「妖怪がこの里の近くで暴れている、だって?」
黒髪の、気の弱そうな顔をした少年が言った。
「ああ、被害を受けた人間も居るらしい。前に人里に侵入してきた妖怪も居たし、そいつもそうかもしれないってよ」
青年の傍、男は椅子に座りながらそう答えた。
実際に、この青年達の住む人里と妖怪たちの間には『人里に住む人間を襲ってはならない』という決まりごとがあるのだが、一部の知能の低い下級の妖怪が襲ってくることがたまにあった。その度に人里の守護者が守ってくれているのだが、やはり人里に妖怪が襲来するのは自らを守る力のない人々にとって不安を感じさせることだった。
よっこいしょ、とおじさん臭い声を出して座る男を視界の端に捉えつつ、青年は読み終えた小説をぱたんと閉じ、本棚にしまおうと席を立った。少しだけ頭が痛くて、唸りながら立った。
「ふうん…最近は物騒だねぇ」
「はは、これでも昔よりマシになったもんさ。…あ、暁。夕飯の材料を買ってきてくれないか?」
男からの頼みに、暁と呼ばれた青年は若干嫌そうな顔を見せる。しかし、頼まれた事はあまり断れない性格であった暁は、すぐにいつも通りの顔に戻って、
「あぁ、行ってくるよ」
と家を出た。家に多少の食材はあるから買うのは少しでいいか、と考えながら暁は食料品店が立ち並ぶ通りへと歩いて向かった。
通りは人も多く、賑やかだった。暁は人の多いところが少しだけ苦手だったが、この賑やかさが嫌いではなかった。
少しの間この様子を立ち止まって見ていたが、やがて買い出しの事を思い出し、再び歩き始める。
そんな暁に、声をかける人物が居た。
「やあ暁。何か楽しそうだな。いい事でもあったのか?」
そう声をかけてきたのは、青みがかった銀髪と、大きく胸元の開いた青い服が特徴の『上白沢 慧音』だった。
教師の仕事をしているが、人里の守護者としても活動しており、その真摯な態度からも信頼は厚い。
「こんにちは、慧音さん。最近は仕事も入ってこないし、残念だけど特に何も…ハハ」
暁の職業は、人から依頼を受けて行動するいわば『何でも屋』のような職業であった。
しかし、最近になって依頼の数が減った。妖怪が襲ってきた時もあったが、そういった事は依頼として暁の所に来ることはなかった。人里の守護者である慧音達が追い払うからである。
ましてや、人間にとって妖怪に対抗する力である『霊力』を殆ど持たない暁に妖怪退治などできるはずもなかった。
暁は困ったように苦笑した。
「ハハハ、そうか。何もないっていうのもいい事だが、お前にとっては死活問題だからなぁ」
「そうなんですよ…あ、そうだ。慧音さんは教師のお仕事上手く行ってるんですか?」
「うっ…いや…」
慧音の授業は、難解で退屈らしく、子供達からあまり人気ではなかった。彼女なりに面白い授業にしようと策を練ったりしているようだが、この反応を見ると思うようにできていないことがわかる。
「私も思うようにはいかないなぁ」
と、そう言った彼女も苦笑した。
眉の端を下げて少しだけ申し訳なさそうに笑う。そんな彼女の笑い方が暁は好きだった。
「また今度手伝いに行きましょうか?僕、子供は好きなんですよ」
「ああ、暁に手伝って貰ったこともあったなあ…そうだな、難しそうだったらまた頼むかも知れないなあ」
そんな会話をした後に暁は「まあ、また今度突如声が響いた。『おいで』『一緒に遊ぼう』等と、今までに聞いたことのある声色で、聞いたことのない台詞が響いた。それも一つだけではなく、だんだんとその声が増えていった。
「あ…ぐぐ……」
暁は思わずよろけて、近くにあった壁に倒れこむようにもたれかかった。
その間にも、声達は暁の思考を侵食していった。
頭痛が酷い。吐き気もしてきた。が、少しの間だけで、すぐにそれらは収まった。
暁はゆらりと起き上がる。
「…………行かなきゃぁ」
そしてふらふらと人里の外へ歩き出した。
その眼は虚ろで、何かに操られてしまっているようだった。
▼▼▼▼▼▼
「やっと来たね、アカツキ」
「――――む…?」
暁の意識がはっきりしてくると、そこは見知らぬ場所だった。
不自然に思えるくらい、暗い森だった。
暁は、先ほどの声達に洗脳され、おびき寄せられてしまったようだ。
暁は自分に声をかけてきた者を探そうと辺りを見回す。
「……居ない……?」
「いやだな、居るじゃないか…ここに」
耳元で声がした。慄然として、暁は飛び退かずにはいられなかった。
自分の背後に居たのは、邪悪な雰囲気を纏った妖怪だった。それは少女の姿をとっていた。
「一体何なんだ…人里の近くで暴れているって妖怪はお前なのか?」
「違うよ、それと私は全く関係ない…いや、今から私に喰われるお前に話す必要もなかったか。それじゃあ…」
「な…」
「いただきます」
瞬間、右腕に激痛が走る。
暁が気付かない内に右腕を掴まれて、噛みつかれていたのだ。
ただの人間である暁は、その激痛と恐怖の感覚に無様に叫ぶことしか出来なかった。
「ぐあぁああああああああああああああああああああああああぁーッ!!!??」
「うふ♪」
妖怪は上機嫌で暁の右腕の肉を噛み千切る。
と、妖怪は目を見開いた。
「アカツキってそこらの人間より美味しいねぇ!…あれ?」
「ぐうううううううッ!!」
妖怪が何か言ったようだが、暁は恐怖のあまりそれに気付けなかった。
そこで、何かじゅるじゅると気味の悪い音がしはじめた。妖怪が不気味に笑う。
「落ち着いてよアカツキ」
「あぁあああああ――――あ?」
先程までの叫びが嘘だったかのように右腕の痛みがすっかり消えた。
暁が慌てて掴まれている右腕を見ると、何か赤黒いモノが傷口に入り込んでいた。
そしてそれは、妖怪の手からどろどろと流れ出てきていた。
「一体なんなんだッ!?」
「だから、気に入ったのよアカツキのことが!生かしておいてやるわ」
妖怪という種族は、自分にとってどうでもいい事に対してはどこまでも無関心である。
しかし、ある程度気に入ったり気になったりすると、相手が人間であろうと助けたりする妖怪も居た。目の前でにひひと笑う少女の妖怪もそうなのだろうか。妖怪の興味などの基準は人間には理解出来ない所にあるが…とにかく首の皮一枚つながった。
暁は自分に理解出来ない出来事が連続しすぎて、安堵していいのかどうかわからなかった。
「なぜ…?」
「なぜって、(まぁ殆どはなんとなくだけど)…聞きたい?理由」
「…あぁ」
妖怪は、しょうがないわねぇ。と言って話し始めた。
「私には不思議な能力があってね?…………他人の未来とか、面白くなるかどうかの分岐点とか…そういうものが見えるのよ。見るきっかけは、その時その時で変わっていくんだけど」
「…」
暁は黙って聞いたが、何がなんだかまったくわからなかった。未来を見る能力?そんな物あるのか?そもそも、能力ってなんだろう。
そんな暁には目もくれず話し続ける妖怪。自分なりに解釈するしかないようだ。と諦めて話を聞いた。
「今回未来を見ることになったきっかけは、貴方の肉を食べたことみたいね。美味しいからかしら?まぁそんなことはいいか。とにかく、貴方の未来は面白いわ。面倒だから内容は言わないけど…人間として生きていれば、そんな楽しい人生も中途半端な所で終わってしまうかもしれない。なんとなくそう思ってたら、新しい選択肢が見えたわ」
「…?」
「貴方が妖怪として生きていけば、人間として暮らすよりもっともっと、最も面白い人生になる。…ま、私から見てだけどね。だから貴方を妖怪にする」
いくらなんでも滅茶苦茶すぎる、と暁は感じた。
面白いからと言ってただの平凡な人間にそこまでするのか?さっさと喰らう方が妖怪らしいのではと思ったが、ただ人間としてここまで生きてきた暁に妖怪の心などわからない。
と、ここで暁はあることに気付いた。
(なぜ妖怪になることを拒絶しないんだ、僕は?)
ここで、少女の姿をした妖怪が暁の顔を見ながらニヤリと笑う。
「貴方が既に妖怪になってしまったから、じゃないかしら?」
「な…に…?」
何故暁の思考が理解できたかなど今はどうでも良かった。どこからともなく鏡を取り出した少女は、鏡に暁の姿を映す。
その鏡に見えた暁は、髪が白に染まっていた。目も白かった部分が黒く、元々黒い所は紅く染まっていた。顔立ちも暗く、変わってしまった。
今までの暁は消えて、まさに『妖怪』と呼べる姿が、そこにはあった。
「あ…ああ」
暁は膝から崩れ落ちた。
ただただ嘆き続ける暁。少女の妖怪は無言でそれを眺め続けた…。