしな)めるかのような、少し大きな音だった。

 

 

 

 ギンコの歓待の宴は慎ましくも、つつがなく進行した。いくつかの質素な料理と、神子の作った酒が並んでいたが、それらはほとんどがギンコのために用意されたものである。

 自分だけが料理に舌鼓(したつづみ)を打つという状況は、当初こそ賓客(ひんかく)としての扱いに慣れぬギンコにとって、少し面映いような、そわそわとした気まずさがあったが、それもすぐに気にならなくなった。

 それというのも、余興にと見せてもらった和琴、笛、神楽鈴の三重奏が見事であったためであった。琴を神子が、笛を屠自古が、鈴と舞を布都がそれぞれ担当していた。ギンコはつい演目などを聞いてみたが、何やら聞き覚えのない言葉を聞かされ、そこは半端な相槌を打ってごまかした。

 聞けばこれらの芸事は尸解仙になってから、つまり最近になってから覚えたらしいもので、本人たちは趣味の域を出ないにわか仕込みだと謙遜(けんそん)していたが、食事も忘れて魅入るほどには、ギンコを引きつけた。

 生真面目に旋律をまもる笛を、快活な鈴の音が煽り、それらを大きく包み込むように和琴の調べが響いていくる。それらの音から三人の性格や関係性が具に伝わってくるようで面白いと思った。

 

 

 

 やがて宴も終わり、外界では夜と呼べる時間になると、ギンコはいつかのように神子の自室を訪れていた。神子から話があると呼び出されたためである。

 

「きたぜ、太子様よ」

 

 自身の来訪を告げると、折戸越しに入室を促す遠い声が聞こえた。がこり、と戸を引いて中に足を踏み入れれば、部屋の外周に立てられた燭台にぼんやりと照らされた、がらんとした空間の奥にある、少し高くなった畳の間に、やはり神子は鎮座していた。姿勢良く文机に対峙し、何か書き物をしているようだった。

 目線と静かな手の動きだけで促され、ギンコは神子の前に座り込む。それを確認した神子は「少々お待ちを」と短く言って、目の前の書に向き直った。しばし沈黙の時間が流れ、やがて神子が筆を置く。そして立ち上がり、いつかそうしたように飾り棚の中から酒瓶を取り出し、ギンコの前までやってきた。

 

「宴は楽しめましたか?」

 

 座りながら、神子はそんなことから会話を始めた。手にした盃に酒を注ぎ、ギンコにそのまま差し出す。なみなみと注がれたそれを、ギンコは少し腰を浮かして受け取った。ギンコの手の中で波紋が落ち着くまでにはもう一杯の酒が用意され、二人はそっと盃を合わせるように掲げた。

 

「ああ、そりゃあもう。飯も旨いし、余興もよかった」

「それは何より。芸事にも性格が出ますからね。布都の鈴の音は喧しかったでしょう?」

 

 思い出し笑いも含まれていそうな苦笑を浮かべつつ、神子は盃を空けた。対するギンコはぺろりと唇を湿らせる程度に留める。宴でもう十分飲み尽くしたためだ。

 もう飲み慣れた甘い酒からは、しっとりと梅の香りが立ち上っている。

 

「いいや、元気があってよかったんじゃないか」

「……そうですね。でも最近は元気がなかったんですよ? 蟲に関するあれこれで慌ただしかったですから」

「そうなのか」

「あの子は唐突な環境の変化が苦手ですので。見た目以上に蟲に怯えていたと思います」

 

 唐突な環境の変化といえば確かにそうなのだろう。たとえ、それらが今までもこれからも、変わらず隣人として存在する世界を生きていくことになろうとも、知っているのと知らないとでは大違いだ。

 人は認識した後に恐怖する。知らぬものは怖がりようがない。

 今日の宴の準備中に、七輪の炭火を眺めながら漏らしていた布都の言葉を思い出す。『死を越えてなお、我が身は常ならぬもの』。死を超越した者の気持ちなど、ギンコには計り知れないが、今思えば、あの時の彼女の苦笑には、人らしいモノが詰まっていたような気がした。

 

「しかし今日は心置きなく酒を飲むことができる。貴殿のおかげです」

「そうかい」

 

 機嫌が良さそうな神子に相槌を打ちながら、ギンコは懐から煙草を取り出した。少し離れた場所にある燭台を指して、「使っても?」と目線で伺い立てる。神子も手だけで「どうぞ」と促し、ギンコは火を手に入れた。

 一筋の煙が浮かび、部屋に溜まる。伸びた煙はのたうつように連なって、ギンコと神子の周りを包んでいく。

 

「その煙草。外で見た時も気になってはいましたが、どういう代物(しろもの)なのでしょう」

「これか。これは蟲煙草と言って、まあ蟲除けだ。気になるということは、やはり症状が抑えられるようだな」

 

 ギンコが吹かす煙草の煙には、蟲を散らす効果がある。蟲を寄せる体質のギンコにとって、なくてはならない品物だが、今宵はその恩恵を受けるもう一人がいた。

 

「少しは楽になるかい」

「ええ。やはり専門家はすごいですね。このような物まで用意しているとは」

「これで話がしやすくなるといいがね」

 

 今、神子の耳には阿、という蟲が寄生している。それが神子に、正しく、この世のものとは思えないほどの大音響を届けているのだ。

 蟲の世界の呟き。余人には聞き取ることのできない囁き。阿に寄生されると、それらが具に聞き取れるようになってしまう。

 蟲の声一つ一つは取るに足らない、衣擦れのような小さな声だとしても、数限りない重なりは暴力的なまでに膨れ上がって世界を満たしている。まるで山中から染み出した数滴の岩清水が、山を下るにつれて合流し、巨大なうねりと共に流れ落ちる瀑布となるように、それは轟いているはずなのだ。

 本来なら人一人を衰弱死させるほどの音響だが、それを受け止め、あまつさえ声を聞き分けるなどという所業をやってのけているのが、ギンコの目の前にいる仙人だ。その事実を知った時、ギンコは脱帽する他なかった。

 だが平気なフリをしていても、やはり手に余るものではあるようで。神子が消耗していることはギンコにもわかっていた。煙草の煙は蟲を遠ざけ、然るに神子の体を苛む轟音も遠ざける。彼女の負担を少しでも軽くしようと燻らせたものだった。

 

「お気遣いありがとうございます。暫くぶりですよ。こんなに静かな夜は」

「それで、話ってのはなんだい」

 

 ギンコはほとんど中身が減っていない、床に置かれた自分の盃を見た。ゆらり、と燭台の灯りが浮かんでいて、酒自身が光っているようだった。

 神子も微笑みを浮かべて自分の盃を見つめている。するりと滑らかな手つきで酒を回し、腑の奥に落とし込む。頬が少し紅く見えるのは、燭台の灯りのせいだろう。ギンコには彼女が酔っているとは思えなかった。

 

「話というのはこれからのことです。我らは望む物を手に入れ、仙人の体を蝕む奇病も解決。もはや貴殿に用はなく、ここに置いておく義理もありません」

「出て行けってことかい」

「そうは申しませんが、引き止めは致しません。ここは仙界。只人が長居する場所ではないのです。貴殿と我らでは、時の流れが違う。これ以上付き合っても、良いことはないだろうと」

 

 神子の声色からはギンコを気遣う心が見て取れた。キッパリとした言葉から感じるほど、拒絶の意思はない。厄介払いなどと、考えてもいないような優しい声だった。

 

「そうは言ってもな。こっちはまだ、やることが残ってる」

「わかっています。あの沼のことでしょう。ですがあれは、貴殿が手を尽くすようなことではないのです」

「……どういう意味だい」

 

 含みを持たせた神子の真意を、ギンコは問いただした。

 

「ギンコさんは、私たち仙人が錬丹(れんたん)を日常としていることを知ったはずです」

「ああ。寿命を伸ばすための霊薬を練る日課だったか。それが?」

「錬丹術、特に外丹術において、具体的に何をするのかは説明しますと、それは正しく薬を作る行為で、おそらくギンコさんに馴染み深いことも多いかと存じます」

「そうなのか」

「はい。しかし決定的に違うのは数百種の薬草、薬品はもちろん、通常は顔料に用いるような物まで使用して薬を作るという点で、数百年を生きる仙人が服する金丹は、ただの人が一度口にすればたちまち死に至るような猛毒となっていることもしばしばです」

「そんなもの飲んでんのか、あのじいさんたちは」

 

 ギンコは改めて、仙人の目的意識の強さ、誤解を恐れずに言えば、生き汚なさに驚嘆した。猛毒に体を馴らして、寿命を得るなどはたからみれば狂気の沙汰である。骸草を払ったギンコだったが、それが正しい行いだったのかどうか、わからなくなりそうだった。

 

「もちろん、徐々に馴らしているのです。だからこそ、錬丹術は生涯をかける修行であり、仙人の道そのものでもあります」

「ゾッとするね。聞かなきゃよかったかな」

「その通りです。これ以上は貴殿が関わるべきことではないのです」

「わからんね。あの沼と、今の話が関係あるのかい」

「確証はありませんが、無関係ではないでしょう。……時にギンコさん。古くなって変質し、思い通りの効能を得られなくなった薬はどうするかご存知ですか?」

「……おいまさか」

 

 ギンコの目が鋭く細められ、神子を捉えた。神子はそんなギンコの目の前で、わざと盃の中身をこぼしてみせた。

 神子の足を覆う服の裾に、酒が染み込んでいく。濡れた布は蝋燭の薄明かりのなかで淀みのように鈍色を呈している。じわりと広がった水溜りは繊維を侵して、さながら痣のように広がり、ギンコは外縁の草木や土壌を侵食し、腐らせていく件の沼を想起した。

 

「求道者は無駄を嫌います。不要と判断したものは身のそばに置かぬもの。当然、使えなくなった薬品は投棄します。一人、また一人と捨てに行きました。そうしてやがてあの辺りに住む仙人が全て、示し合わせたかのように『不要なものは此処に』と定めた場所があります。沈めば二度と浮き上がることのない、底無しを冠する“そこ”は誰にとっても都合が良かったのでしょう」

「……馬鹿なことを」

「明らかな変質はごく最近のものですが、あそこはそうなる前から、吹き溜まりだったのですよ。生き物が軽々に寄り付かない場所となっていたことは、確かです」

 

 濡れた服を意に返さず、酒を注ぎなおす神子を前に、ギンコは静かに拳を握り固めた。宴の余韻など吹っ飛んで、今はもうただ反吐が出そうな気分であった。長く旅をして、人間の愚かしさ、浅ましさにはそれなりに直面してきたこともあったギンコだが、決して慣れることなどない。悪意に触れた心のささくれは、普段寡黙なギンコの表情をわかりやすく濁らせた。

 

「……沼の起源はご理解いただけたようですね」

「……ああ」

「どう思われますか。やはり彼らの行いが原因だと?」

「無関係だとは思わん。だが腐酒は、本来自然の流れの一部でもある。死した獣の肉が腐ろうとも、いつかは土に還るように、あれらもその途上にある。沼を満たすほどの広がりには関係しているだろうが……まあ、ほとんど自然の成り行きだろうよ」

 

 そう語ったギンコの言葉に力はない。ギンコも、あの光景が自然のものであってほしいと願っているのだ。

 もしそうでないとすれば。あれが人の手による光景なのだとすれば。それはどれほど(おぞ)ましい因果なのかと身震いする。そんな想像は、なるべくしたくなかった。

 

「では、貴殿が関わる義理はないということですね」

「……」

 

 ギンコの迷いとも取れる曖昧な物言いは、神子の追及を許した。きっぱりとした口調が後に続く言葉を断ち切る。

 自然がそうあれと選択したのなら、ギンコにそれをどうこうする理由はない。どれほど(いた)ましい光景だろうと、時に自然の意思は、人の思惑を越えていくものだ。人が去り、風化した石造りの跡地にも草木は茂り、花は芽吹く。ここは成り行きに任せることが、最良であるようにも思えた。

 そしてもし、あれが人の落とした影だというなら、尚のことギンコが骨を折る義理はなかった。今回の奇病騒ぎは全て、身から出た錆、自業自得という言葉がピッタリと当てはまる。仙人の業は深い。それこそ、底無しの沼のように。

 しかしそれでも。ギンコは光を失わなかった。失うはずがなかった。なぜなら本当の光というものは、闇の奥の奥、地の底の底、彼方の淵から悠久の流れを湛えるものであり、ギンコはそれを知っていたからだ。

 

「……事情はわかった。だが、やることは変わらん」

「……」

 

 ギンコの言葉を予想していたように、神子が静かに耳を傾ける。今は彼女に蟲の声は届かない。彼女の耳は、全てギンコに向けられている。数多、那由多の声を聞き分ける耳が向けられている。当然、心の声ひとつ、聞き漏らすことはない。ギンコは重たく、口を開いた。

 

「俺には、これしかやることがないもんでね。沼は調べる。……何かわかったら教えよう」

「……」

 

 もともと義理や人情で蟲師をしているわけではない。人のためではない。蟲のためでもない。ましてや、自然の調和を保つなんて、大それたことを言うつもりもない。

 ギンコはいつも見届けるだけだ。知る限りを伝え、時に少しの見返りを受け取る。根無草は流れ流れて、清流に浮かぶ笹船のように頼りなく、しかしどこまでも行く。徹頭徹尾、自分のためと言い切れない傲慢さが、欲といえば欲らしく、流されるだけのはずの笹船の進路を決めているようだった。

 床に置いていた盃を手に取り、ギンコは中身を煽った。春を告げる花の香りのする酒。昼夜の区別なく、金色の暁に彩られた仙界とは無縁なれど、外界はまだまだ冬の季節の真っ只中。開花の季節まで、忍耐を強いられる雪の下が思い浮かぶ。

 それでもいつものように、変わらず春は来るだろう。ギンコに確信できることはそれだけだ。ここは、まだまだ道の途中なのだ。ギンコは空になった盃を再び床に置いた。

 

「……なるほど、よくわかりました」

「ああ。世話になったな」

「お礼など。貴方に出会えて本当によかった」

「俺はそうでもないかもな」

「おやおや、手厳しいですね」

 

 ギンコの皮肉っぽい悪態にも、神子は気分を悪くすることなく応じた。

 

「……これをやるよ」

「え。わっ」

 

 短く言ったギンコが神子に向かって何かを放り投げた。それは束になった蟲煙草だった。突然飛んできたそれをなんとか受け取り、神子は興味深そうにしげしげと眺めた。

 

「これからはあんたにも必要になるだろう。手持ちは少ないが、春になったらまた持ってくる」

「良いのですか? 貴重な物なのでは」

「原料があれば自作できないこともない。幸いその場所に心当たりがある。原料がとれる場所も、作り方も、春になったら教える」

「……何から何までありがとうございます」

 

 神子は束になったそれから一本を引き抜き、ギンコがそうしたように燭台の使って火をつけた。咥えた煙草を一息吸い込む。すると見事に、盛大に神子はむせてしまった。

 

「あんまり肺に入れていいもんじゃねえからな。気をつけろ」

「ごほっ……! ぐっ、んぅ……! さ、先に! 言ってくださいよ……」

「コツがあってな。口の中で煙をゆっくりためて、肺の中の空気ごと吐きだす。そうすりゃ火持ちもいい。馬鹿みたいに吹かさなきゃ、一日中(くすぶ)る代物だ」

 

 涙目になった神子の視線を躱しながら、ギンコは手本を見せるように煙を細く吐き出した。口を尖らせてその様子を見ていた神子も再度煙草を咥えて、見様見真似でやってみる。今度はうまく煙を吐き出すことができた。

 

「はぁ……不味いですね」

「薬だからな。良薬はなんとやらだ。毒を飲む根性があるなら、軽いもんだろ」

「言いますね……」

 

 煙が薄絹のように棚引いている。その光景を楽しむように、しばらく二人で、無言のままに咥えたものを燻らせた。

 

「明日からの調査ですが、私も同行します。手が必要なら使ってください」

「そりゃ助かるが。いいのか?」

「ええ。私も後学のために見ておきたいのです」

「熱心だな」

「他人事ではないのですから、熱心にもなります。……思えば、誰かに教えを授かるというのは久しい。よろしくお願いしますね、先生」

「先生はよせよ」

 

 ギンコは立てた膝に腕をのせ、そっぽを向くように大袈裟な態度で神子の冗談を受け流した。壁の上部、換気用の連子窓の奥には夜の闇が覗く。一瞬、その闇に紛れて影が蠢いたような気がしたが、すぐに気のせいだと思い直した。

 

「では師父と」

「尚更だ。嫌味にしか聞こえねえよ」

 

 自分よりも明らかに優れている人間に畏まられると、嫌味に感じる。ギンコの態度は当然だった。

 

「む。弟子としての振る舞いは私には似合わないと?」

「十分慣れないことだろ」

「そうでもありませんよ? 私にも師事していた人くらいいます」

「書き取りとか算術のか」

「そういうのは別に。一度聞けば憶えましたので。私、聖人ですから」

「あ、そ」

 

 いつの間にか酒を飲み進め、機嫌が良くなったのか神子はお喋りになっていた。

 

「私が師事していたのは、私に道教を伝え、仙術の手解きをしてくれた人です。人格に多少問題はありますが、腕は確かですので」

「仙人か」

「ええ」

「仙人は大体禄でもないだろ」

「まあ貴方から見ればそうかもしれませんが、私の師匠はそれでもなお、というか。貴方が光酒の存在を絶対に教えたくないと思う人、と言えば伝わるでしょうか」

「おい勘弁しろよ。お前、そいつに光酒のこと教える気か」

「いえまさか。ここまでお世話になったのです。貴方の望まないことはしませんとも。すでに師弟と気軽に呼べる間柄でもないですしね」

 

 ギンコは浮かせていた腰を落ち着けて、一つため息をついた。蟲患いへの対抗手段のためとはいえ、ギンコから光酒を強奪することも考えていた神子が自重をするほど、アクが強い師匠とはどれほどの人物なのか。少し気になったが、ギンコは努めて想像しようとはしなかった。

 煙草の味と、梅の香り。さっきまで甘く、爽やかであったそれらが少し変わっている。紛れ込んだ違和感は、しかし煙に巻かれ、すぐに、よくわからなくなった。


















 ひっそりと更新(4年ぶり)……また誰かの暇つぶしになれば幸いです。

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