幻想奇譚東方蟲師   作:柊 弥生

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※注意※
こちらは東方蟲師本編の外譚となっています。本編をお読みいただいたという前提でお勧めする章ですので、まだ本編をお読みでない方は閲覧しないことをお勧めします。「私は一向に構わんッ!」という男気溢れる海王のような精神性をお持ちの方のみ、そのままお楽しみください。


いざよい時雨(第四章後幕間)

 紅魔館(こうまかん)のメイド長、十六夜咲夜(いざよい さくや)は荷物を抱え直して息をついた。

 急に降り出した秋雨の勢いは強く、外にいれば数分の早足でもその影響を(まぬが)れない。農道の脇にある物置小屋の軒下に駆け込んだのは咄嗟(とっさ)の判断だったが、それでも服が濡れて肌に張り付く程度には降られてしまった。銀の髪に水滴がまとわりつき、少ない光を受けて輝いている。

 前髪から滴る水を気にしながら空を見上げる。薄く広がった雲の切れ端から青空がのぞいていた。雲の流れが速い。通り雨だろうとあたりをつけた。

 

「少し雨宿りしていきましょうか」

「そうだな」

 

 咲夜(さくや)の後に続いて軒下(のきした)に入ってきた妙な雰囲気の男、蟲師のギンコは咲夜の提案に頷いた。咲夜のそれよりも色素が薄い、白煙で染め抜いたような白髪(しらが)の隙間から深い緑色の視線が小屋に向けられる。

 雨宿り先としては心許(こころもと)ない軒下の空間を頼りにして小屋の壁伝いに農道からみて裏手側へと回り込むと、小屋の壁は取り払われており、屋根の下に積み上げられ(わら)を被せられた獣除け用の柵杭(さくくい)だとか、農作業の出番を待つ農具なんかが置いてあるのが見えた。とりあえず、軒下の壁際よりは懐が深そうだった。

 ギンコは肩がけにした荷物を下ろし、頭を振って水滴を雑に振り落とす。その拍子に後ろからついて来ていた咲夜の顔に水が飛んだ。咲夜は少し顔を背けるだけで、文句は言わない。口を動かす代わりに手を動かして、ギンコがそうしたように抱えていた荷物を下ろし、ポケットの中にいつも入れているハンカチを取り出した。まだなんとか濡れていないそれで自身の顔を拭う。

 

「ギンコさん。ちょっと」

「ん?」

 

 背中に声をかけると、ギンコが振り向く。咲夜はハンカチを広げて、手を伸ばし、それをギンコの頭の上に被せた。

 

「どうぞお使いください」

「ん、悪いな」

 

 薄手で手触りのいいそれを掴み、ギンコは顔を拭った。一瞬視界に暗幕がかかる。少し花の香りがして視界が晴れると、咲夜が横向きに手だけを差し出していた。意図を汲み取ったギンコがハンカチを咲夜の手に戻す。咲夜は無言で受け取った。

 今、二人は人里での買い物の帰り道だった。ギンコが紅魔館に逗留(とうりゅう)してしばらく。不足してきた日用品や食料の買い足しの必要が出てきたための行動だ。普段、館で過ごす人間は従者の彼女一人であるため、人間用の備蓄は少なかったのだ。

 先の病の騒動からすっかり回復した従者の十六夜咲夜は、こうして日常業務へと戻っている。今朝も早くから館の掃除やら主人の世話やらと忙しくしていたのを、ギンコは見ている。とは言え、病み上がりであることには違いない。

 咲夜の容体を経過観察していた立場のギンコからすれば、まだ安静にしていたほうがいいと意見するが、当の本人はこれ以上ベッドでじっとしていると今度は心のほうが病んでしまうと言うのだから、まあ仕方ない。

 そして『心配ならついて行ってあげなさいな』とは館の主人の一言で、ギンコは動くことになった。もとは自分が逗留しているために必要になったこと。動機は十分に用意されていたとも言える。

 ギンコが買い物についていくと言った時、咲夜はその申し出を断った。ただでさえ自分の命の恩人であるのに、主人の客人でもあるギンコにそんなことはさせられないと恐縮していた。だがその主人に『ギンコさんをつれていきなさい』と言い含められれば素直に従うほかないのも彼女だった。

 

「すみませんでした。ついてきていただいたばっかりに」

「お前さんが謝ることじゃないだろう」

「でも、ギンコさんは賓客(ひんきゃく)ですから。今は妹様のご教育もしていただいていますし……ご不便はありませんか?」

「不便ということはないな。まあ、油断ならないとは思ってるが……」

 

 ギンコが紅魔館に逗留する理由は二つある。一つは蟲患いから回復した十六夜咲夜の経過観察、そしてもう一つはその蟲患いを治療する過程で蟲を見る才能があると判明したフランドール・スカーレットへの教育だ。フランドールはレミリアの妹で、関係者曰く狂気を抱えているために半ば軟禁する形で館の地下に住まわせているそうだ。そんな彼女は無闇矢鱈(むやみやたら)に自身の能力を使って目に写る蟲のことごとくを鏖殺(おうさつ)するという困った遊びを覚えてしまっていたので、ギンコがその矯正をしているわけだった。

 

「まあ大丈夫だろう。おたくの門番もよくよく目を光らせてくれているし」

「そうですか。それは何よりです」

 

 一応フランドールと会う時は二人きりということにはならないよう、普段紅魔館の門番を勤めている紅美鈴(ほん めいりん)という妖怪が付き添うことになっている。その実力を垣間見たことはないが、門番というくらいなのだからある程度は武闘派なのだろう。いざという時は頼りになるはずだった。

 ここ数日対話を重ね、ギンコもフランドールの人となり(?)をわかってきたつもりだったが、正直いつ牙を剥くかもわからない狼か熊と触れ合っているような気分だった。そのことを思えば、自分と同じ人間である従者の彼女と話すことは断然気の休まることである。買い物について行ったのは、正しく息抜きの意味もあったのかもしれなかった。

 片流れの屋根に叩きつけられた雨粒が強い雨音を立てている。足元を見れば、ところどころ錆の浮いた雨樋(あまどい)の出口から、水がちょろちょろと流れ出し、小さな川ができていた。

 大きく口を開けた物置の薄闇を背負いながら、ギンコは積まれ、藁をかぶせてある何かに腰を下ろした。咲夜は特にどうするというわけでもなく、ただ静かに姿勢良く立っている。自然の喧騒(けんそう)に囲まれながら、妙な沈黙が二人の間に横たわっていた。

 

「……あの」

「うん?」

 

 ギンコに背を向けながら、咲夜はつぶやいた。

 

「いえ、その」

「なんだ」

「……なんでもありません」

「……なんなんだ」

 

 その姿勢の良さ、直立した堅実さには不釣り合いな歯切れの悪い言葉を、ギンコは(いぶか)しんだ。表情が見えない分、その違和感は強い。

 十六夜咲夜は躊躇(ためら)った。何を躊躇ったのかまではわからない。何か言いたいことがあるのだろう。だがギンコは無理に聞き出すこともないだろうとも思った。

 再び沈黙が訪れる。咲夜は手持ち無沙汰なのか、懐中時計を持ち出して(うつむ)きがちに時間を確認した。

 

「なあ気になっていたんだが」

「はい!」

 

 ギンコが声を投げると、咲夜は跳ねるように振り向いた。ギンコは特にその様子に触れることもなく、視線だけを咲夜に向ける。見つめるのは、咲夜の手元にある懐中時計だ。白く輝く銀の光沢が胸元に寄せられた細い指の隙間から覗いている。

 

「お前さんが仕事中にもよく見ているそれ、一体なんなんだ」

「え? あの、これはただの時計ですが」

「時計……時を刻む絡繰(からくり)だったか。俺が知っているのは、もっと大きなこれくらいの箱なんだが」

 

 ギンコの身振り手振りを見ながら、咲夜は言わんとしている物を想像する。お骨入れくらいの大きさの箱だろうか。知識としての時計を思い浮かべ、古いそれの質感を想像する。なんとなく、ギンコの私物である薬箱が妥当であるような気がした。

 

「よかったらご覧になります?」

 

 興味ありげなギンコを見て、咲夜は提案する。

 

「いいのか?」

「はい」

 

 ギンコが咲夜から懐中時計を受け取る。見た目からさぞ高価な物なのだろうと思っていたギンコは、すんなり手に収まったそれを繁々(しげしげ)と眺めてみた。

 磨き上げられた銀の光沢を放つ表面。厚みのある真円に整えられた外観。縁取りの細かな装飾。美しい工芸品だった。咲夜の行動を思い返せば、これは二枚貝のように開く作りになっているはずだとギンコは思ったが、どうにもその方法がわからない。爪やら薄い板でも隙間に滑り込ませて開くのかと縁に爪を立てていると、その行動が子供っぽくて少しおかしかったのか、咲夜は笑った。

 

「ここを押すんですよ」

 

 前屈みに、そっと指を伸ばしてきた咲夜が、懐中時計の縁にある装飾の一部に触れると蓋が開く。おお、とギンコが声をもらす。その様子もまたどこか子供っぽく、咲夜は笑顔で身を起こした。

 薄く、透明なガラスで覆われた奇妙な文字盤が顔を出す。線が連なったような記号が円形に並んで、中心から伸びた平たい針のようなものが長いもの、短いものとついている。一際細い針がもう一本あり、それは一定の速さで右回りに滑らかに動いている。ほとんど音も立てずに、自動的に動き続けているそれが精緻(せいち)な絡繰であることは一目でわかった。

 

「すげえな」

「そう驚かれるのはなんだか新鮮ですね」

「時計なんてものは、庶民の暮らしにゃ必要ないもんだ。大きな市があるような都に居を構え、それこそお前さんのような使用人を何人も抱えるような屋敷に一つあったりなかったりが、俺の知るところなんだがね」

「確かに。あまり時間を気にしているような人は、幻想郷でも珍しいかもしれません」

「お天道様が顔を出せば動き、隠れりゃ眠る。みんなだいたい、そうやって生きている」

「ギンコさんも?」

「ああ、一応な。お前さんとこの主人は、その逆のようだが」

「そこはほら、吸血鬼ですから」

「面妖だねぇ、なんとも」

「私からすれば、ギンコさんも相当特殊な事情をお持ちの方です。ちょうど我が身で思い知りましたし」

「まあ、それもそうか」

「あの……」

「ん?」

「……私も、気になっていたことがあるんです」

 

 咲夜はそう切り出した。あるいは、先ほど言いかけたことはこれだったのかもしれない。

 雨はまだ勢い衰えることなく降り続いている。通り雨かと思いつつも、しばらくはここを動けなさそうだ。咲夜は腰の高さくらいまで積まれた獣除け用の柵杭に、体重を預けた。

 高さは違えど、ギンコと咲夜は隣り合うように腰を落ち着けた。

 

「蟲、でしたか? 今回、私が(かか)った病の原因は」

「ああ」

「どういったものなんですか? ぬたぬたと動き回る、蔓草(つるくさ)のような見た目をしていましたが」

 

 自分が直面した不可思議な病の正体について咲夜が、聞いてくる。そういえば経過観察はしつつも、蟲についての詳細な説明は聞かせたことはなかったなと、ギンコは思った。

 

「あれは、蟲の一形態にすぎない。植物や魚も、さまざまな姿を持つだろう。それと同じだ」

「蟲、というのは総称だと」

「そうだ。古くは『みどりもの』とも呼ばれる。普段は目に見えない、微小で下等な生き物だ」

「微小で下等……菌類などに近いということですか?」

「よく知ってるな。しかし、それらよりももっと、命の源に近い性質を持っている。実体が曖昧なんだ。見えんものには見えんし、触れることもかなわない」

「幽霊のような?」

「あるいは、それらの正体は蟲だと言う者もいる。ヒトの姿をとる蟲もいるからだ」

「それはまた……なんとも」

 

 咲夜が口ごもる。そう怖がるものでもないと、ギンコは付け足した。別に怖がっているわけではありませんが、と咲夜も付け足した。

 

「命の源、というのは?」

「そうだな……あえて挙げるのなら、光酒(こうき)というものがある。普段は真なる闇の底を泳ぎ回り、巨大な光脈(こうみゃく)を形作っている生きモノだ。光る酒のような見た目をしていてな。これがある土地には命芽吹き、草青み、豊かな実りが約束される」

「その影響力の割には随分と、抽象的なお話ですね」

「そういうもんだ。蟲なんてのは。蟲師ってのも、知らぬ者にとっては詐欺師だなんだと言われるくらいだ」

「ふふ、詐欺師ですか」

 

 何笑ってんだよ、とギンコが声だけで咲夜を窘めると、すみません失笑でした、と咲夜が軽く受け流した。言うだけ言ってみたが、ギンコをしても特に悪い気がするわけでもない。自分の胡散臭さは、自分が一番よくわかっていた。

 

「しかし本当、聞けば聞くほど、よくわからなくなります。微小で下等な生き物かと思えば、この世の根底を形作るような振る舞いを見せたり。奇妙な姿で人に寄生したかと思えば、幽霊のように実体なく現れては消えたり」

「俺にしてみりゃ、こっちにきて出会った妖怪やら妖精やらの方が、(にわか)には信じ難い存在だけどな」

「その割には、随分と馴染んでいらっしゃるように思えますよ。妹様のこととか」

「言葉が通じる分、蟲よりは気楽なのかもな。そういうお前さんはどうなんだい」

「私、ですか?」

 

 咲夜は意外、と言った様子で自分を指差し、ギンコを見た。ギンコは手に持っていた懐中時計を自身の目の前にかざしてみせる。咲夜の視線も時計に誘導される。

 秒針は変わらず、滑らかに時を刻み続けている。鎖の擦れる小さな音がした。

 

「生き物には、それぞれ生きる時間がある。蟲には蟲の、人には人の、そしておそらく、妖怪には妖怪の生きる時間がある。そうだな?」

「ええ」

「お前の主人は夜の闇に生きる種族だという。人の血を糧として、永い永い夜を生きる。姿形こそ人に近いものがあるようだが、その在り方は遠く離れている」

「そうですね」

不躾(ぶしつけ)な質問かもしれんが……」

 

 ギンコは断り、ぱちりと懐中時計の蓋を閉めた。一呼吸置いてから続ける。

 

「お前さんは、その差をどう思ってるのかとな」

 

 思わぬ切り込み方をしてきたギンコに、咲夜は一瞬戸惑ったが、すぐに思考は巡りだした。人間と妖怪の差。それを自分はどう考えているのか。普段考えることはないそれだが、咲夜の中で、答えのようなものはもう出ている問いだった。

 咲夜は少しだけ間を置いてから、淀みなく答えた。

 

「差というものは、当然、そこにあるものとして受け止めていますね」

「あるがままのこと、か? 悲しいとか、報われないとか、そういう感傷はないのか?」

「ええ。そんなものは特に。なぜそんなことを?」

「いや、ただ……な」

 

 十六夜咲夜の主人、レミリア・スカーレットは吸血鬼である。本人曰く、由緒正しい妖怪であり、知名度からしてもその脅威と畏れは人々の間に広く流布されていると言えるだろう。

 吸血鬼とは伝承曰く、闇夜に紛れて人を襲い、その生き血を啜ることで永遠に近い時を生きる妖怪である。人智を超えた身体能力を有することはもちろん、霧となって存在を拡散させてはあらゆる場所に侵入したり、時に動物や人の姿に化けては人心を(たぶら)かす一面もある。不老不死の存在としても知られ、いつまでも若く、強靭(きょうじん)な生命力を象徴する妖怪とも言えるだろう。

 そしてギンコは知らぬことだが、吸血鬼の特性には、血を(すす)った者を己の眷属(けんぞく)として吸血鬼化できるというものがある。これは当然、吸血鬼であるレミリア・スカーレットに備わっている特性で、従者である咲夜も知っていることだ。

 そんな特性を有する主人のもとで、咲夜は未だ人間として存在を保っている。それがどういうことなのかは、咲夜とレミリアの間だけで図れることだった。しかし少なくとも、咲夜はその事実を悲しいことだとは思っていない。自分が人間であることに、負い目は感じていなかった。

 だからギンコが、感傷と口にした時、咲夜の頭にはさまざまなことがよぎった。そして何より、なぜギンコがそんなことを聞いてくるのかが不思議に思えた。

 咲夜の視線を受けながら、ギンコは静かに語りだす。

 

「俺は少なからず、蟲と人の関わりってやつをみてきた。深く関わったばかりに身を滅ぼしたやつらは多い。あれらは本来、ただただそうあるべきモノで、深入りしていいことは少ない」

「……そうですか」

「お前さんのところの妹御と話しているとつくづくそう思うが、やはり妖怪も人の常識とはかけ離れている存在だ。この事実は、大きいと俺は思う」

「……」

「生きる時間が違うモノ同士、寄り添い、連れ立って歩くことはできるだろう。しかしこのどうしたってある差を忘れた時、良くないことが起きる。不幸が起きる」

「では人と妖怪は離れて暮らすべきだと?」

「そこまで極端になるつもりはない。ただ、忘れねえようにしないとな。言葉は通じるが、生きる時間の違うモノと寄り添って生きるってのは、どんなもんなのかとな」

「それは……ギンコさん自身のことも、ですか?」

「そうかな。そうかもしれん」

「感傷ですか?」

「ないわけじゃない。俺にとっては、やつらは時に人よりもずっと身近にあるモノだからな」

 

 ギンコは旅をしている。蟲と呼ばれる不可思議な、生き物とも現象ともとれるモノを相手にしながら、その身を風に任せている。蟲と深く関わったばかりに身を滅ぼした人を見てきた、と語るギンコの道程を、咲夜は想像した。

 思い浮かぶのは、無常。意志や思惑を超えて、悠然(ゆうぜん)と頭上を通り過ぎていく巨大な何か。掌からこぼれ落ちて、染みになった雫。きっと助かるはずだった命が、身を(かし)げて谷底へと落ちるさま。

 彼は自分を責めたのだろうか。そこからは咲夜の想像の埒外(らちがい)だった。代わりに咲夜は自分の話をした。

 

「ギンコさんは刹那(せつな)、という言葉を知っていますか?」

「刹那? 時間の単位だったか?」

「そうです。弾指(だんし)の十分の一。極めて短い時間を指す言葉です。時計の秒針が動くこともないほどの短い時間」

 

 咲夜は指を伸ばしてギンコの持っている懐中時計に触れる。蓋が開く。秒針の滑らかな動きが、刹那を超えて動き続けている。

 

「秒針の動きに淀みはありません。連続して、時間は流れているように見えるでしょう?」

「ああ」

「ですが実際は違います。視点を細かく区切ったなら、秒が加算され、その秒もまた瞬間が積み重なり、瞬間ですらも刹那以下の累積に他なりません。小さな点を隙間なく打ち続けると、その連続は線に見えるということです。このことは多くのことに通じる概念であると言えます。例えば、山が膨大な一握りの土でできているように」

「ふむ、確かに。なるほどな」

 

 咲夜の説明に、ギンコは納得顔で頷いた。蟲と光脈の関係性を思い浮かべたためだ。巨大な流れを作っている光脈もその実は、小さな蟲の集合である。咲夜は続ける。

 

「つまり絶えず広がりを見せる事象、時の流れでさえも、刹那の連なりであり、私たちはその連なりを普段意識することなく過ごしていると言えます。ちょうどギンコさんらが、日の出と日の入りのみを見て、その間にある長針の動きに注意を払わないように」

「ふむ」

「ではギンコさん。もしここに刹那を自覚する存在がいたとして、刹那の時間の中で生まれて死ぬ存在がいたとして、その存在から、私たちはどう見えると思いますか?」

「どうって……」

 

 ギンコは目線を時計から上に向けた。視界の端に、背中と首を緩やかに丸めてこちらを覗き込んでいる咲夜の顔が映る。三つ編みのおさげ髪がふらりと垂れ下がって、彼女の鼻の頭を(かす)めていた。

 ギンコらが雨宿りをしている物置小屋の前には、休耕中の畑があった。程よく荒み、雑草の背は低く、密度もない。管理をしている人間の真面目さが(うかが)える。さらに視線を遠くに投げると、降雨の垂れ幕の向こうに手入れのされていない雑木林が見える。仄暗(ほのぐら)い林間に生き物の気配はない。ギンコは林を凝視した。

 人の背丈の三倍以上はある木々が林立している。枝葉に切り揃えられた形跡はなく、示し合わせたように重なり、空間の隙間を埋めて広がっているのが見える。いつから林は、そこにそうしてあるのだろう。人が触れることのない自然の領域。人が拓く前の、原初の風景。耕作の跡が残る景色との対比が、余計にその場所に積み重なった時を感じさせる。

 春に萌え、夏に盛り、秋に寂れ、冬に眠る。季節の巡りに合わせて多くの植物は生まれて消えるを繰り返す。そんな中でいくつかの命は滅びずに形を残して次の季節を迎える。植物の中では、樹。獣も、人もそうだ。特に樹は、長い。樹齢数百年と言える大樹を、ギンコも旅の中で見てきた。せいぜい数十という季節を巡れば目覚めぬ眠りについてしまう人と比べて、それは圧倒的に、永い。

 物言わぬ大樹。彼らを見上げる時、自分は何を思っていただろうか。彼らがもし口を聞けるのなら、(いかめ)しい樹皮に触れ、寄り添う小さな命をどう思ったのだろうか。そこまで思考を飛ばして、物思いに沈みかけていたところ、ぱちりと乾いた音がギンコの意識を寸断した。

 

「はい、時間切れです」

「あ?」

「気の抜けた返事ですね。真面目に考えていたから黙っていたんじゃないんですか?」

「あー、ころころ考えが転がっちまってな」

「ふふ。こんなのはただの連想ですよ? 刹那を一生とする命にとって、数十年、数百年の時の流れの渦中(かちゅう)はどう映るのかと。言い換えるなら、私たち人間がある時、数千年の命を与えられたとしてもいいでしょうか」

「そりゃ、まあ、長いだろうな。途方もなく」

「そう。長い長い時の中。刹那に動ける命にとって、数十年を基準に動く命の時間は長すぎる。隙だらけなんですよね」

 

 そう言って咲夜は掌から懐中時計を垂らした。鎖の擦れる小さな音がして、ねじれと振り子の動きに倣う銀色の円がギンコの目の前で揺れる。ギンコは自分の手を見ると、さっきまで持っていたはずの懐中時計がなくなっていることに気がついた。いつの間に、咲夜は自分の手からそれを取り上げたのだろうか。

 自分と咲夜の手元を交互に見やるギンコを見て、咲夜は満足そうに懐中時計をギンコへと差し出した。

 ギンコが時計を受け取る。そしてそれをもう一度観察しようとして、次の刹那には手元から時計は消え、戸惑い顔を上げると、咲夜が微笑みながら時計を揺らしているのだった。

 

「……なんだそりゃ」

「ちょっとした手品です。私の特技ですね」

 

 咲夜は少し得意気に時計の鎖を(もてあそ)んだ。ちゃりちゃりと軽い金属音がする。

 

「私にとって、ギンコさんはいつも止まっているも同然なんです」

「ほう。目で追えないほどに早く動いて掠め取ったってことか。とんでもなくスリがうまいんだな」

「事実は相違ないですが、そう悪い解釈をされると落ち着きませんね」

「今度から失せ物は真っ先にお前さんを疑うとしよう」

 

 意趣返しのようにギンコが揶揄(からか)うと、咲夜は小さく鼻を鳴らした。

 

「それで。刹那に動けるお前さんは、何が言いたいんだ?」

「……つまりですね。時間の流れなんてその程度の話というわけです」

「その程度?」

「今見せたでしょう? 時間はそれほど絶対的な基準でもないということです」

「……すまん、まだ話が見えん。続けてくれ」

 

 咲夜は語る。時間は、曰く相対的なものだとする解釈があるという。動きに合わせて、伸び縮みする時間。速く動くものにとっては、時間はだんだんと遅くなっていくのだという。ギンコにとってはすぐに、ピンとはこない解釈だった。

 似たような話で、違う生物種であっても鼓動、心臓の脈打つ回数は生涯で同じであるという話をギンコは思い出した。脈が早く、体内時間の密度が高い生き物ほど短命であり、逆なら長命だという話だ。

 体内時間の密度によって寿命が伸び縮みする。だとすれば、吸血鬼の鼓動は遅く、体温も低いのだろうか。そんなことをギンコは考えた。

 

「人は行動によってある程度時間を操れるのです。私が早く動けば、それだけ周りの時間は遅くなる。私の時間にあなたたちは追いつけない」

「ああ」

「すごいでしょう。ギンコさんが一歩目のうちに、私は百歩を終える。只人がひとつ種を蒔く間に、私は種を蒔き終える。こういうのを人里では、仕事ができると言うそうです」

「優秀だな」

「そうですね。でも考えてみてください。どんなに蒔くのが早かろうが、種が芽をだし、花をつけるまでの時間は変わりません。どれだけ時間をかけようと、百歩で歩ける距離は百歩までなのです。なら私の時間に、一体どれほどの意味があるのでしょうね」

 

 咲夜の言わんとしていることが、なんとなくギンコにも見えてきた。

 今降っている雨を考える。この雨がいつ止むのかわからずに、ギンコと咲夜はここで時間を潰している。その事実を前に、咲夜がいくら速く動けようとも関係がないことは明らかだ。無論、雲が切れる土地まで素早く移動することができれば、直ちに雨の下からは抜け出せるだろう。しかしそれで雨が止むわけではない。咲夜のいないところで、雨は降り続けるのだ。

 人の身で蟲の時間を生きた者の言葉を、ギンコは聞いたことがあった。その者はとある孤島にて生き神と崇められていた少女だった。

 生き神は宵の口に合わせて体が急に老い始め、ついには呼吸も止まる。そして翌る日には、何事もなかったように復活を果たす。人々の信仰を集めるそんな奇跡の正体は、蟲だった。少女は蟲に寄生され、蟲の寿命である一日に同調し、自身も生と死を繰り返していたのだ。

 蟲の寄生から回復した少女はこう言っていた。『目の前のあてどない、膨大な時間に足がすくむ……』。一日で生と死を繰り返してきた少女は、ただ茫漠(ぼうばく)な時間の海に怯えていた。

 太陽がいつも変わらずに昇り、冬に枯れた草木が春には芽吹くように、自然の理にも生きる時間がある。それは想像するほどに巨大で、悠然とそこに横たわっている。地の果て水の果てまで満ち満ちて、矮小(わいしょう)な人一人の命に逃げ場などない。それは、どこか恐ろしいことのように思えるのかもしれない。

 どれだけ力を尽くそうとも、人の思惑を超えていくものはある。どうにもならないことがある。ギンコもよくよく理解して、しかしわずかな感傷を抱かずにはいられない事実だった。

 

「人の身にはどうにもならないことはあります。妖怪とは生きる時間が違うことも、仕方がないことです。彼の存在にとって、私たちは刹那の生き物。太陽が昇り、沈むまでに何周もする秒針の動きに他ならない。人から妖怪は見えていても、本質的に、妖怪から人は見えていないんです。そんなことは当たり前のことなんです。だから、私は私の時間を生きるしかない」

 

 膨大な時間を生きる命に、刹那の時間は見切れない。ただその儚さを、消えた後に嘆くのみだ。刹那に生きる命にとって、膨大な時間はただそこにあるだけで不安なことだ。その不安を、共感するのは難しい。どちらともが、どうにもならないことを抱えている。

 妖怪も人も蟲も、似たような関係性を持っている。寄り添えば起きる摩擦のように、ただそこにある。人の身にはどうすることもできない。個々が抱える時間は本質的に孤独であり、鼓動だけがその真実を語る。寿命を刻み、いつか止まるその時を待っている。人が大樹の声を聞き取れないのは、大樹からは人が見えていないからなのかと、ギンコは思った。

 

「私は仕事ができます。そして忙しい。それこそ、時間を止めなければやっていられないほどに。どうにもならないことに(かかずら)っている暇はありません」

 

 あるいは暇がない分、感傷に浸る時間も惜しんでいるのかも、と咲夜は苦笑した。ギンコは咲夜が思考停止するために忙殺(ぼうさつ)されることを望んでいるのかと想像し、病み上がりの体で仕事に打ち込んでいる事実とを合わせて、さもありなんと言葉を濁した。だが言葉の裏にある、やれることをやるしかないということは、ギンコにもよく理解できた。

 

「自分の時間を縮めて縮めて、お前さんは人より速く生きているわけだ」

「そういうことになりますね」

「なら、人より速く老けていくんじゃないのか?」

「かもしれません……あんまり嬉しくないですけどね」

 

 ギンコの指摘に、咲夜はため息をついた。生き急ぐなとは言うまいが。

 

「病み上がりくらい、じっとしてろよな」

「そこに話が戻るんですか? いいんですよ。ずっと寝ている方が体に悪いです。……まあ、その分ギンコさんにこうしてご迷惑をおかけしているのは事実ですが」

「……負い目に感じても譲れないことってのはあるんだろう。わかってるよ」

「助かります」

「気にすんな。元はあの嬢ちゃんについていけと言われたことがきっかけだしな。……そういやあの嬢ちゃんは何歳なんだ。吸血鬼ってのは当然、見た目通りの歳じゃねえんだろう」

「私の主人は遥か長い時を生きています。すでに五〇〇年」

「あの嬢ちゃんそんな歳なのか」

「ええ。ちなみに妹様は四九五年です」

「混乱しそうになるな。見た目でどうこう、常識を語るような癖はないつもりだったが」

「彼女らの生きる時間の尺度からすれば、数百年の成長すらまだ幼さを残す段階なのかもしれませんね」

「そりゃなんとも、ぼんやりとした話だ」

 

 ふと屋根を叩く雨音が弱まったように感じた。雲間から光芒(こうぼう)が落ち、空を見上げずとも太陽が顔をのぞかせているのがわかる。雨はもうすぐ上がりそうだ。

 

「……なるほど、だからお前さんは時計を見るのか」

「え?」

 

 人には人の、妖怪には妖怪の生きる時間がある。生きるモノの動きに合わせて、時間は伸び縮みする。だというのなら、一定の間隔で時を刻む機械は何のために存在するのだろう。そんな単純な疑問が頭に思い浮かび、すぐに氷解した。

 ギンコが巡る季節に従い、間隔の変化する昼夜に沿って行動するのと同じように、咲夜もそうしている。ただし咲夜が従うのは、手のひらに収まる機械である。可視化され、客観的に見つめられる時間がそこにある。

 

「時計を見て、自分の時間を確認してるんだ」

「どういう意味です?」

「伸び縮みしない時間を物差しにしているのさ。その時計に従っている間は、従っているもの全てが同じ時間で生きることになる。伸び縮みする自分の時間が矯正されるんだ」

「ああそういう。確かに、それはそうですね」

「そう思えば便利なもんだ。人がもっともっと増えると、そいつが必要な奴らが増えるんだろうな。……だから小さく、手持ちがしやすいようになってるのか?」

「面白いですね。時計は生き物の寿命を(なら)す道具、というわけですか」

「……いや、そうじゃない」

 

 体内時間の密度が寿命の長さと相関しているというのなら、まさに咲夜の持つ時計は寿命を均す機械仕掛けの神器(じんき)であろう。だが実際には寿命は伸びぬし、縮まらない。時計はただそこにあって、時を刻むのみだ。大層なことをするわけではない。

 

「刹那の話をしたな。感じ取れぬほど小さな時間が連なって、大きな時間が流れていると。その動きは、時計の中でよく見てとれたな」

「はい」

「そして長い時間を生きる命からは、刹那に生きる命は見えないとも話したな」

「ええ」

 

 それらを踏まえた上で、とギンコは続けた。

 

「俺が知っている話で、蟲の時間を生きた少女の話がある。一日で生と死を繰り返して体験したその娘が語るには、蟲の時間で見た世界は何もかもが新鮮で彩りに溢れ、宵の訪れと共に眠りにつく時、とても満たされた気分でいられたという。代わりに人の時間を思い出した時、目の前に広がるあてどない膨大な時間に足がすくむとも」

「……大きいことは、それだけで不安を煽ると言うことですか?」

「目を逸らしたくなる人間がいるというのは確かだ。俺はその少女を蟲患いから治したが、結局元通り、娘は蟲の時間で生きることを選んじまったからな」

「それはなんとも……不条理なことですね」

「ああ。だが否定もできん。共感できることだけがこの世の全てじゃない。だからその時計が役に立つ」

「話が飛躍しましたね。どうしてそうなるんです?」

「その機械は鼓動に縛られず、永い時を刻むものだろう。体内時間の密度の違いで、伸びたり縮んだりもしない。泰然自若(たいぜんじじゃく)に繰り返し、膨大な時間を内包するものだ。一方で刹那のような短い時間も内包している。極めて細い針がそれだな。そしてそれらが一目でよく見えるようになっている」

「ええ。それが?」

「わからんか? どちらも見えるということは、どっちを見てもいいということだ。刹那も、数百年も、どちらもだ」

「あ……」

「伸びたり縮んだり、密度が変わったりと忙しない時間に振り回されそうになった時、時計を見る。そうするとそこには刹那と無限が同時に見て取れる。自分が見つめるべき時間がわかる。お前さん、さっき時計を確認した時、雨がいつ止むのか気になっていたんじゃないのか?」

 

 ギンコに言われて咲夜もハッとする。なんとなく手持ち無沙汰で目を落とした懐中時計。今は何時だろうかという問いには、あとどれくらいの時間があるのだろうか、あとどれくらいの時間こうしていればいいのだろうかという期限を想像する気持ちが明らかに付随している。

 目の前に広がる、あてどない時間に足がすくむ。自分が見つめるべき時間がわからなくなって不安になる。そういう時に、人は時計を見るのかもしれない。自分は自分の時間を生きるしかないと豪語したあとで、なんとなくそれは認めづらいことではあったが、咲夜はギンコの言葉に頷いた。

 

「そう、かもしれません」

「人が刹那を思い、見つめる。膨大な時間を目にした時、消え入りそうな自分を確かめる。いい(しるべ)だな、それは」

「でも、そうなら時計を持つ人たちはどこか弱々しく思われませんか? なんだかそれは、納得できないんですけれど」

 

 咲夜はそれが精一杯の抵抗であるように少し(むく)れた。確かにこれでは幻想郷でも珍しく時間を気にして時計を持ち歩いている咲夜の立場がない。しかしそんなことで自分に抗議されてもなと、ギンコは一瞬考える。

 

「……必要ないんだろうさ」

「ですからそれですと……」

「他の奴らのそばには、人がいる。自分とほとんど変わらない時間を生きている人がな。それが時計の代わりなんだろう。共感があれば、物差しは必要ないからな」

「む」

 

 ギンコがあながち的外れでもなさそうな詭弁(きべん)を付け足すと、咲夜は静かになった。無論人が人をそばに置くという行為が、時計を持つ行為と同義であるわけはないが、妖怪たちに囲まれて人として生きる咲夜にとってはよく納得できる言葉だった。

 

「そもそも、弱々しいということもないだろう。俺が知る普通の人間に、お前さんの在り方が易々と真似できるとは思えん。それに見た目やら持ち物やらで相手を侮ることができるなら、俺はお前さんの主人に食い殺されてるだろうよ」

「お気遣いどうもありがとうございます。ギンコさんはできそうですけどね。私の真似」

「スリか? 無理無理」

「もう、そうじゃなくて!」

「お。雨止んだな」

 

 雲が通り過ぎたのか、軒と空の境界に晴れ間がのぞいている。しっとりと水気を帯びた空気と青草の香りだけを残して、雨はどこかへ過ぎ去った。わざとらしく会話を切り上げて、ギンコは腰を浮かす。荷物もひょいと持ち上げて、肩がけに背負った。

 草についた(つゆ)で靴を濡らしながら農道へと出ると、生ぬるい風が肌を舐めていく。匂い立つ土と草の香りに、鼻を鳴らした。

 ぞりぞりと靴底で土を()るように進めば、少し遅れて咲夜が隣にやってくる。

 

「雨が上がった途端に歩き始めましたね」

「そりゃ雨で足止めくってたんだから、止んだら歩くだろう」

「いえ、それだけでもなく。……さっきの話の続きですけど、ギンコさんにとっての時計はなんなのかと思いまして」

「ん?」

「ギンコさんは一人で旅をしている。蟲なんていうモノに寄り添って、生きている。でも時計は持たない。ならあなたはどうやって自分の時間を確認しているのでしょうかと」

「あーそりゃ確かに。だが、お天道様が基準な気はするな」

「でも夜だって動き回るでしょう? 貴方からは、なんだか夜の雰囲気も感じます。蟲とやらも、日向より日陰を好むのではないですか?」

 

 咲夜の言うことももっともだった。ギンコは蟲に寄り添って生きている。彼らを身近なものとして生きている。長大な時間の中で生きるモノ、時に儚く刹那に消えゆくモノ。どちらもが蟲の姿に相違ない。

 貴方の時間はどこにあるのですか、と問われればギンコはどこにあるのだろう、と考えてしまった。咲夜がそうであると割り切ったほどに、ギンコは特に明確な答えを持っているわけではなかった。

 蟲師のギンコ。名前ばかりに存在の核を見出す自分は、どこに向かって歩いているのだろう。

 ギンコが黙ったのを見て、咲夜も時間を止めた。

 

「ん?」

 

 ギンコの手首に冷たい感触があった。右手を持ち上げると、銀色の懐中時計の鎖が手首に巻き付いている。そのまま視線を右隣に移すと、途中で一歩先に咲夜が歩み出て、ギンコはその後ろ姿を目で追った。

 

「おいなんだこれ」

「差し上げます」

「あ? なんでだ」

「思えばちゃんとしたお礼はしていませんでしたし、そういうことで」

「いや、別に必要な……」

「いいんです。もう一つありますし。それにギンコさんは隙だらけなんですから、たまにはそれを見て、ご自分が生きるべき時間を確認されるとよろしいかと」

 

 断る言葉に被せるようにして、咲夜は時計ごと、それをギンコに押し付けた。人には人の、妖怪には妖怪の、蟲には蟲の、生きる時間がある。それを忘れた時に、不幸が起きる。それをよくよく理解しつつも、放っておけば闇に消え入りそうな生き様を晒すギンコの手首に、鎖付きの導を預けて咲夜は先を歩いていった。

 

「なあ」

「なんですか」

「いや……もらうのは構わんが、俺はこの時計の読み方を知らんのだが」

「……ほんと、隙だらけですね」

 

 知らんことには仕方ないだろう、とギンコは独りごちる。語り出せば滔々(とうとう)と響く低い声色も、今は間伸びして頼りなく聞こえた。

 足を止めた咲夜に追いつき、ギンコが時計の読み方を教わる。咲夜が常識としている定時法とギンコが思っている不定時法の時間については大きな齟齬(そご)があるのだが、今はまだ、二人ともその事実を知らずにいる。

 雨は上がったというのに、紅魔館までの道のりはまだ縮まらない。立ち止まってあれやこれやと交わした言葉の点が、会話という線になって後ろに流れていく。歩きながらでもできる会話だろうにと二人が気がつくまで、もう少しの時間がかかりそうだった。


















 咲夜さんとギンコの散文でした。雰囲気を楽しんでください。





 それではまたお会いしましょう。

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