雪風の意識は唐突に覚醒した。
なぜなら何者かが雪風の顔に水をぶっかけたからだ。
訳もわからず目を瞬いていると、だんだんと思考が追いついてくる。
そこでまず目に入ってきたのは岩でできた壁だった。
「う…ん…?」
次に自分が床に寝かされているということに気づき、目の前の岩が壁ではなく天井である、ということを把握したあたりで昨日のことを、自分の状況を一気に思い出した。
「ーーーそうだ!もこさんを探さないと!!!」
勢いをつけて立ち上がろうとしたがなぜか体に力が入らない。
その後も立ち上がろうと試みていると洞窟の奥の入り口の方から声をかけられた。
「だからもこじゃない。妹紅だ」
「…もこさん?」
「うを抜くな、うを」
「もこさぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!」
そこにいたのはずっと探していた藤原妹紅、その人だった。
妹紅が片手を腰に当ててダルそうに立つ姿を見ていた雪風はいつの間にか涙を流していた。
「ちょ、あんたなんで泣いて…ていうか、なんでまた森に入ったの」
妹紅が苛立った様子で聞く。
だがそれも仕方ないことだろう。
あれだけ面倒に付き合わされたのだ、森の入り口まで送り届けた時はさぞ厄介払いができたと喜んだに違いない。
雪風は次々と溢れてくる涙に嗚咽を隠そうともしないままに状況を話した。
村が燃えていたこと。みんな死んでいたこと。母さんも死んでしまったこと。
それらを気怠げな様子で全て聞いた妹紅はしばらく黙っていたが、雪風の嗚咽がおさまってきたのを確認すると口を開いた。
「あんた、腹は減ってる?」
この言葉にてっきり優しい同情の言葉をかけてもらえると思っていた雪風は拍子抜けしてしまった。
ポカン、と状況を読み込めていないような顔で妹紅を見つめる。
「昨日お腹すいたって言ってたし、その様子じゃどうせなにも食べてないんでしょ?」
そうだ。そうだった。よく考えたらもう丸一日以上は何も口にしていない。
そう思い出した途端に腹の虫が鳴いた。
それを確認した妹紅は右手に持っていたものを雪風の前に放った。
「これ…」
イノシシだった。
ただ、頭がない。
首から綺麗に頭がなくなっていた。
そしてその断面は高温の焼ごてを押し当てたような感じになっている。
こんな重そうなイノシシを片手でずっと担いでいた妹紅も妹紅でどうかと思うが、しかし雪風はそんなことには気が至らない様子で妹紅に視線を向けた。
ありがとう、と礼を言う。
それを聞いた妹紅は洞窟の奥の方へと入っていくとどこからか脇差ほどの長さの鎧通しを持ち出してきてイノシシの隣に置いた。
雪風がそれを眺めていると妹紅は雪風が初めてここに来た時と同じ場所に座り、目を閉じてしまった。
まさか、と思い見ていたが静かな寝息が聞こえ始めるまでそう時間はかからなかった。
「あ、あの…これ…いつ料理するの?」
恐る恐る、といった感じで声をかけると妹紅が嫌そうに口を開く。
「好きにしなよ。それはあんたの」
「え…もしかして僕が料理しろってこと?」
「他になにがあるの。まさか私に料理しろって?」
「だって僕、料理なんてしたことないよ」
「なら今日が初めてね、頑張りなさい」
取り付く島もないとはまさにこのことである。
イノシシを獲ってきてくれたのはすごく嬉しいけど、そこまでしてくれたならもうちょっと頑張ってくれてもいいのに、と雪風が呟く。
「…なんか文句でもあるの?」
聞こえていたらしい。
雪風は慌てて首を左右に振るとおっかなびっくり鎧通しに手を伸ばした。
震える手で刀を抜き放つと銀色の刀身が姿を現した。
全体に渡ってにどす黒い染みがつき、刃もところどころ欠けている。
料理経験者が見ればこんななまくらで一体どうやって料理しろと言うのか、とこめかみに青筋を浮かべることになったかもしれない。
そういう点では雪風が料理を経験したことがないのは幸運であると言えるだろう。皮肉だが。
本来であればイノシシは毛を抜き、首を落とし、内臓を取り出すという手順で解体する。
だが、そんな知識があるはずもない雪風はいきなりイノシシの腹に鎧通しを突き刺した。
そのまま鋸で木を切るように刃を前後させて腹を裂こうとする。
「うわぁっ!」
すると勢いよく血が噴き出した。それをモロに頭から浴びた雪風は驚いて尻餅をつく。
きっと妹紅はなんらかの方法で、首を落とすと同時に傷を熱で固めたのだろう。だから血が抜けていなかったのだ。
ドクドクと血を垂れ流すイノシシをしばらく見つめていた雪風だが、気を取り直して再び鎧通しを握った。
再び腹を裂き始めるが、さっきほど血が噴き出ることはなかった。
そのまま腹を裂き終わった雪風だが、そこでこのままでは食べれないと悟ったのだろう。
今度は腰のあたりに背面から刀を入れた。
相変わらず切れないが、鋸の容量で骨のない場所を少しずつ切り離していく。
どれくらいそうしていただろうか。
切り離した肉ブロックを刀に突き刺した雪風はそれを焚き火にかざした。
毛抜きをしていなかった為、イノシシの毛が焼ける悪臭が洞窟内にたちこめる。
雪風が大きく咳込んでいると耐えられなかったのか、妹紅が洞窟を出て行った。
それを見送った雪風は再び肉を日にかざす。
しばらくすると悪臭はなくなり肉がいい感じの色になってきた。
無意識に唾を飲み込む。
まだ生焼けな部分もあったが、我慢できるはずもなく夢中でかぶりついた。
イノシシをそのまま焼くと独特の癖があるのだが、そんなことはまるで気にならなかった。
ただひたすらに、夢中で肉を食う。
いつの間にか雪風は泣いていた。
安全な場所に来て空腹を満たしたことで逃避していた現実に一気に襲われたのだろう。
涙が止まらない。
最初は小さなしゃくり上げであったが、それは次第に大きく、赤子のような泣き方に変わっていく。
何も考えずにただひたすらに泣く。
洞窟内に反響した泣き声はより大きくなって夜の森に消えていった。
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ふと、何百年も前のことを思い出した。
あの時の自分もこんな風に泣いていた。
洞窟の外にある岩の上に座り天を見上げていた妹紅は思う。
最初は本当に面倒だった。
偶然助けてしまったせいでその後の面倒まで見る羽目になった。
やっと解放されたと思ったらなんとまた戻ってきたではないか。
今年は厄年なのだろうか、と本気で考えもした。
今でも勿論面倒だ。面倒なことは嫌いだ。
だが、と妹紅は続ける。
あの子は私に似ている。
奇しくも、孤独という点で。
不老不死になったばかりの頃、私は毎日のように泣いていた。
その孤独に耐えられず、背負った業の重さに耐えられず。
当時の私と今の雪風の何が違うと言うのだろうか。
確かに悲劇としての重さは違うだろう。
だが、同じ悲劇であることに変わりはない。
私がもし見捨てれば、あの子はきっと、いや確実に数日のうちに命を落とすことになるだろう。
私には関係のないことだ。
あの子が死んだところで私にはなんの不利益もない。
だが…
だが、あの子を見捨てるというのは何百年も前に泣いていた私を否定するのと同じだ。
私は今までずっと逃げていた。
孤独から。世界から。自分の業から。
最初は世界から逃げた。
世界から逃げて身を隠し続けた。
次は自分の業のから逃げた。
自分を正当化するかのように手当たり次第に妖怪を狩り続けた。
そして今は孤独から逃げ続けている。
孤独の中に身を置き、1人で何もせず日々を過ごすことでまた自分を正当化している。
私は、まだ逃げるのか?
あの子を見捨て、また何も変わらない日々を永遠に生き続けるのか?
自然に拳に力が入り、骨がミシミシと音を立てた。
違う。
もう自分に嘘をつき続けるのは終わりだ。
この世に生を授かってから9百年弱。
ようやく重い腰をあげる時が来たのだ。