「……で、これはどういう訳だ?」
突然の出来事に、俺はかじっていたリンゴを落としそうになった。シャワールームから出て来たセシリアが、いきなり俺の前で土下座をしてきたのだ。
水気を帯びた金髪がちょっと色っぽいと思いつつも、頭の中は不思議と冷静でいられた。きっと、あまりに唐突な出来事だったから頭の中での処理が追いつかなかったに違いない。
「わたくしは、あなたに負けました。負けた方は、奴隷になると約束しましたので……」
いや、言ったけど。お前が余計なことを口走ったからこっちも売り言葉に買い言葉で言ったけど。
「とりあえず、顔をあげろ。別に気にしてなんて」
「わたくしの気が収まりません!」
どうしたものか。強情なお嬢様を前に、俺は頭を悩ませた。
オルコット家の人間を奴隷にするとなるとイギリス国内で大騒ぎになるだろうし、そもそも女尊男卑の社会で男が女を奴隷だなんて、それこそ世界の鼻つまみ者にされるだろう。
大体、学生の口約束にそれほどの効力なんかない。
「……じゃあ、命令一回で終わりだ。いいな?」
「……わかりました」
けど、このプライドの高いお嬢様は一度そうだと決めたら曲げないのだろう。
仕方なく、俺は一度だけ命令する権利だけを主張して、この約束を終わらせることにした。
「ふむ」
しかし、いざセシリアにしてもらうこととなると、思いつかないものだ。こいつは一体何が出来るのか。
まぁ、無難なところで言えば家事だな。
「……決まりましたか?」
上目遣いで俺を見て来るセシリアは、同年代とは思えない程の色気を持っていた。
いやいや、思春期とはいえそれはダメだろう。前世でも経験はなかったし。
「……もう少し待て」
"キスをしろ"なんて命令、出来る訳がない。
やはりもっとこう、普通の願いで終わらせよう。
「そうだな。料理でも作ってもらおうかな」
「……へ?」
「聞こえなかったか? 今度、俺に飯を作れ。それで今回のことはチャラだ」
「はぁ……それでいいのでしたら」
セシリアは一瞬キョトンと目を点にして、その後少し残念そうに頷いた。
何だ? 料理は苦手だったか?
「……あの、凌斗さん」
「あ?」
隣のベッドに座ったセシリアは、遠慮がちに俺の名前を呼んだ。
そういえば、セシリアに名前を呼ばれたのは初めてだな。今までは"貴方"とか"極東の猿"とか呼ばれてたし。
「その……今まで、申し訳ありませんでした」
「お、おう」
「わたくしも大人げなく怒ってしまったことを反省してます。今までの情けない男性像に捕われて、あなたという人がどんな人物か見誤ってしまった」
慎ましく、自分の反省を口にするセシリアに俺は少し不気味ささえ感じていた。
あのプライドの塊でエリート自慢に事欠かない、唯我独尊お嬢様のセシリアが。
「男も女も関係なく、全く媚びようともしない強い精神。感服いたしました」
「そうか」
「ですから……今までのことは水に流して、仲良くしてもいいと思いますの」
「そうか……ん?」
今、聞き間違いでもしたか?
仲良く
「わたくしのようなエリートと親しくするに相応しい方だと認識を改めましたの。ですから、凌斗さん。これからもよろしくお願い致しますわ」
「お、おう……」
セシリアは、スカートの端を持って礼儀正しくお辞儀をして見せた。
揺るがないプライドと気品。そして、上から目線。ああ、コイツはやっぱりセシリア・オルコットだ。
その姿に少しイラっとしながらも、少し安心しながら俺はまたリンゴをかじった。ん、勝負の後のリンゴは美味い。
◇◆◇
代表決定戦の後の夜。
セシリアはまた眠れずにいた。シャワーは随分前に浴びたはずなのに、身体の火照りが消えないのだ。
「……またですわ」
ゆっくりと起き上がり、冷蔵庫からミネラルウォーターの入ったペットボトルを取り出す。
少し飲んでから、セシリアは火照りの原因である少年をジッと見た。
「凌斗さん……あなたのせいですわ」
小さく悪態を吐くセシリアは、暗くてよくは見えないが頬を赤く染めていた。この蒼騎凌斗という少年が、自分の理想とする男性にピッタリと当て嵌まってしまったからだ。
実力が上の人間を相手にしても全く媚びない強い瞳。逆境に晒されても諦めようとしない意思。そして、あんなに失礼な態度を取り続けた自分を助けてくれた紳士的な態度。
「あなたに会ってしまってから、わたくしは……」
セシリアは、凌斗に対する未知の感情に戸惑っていた。これが"恋をする"ということかどうかは分からない。
理想的である反面、凌斗は生意気で態度も口も悪い。こんな野蛮な男性を好きになるはずがない、とセシリアは思い込んでいた。
好きなのか嫌いなのか。モヤモヤした感情が胸の内で渦を巻き、セシリアは眠れずにいたのだ。
そっと起こさないように近付くと、凌斗は小さな寝息を立てて眠っている。
「寝ている時は、こんなに大人しいのですわね」
自分に一歩も引かずに言い返してくる昼間の凌斗を思い出し、そのギャップにクスッと笑うセシリア。
もうすぐ口付けが出来てしまいそうな距離まで近付いたところで、サッと自分のベットに戻った。
(わ、わたくし、今何を……!)
無意識の内に自分がしようとしてたことを思いだし、セシリアは顔を更に赤くする。触れようと思えば、すぐにでも触れられる。そんな距離にいるからこそもどかしい。
本当にどうしてしまったのか。まだよく分からない感情を抱いてしまった少女は結局、悶々と夜を過ごしていくのだった。
◇◆◇
翌日の
「では、一年一組のクラス代表は織斑一夏君に決定です。あ、一繋がりでいいですね」
全くだ。何でも一番を取れそうで縁起がいいじゃないか。
頷く俺を尻目に、一夏はスッと挙手した。
「先生、質問です」
「はい、織斑君」
「俺は昨日の試合で凌斗に負けたんですが、なんでクラス代表になってるんですか?」
確かに、試合は一夏の負けで終わった。通常なら俺がクラス代表になって然るべきだろう。
「俺が辞退したからに決まっている」
山田先生の代わりに、俺が一夏の質問に答えた。
あんな勝ち方、俺は絶対に認めない。本当なら、俺はあの場で斬られて負けていた。何が要因かは知らんが、俺自身が負けを悟ったのだ。
「俺はお前を侮っていた。初心者で、何の力も取り得もない男だと。だが、結果はどうだ? 自分の力に自惚れた結果、お前の力量を正しく見ることが出来なかった。だから、あの勝負はお前の勝ちだ」
「いや、だから──」
「言うな! お前も織斑先生と同じことを言うんだろ? ならば、これは勝者の命令だ。未熟なままの俺が代表より、一本を取ったお前こそ代表に相応しいんだ」
一夏の言いたいことを遮って、俺は一夏を推し進める。
試合は俺の勝ちだった。だが、自分の未熟さと負けを認められないで今後強くなれやしないからな。
「俺はそんなクラス代表なんて」
「一夏。強くなりたいんだろう? 守るものの為に」
俺は昨日の一夏の言葉を思い返し、その意図を探っていた。
その結果、どうやらあの雪片弐型はかつて織斑千冬が第一回モンド・グロッソ大会で使っていた武装と同型のものらしいことが分かった。
一夏は今後、姉の面影を背負って戦うのだ。ならば、姉の名に泥を塗らないよう強くなるべきなんだ。
「クラス代表は実戦を積む機会に恵まれている。だから、もっと強くなれ。いつか、俺が代表の座を奪いに来るまではな」
「凌斗……」
俺と一夏は通じ合い、熱く拳を突き合わせる。それでこそライバル。それでこそ、俺が認めた男だ。
この瞬間、女子から黄色い悲鳴と共に「この組み合わせ、行ける!」だの「攻めは蒼騎君、受けは織斑君」だの聞こえてきたが、俺は無視した。一々取り合っていたら精神が持たない。
「あのー、クラス代表は一年間変わらないんですけど……」
……そういえば、そうだった。山田先生の気弱な声に、俺は頭を抱えた。あぁ、やっちまった……。
それでも、まだ来年が残っている。その時に俺の力を示して、代表の座に付けばいい。
「では、クラス代表は織斑一夏。異存はないな?」
はい、とクラス全員がまとまって返事をした。
セシリアも少しは大人しくなったし、これから1年いいクラスになりそうだ。
◇◆◇
それから数日後。
俺は以前の約束である、"セシリアに料理を作ってもらう"を実践してもらっていた。
「あの、わたくし料理は不慣れでして……作っているところは見ないでもらえます?」
と言われたので、俺は部屋の外で待機だ。リンゴも、すきっ腹で食べることを条件にされたのでかじっていない。
自分で言うのもなんだが、俺は強さを何処までも追い求める探究者だ。それもこれも、全ては
そんな俺も、立派に男で学生だ。異性の手料理には心が躍る。
「お待たせしました」
まだかまだかと落ち着きなく待っていると、遂に部屋の中からエプロン姿のセシリアが現れる。
何というか……女子のエプロン姿にもまた心を躍らせるものがあるな。
「ん?」
あくまで平常心を装いながら入ると、まず感じたのが"異臭"だった。
これは、狭い電車やエレベーターの中で嗅いだことのあるような、呼吸をしたくなくなるような異臭。
正体が何かは分からないが、不快感を煽る異臭に高揚していた俺の気分は一気に底まで叩き落された。
「さあ、召し上がれ」
イスを引いて待ってくれているセシリアの姿は実にいい。元がかなりの美少女なだけに、俺でも似合うと断言できる。
だが、机の上に乗っている
俺はこれを本当に口にすべきなのか。危険察知能力がフルで働いている中、セシリアも不安そうにこちらを覗き見る。
「どうしました? ひょっとして、お嫌いなものがありました?」
「いや、頂く」
そう、例え怪しくても、これはあのセシリアが俺の為だけに作ってくれたものなんだ。俺が口にしないでどうする!
俺は両手を合わせ、最初に目に入った唐揚げを口にした。
きつね色に輝く唐揚げはサクッとした衣から肉汁が溢れて、そこにからしの風味が……絡ん……で──
「よう」
気付くと、俺の意識は見覚えのある場所にいた。
雲のような白い靄に囲まれた空間。一つだけ違うのは、俺の姿はハッキリと見えているということ。
そして、目の前には。
「お前、こっち来るの少し早かったんじゃね?」
黒いローブの男──神様が若干困った風な顔で俺を見ていた。
そんなことを言われても、何が起きたのか俺にはさっぱり分からない。
ただ分かることと言えば、口の中が痛いということ。辛いとかではなく、痛い。
「あの女の料理、そんなにヤバい代物だったのか……や、それよりお前は
「何の話だ?」
どっちが?
本当の自分?
一体どういうことだ。
「まぁ、いいや。臨死体験はその辺にして、さっさと帰れ」
神様は頭をポリポリ書くと、俺の額を指で小突く。
すると、俺の意識は何か引っ張られるように落ちて──
「ハッ!?」
目覚めると、俺はベッドの上で寝かされていた。
今のは夢……なのか?
状況を急いで思い出そうとする俺だが、直前まで何が起きていたのか思い出せずにいた。
「あ、目が覚めましたか?」
ふと、声が聞こえた方を向くと、セシリアがホッとしたような表情でこちらを見ていた。
「もう、急に倒れるなんてビックリしましたわ」
眉を逆ハの字にして、セシリアは今度は俺に怒って見せた。
急に倒れた?
……なんだ。思い出してはならないようなことが、頭の中に引っかかっている。
「具合が悪いのでしたら、先に言ってくださいまし」
「あ、ああ。すまなかった……?」
具合が悪い? なんのことだ?
俺は蒼騎凌斗として生まれてから滅多に風邪を引いてないし、さっきまでピンピンしてたような気が。
そして、俺は視界に"ソレ"を入れてしまった。机の上に未だ鎮座する、禍々しい異臭を放つ"ソレ"を。
「では、元気になりましたらまた食べてくださいね?」
セシリアの可憐な笑顔が、今だけは死と恐怖を呼ぶものに感じられた。
そして、俺はこの日学んだ。例えエリートでも、努力を積み重ねた秀才でも、苦手なものがあるのだと。自分の蒔いた種で、予期せぬ試練が訪れることがあるのだと。